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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

「悪名」の追認ー松本健一氏『昭和史を陰で動かした男』令和二年六月二十七日(土)★★☆☆☆

松本健一氏『昭和史を陰で動かした男ー忘れられたアジテーター五百木瓢亭』(新潮社、2012年)★★☆☆☆

 

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子規庵

松本健一氏の本であるし、新潮選書であるし、落ち着いた深緑の装丁であるし、何と言っても主題は正岡子規が嘱望した第一の弟子であり、頭山満の衣鉢を継いだ「慢性的憂国患者」を扱ったというから、すごく期待していた。だが、一読後残念。

 

革新的ナショナリズム北一輝中野正剛ら)の観点を摂取した上での話であるが、松本氏は五百木のことを「エスノセントリズム」、「排外主義」、「日本帝国主義のイデオローグ」(p.255)、「露骨な日本帝国主義の代弁者」(p.260)、「狂信的」(346頁)、「国体イデオローグ」(345頁)などと規定し、近現代から今日まで日本の歩みを批判する際に登場する紋切り型で締めくくる。要するに、帝国主義にまで発達した日本ナショナリズムと歩を同じうした人物との批判である。革新的な超国家主義者らの観点から、伝統的な国体主義者五百木良三を批判するというものである。

 

「五百木の「本質的なる日本思潮」とは、昭和のファシズム=革命の思想とは無縁の、明治の対外硬そのままのエスノセントリズム(自民族中心主義)にほかならない」(353-354頁)

 

ならば松本氏が五百木の評伝を書く必要がどこにあるのか。いや、松本氏が調べたうえで、本当にそうだったのなら仕方ないのだが・・・。

 

俳句といい、医学といい、もっと何か深みのありそうな人物なのではないかという感が働く。これは鬼平風の「勘働き」だがな。

 

過去記事:五百木と同じく頭山満門下で、戦後禅僧になった大森曹玄氏のことを書いた拙い過去記事をご覧いただければ幸いである。大森曹玄氏がどれだけ実り豊かな思想を内包していたのかを見ると、五百木にも様々な可能性を宿していたのではないかと思いたい。

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資料上の苦言

前半こそ五百木の『従軍日記』からの引用がほとんどを占めるが、後半に引用される資料として、五百木本人の文章がほとんどない。『瓢亭句日記』以外では『日本及び日本人』の五百木追悼号か、『近衛日記』がほとんどなのである。

したがってこの本を読んでも、読者は五百木その人の声よりも、五百木の知人の評価を聞かされることになる。もちろん松本氏にも言い分はあるだろう。

 

 「五百木が残した著作物は、『瓢亭句日記』(昭和三十三年刊)があるばかりで、そこに収録された俳句は詞書がなければ何の事件に関わっているのか、ほとんどわからない」(253頁)。

 

でも資料発掘の情熱も、先入観を覆すという面でも、「小ヒムラー」とも、「日本思想界の独裁者」とも呼ばれた軍人・鈴木庫三少佐を描いた佐藤卓己氏の『言論統制ー情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書1759、2004年)に及ばない。

 

松本氏の著作だからといっても、これが五百木良三本の決定版ではないなと思った。

 

 

 過去記事:本書を購入した経緯は、下の過去記事を見られたい。

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副産物としては

丸山眞男の父親が丸山幹治というジャーナリストであることは知っていた。知った当時は、明治のジャーナリストに興味がなかった。だが、陸羯南を知ったあとには『日本』を支えた政論家に断然興味が湧いてきた。だから、丸山眞男の登場がもっと日本の思想的伝統に内在したものだという神経が発達してきた。「政論家・丸山眞男」への興味である。

「五百木が三宅系の井上亀六に代わって政教社の社長に就任したのが、昭和四年九月のことだった。井上亀六はすでにふれたとおり、丸山眞男の母の異母兄である。丸山の父・幹治もかつては新聞『日本』の記者をつとめ、その結婚媒酌人が三宅雪嶺だった。つまり丸山一家は、政教社の三宅雪嶺グループに連なっていたわけだ」(313頁)。

 

 

 

入り身ー『次代へつなぐ 葦津珍彦の精神と思想』ー令和二年六年四日(金)

入り身ー『次代へつなぐ 葦津珍彦の精神と思想』ー令和二年六年四日(金)

「本を読むときに普通の人との読み方と違ふのは、彼は「この場に俺がゐたら、俺ならどうするか」という思ひといふか、問ひを常に抱いて読んでゐた」(『次代へつなぐ 葦津珍彦の精神と思想』神社新報社、平成二十四年、214頁。「彼」とは葦津珍彦氏のこと)

 

葦津珍彦(あしづ うずひこ)氏といえば、我が国近現代の神道思想家である。

 

大学時代、神社新報社から出ている葦津氏の選集を1冊(第二巻)購入し、以後その史論・人物論については最大の信頼を置いてきた。顔見知りとなっていた生協の女性店員は、「すごい高い本ですね」と言っていた。何か新興宗教の本と勘違いされていたのかも知れない。

 

前にも書いたが、中学の時の日露戦争の授業は、反対者としての幸徳秋水の賛美であったと記憶しているし、小学校の時は、直訴した者としての田中正造が尊敬する人物になるように教育を受けた記憶もある。幸徳でも田中でもいい。でもその方向だけが人間の誠実さを表わすと見るならば、それは偏狭なのである。

 

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それはそれとして。葦津氏は大学教育や研究者になるための教育を受けた男ではない。独学者の系譜にあたる者だが、それ以上に当時の様々な人物に会う中で鍛えられていった人物なのだと思う。葦津氏を見ていると、研究機関に属していないと嘆いている自分が情けなく思われる。「処士横議」こそが大事なんだなー。

 

今日届いた本なので、電車の中でざっと読んだだけだが、葦津氏が独学でどうしてあれほどまで情熱と論理を兼ね備えた文章を書けるのだろうという疑問の解答が書かれてあるように思った。それがご子息の葦津泰国氏による冒頭の「入り身」(いりみ)なのである。

 

「親父は社会科学とか、社会主義思想の本、また革命の研究など、多くの本を持ってゐましたが、これはみなその中に自分自身を投入して考へてゐた」(214頁)

 

書庫を見てみたいが、別の本の晩年の記述からは、図書館通いかと思っていた。

 

「親父はこれを「いりみ」と言ってゐましたが、漢字で書けば「入身」、武道の言葉で出てくるやうな言葉の意義が当てはまると思ひますが」(214頁)

 

私の知っている武道で「入り身」は、相手(敵手)のゾーンに深く侵入することだが、そういうことではないようだ。

 

「本の書き手の思想、世界の中に入り込んでいって、俺ならこの時にはどう決断するか、どう判断するかといふことを常に中心に考へ、読んでゆくわけです、さういふモノの見方・考え方が非常に特徴的な人物であったと思ひます」(214頁)

 

この点が葦津珍彦氏という人物を産み出していたのだな。1つ収穫のあった本である。

 

もう一つ興味深いのは、葦津氏が谷干城の乃木将軍論を批判している記述である(44頁)。陸軍士官学校谷干城は、乃木将軍の戦略的失敗を批判しているそうだが、それを葦津氏は反批判しているという。これは興味深い。

昔、福田恆存氏が旅順を訪れた紀行文(だったと思うが)、司馬遼太郎氏(?)の「乃木愚将」論への違和感を語っていたと思うが、期せずして谷干城とリンクして登場したわけである。日露戦争幸徳秋水だけで語る授業がどれほど貧困なのか。私なら谷干城伊藤博文の慎重論も踏まえて語る。

 

谷干城。ああ谷干城。何で私の人生にこんなに現れるのか。

調査に没頭したいが、コロナ後の世界で、明日職があるだけありがたいので、もうすぐ寝ます。おやすみなさい。

 

神様。私にこういう仕事を与えてください。研究がしたいんです。

毎日この仕事がしたいんです。

 

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今週手に入れた本・『昭和史を陰で動かした男ー忘れられたアジテーター五百木瓢亭』ー令和二年五月三十日(土)

今週手に入れた本・『昭和史を陰で動かした男ー忘れられたアジテーター五百木瓢亭』ほかー令和二年五月三十日(土)

 

 

COVID-19の第一波を何とか乗り切ったが、少しの体調の変化にも恐れおののく今日この頃、みなさんお元気でしょうか?

松本健一氏『昭和史を陰で動かした男ー忘れられたアジテーター五百木瓢亭』(新潮社、2012年)

福本和夫のことを書いたので、久しぶりに戦前の共産党関係のものを読みたくなって、本棚に残っていた鶴見俊輔『転向研究』(筑摩書房、1991年)を手にした。そこで近衛文麿のことにも触れられており、平泉澄との捉え方のちがいに主体的興味を惹かれた。そのことについては平泉澄鶴見俊輔近衛文麿論の比較として、今準備している

 

鶴見俊輔『転向研究』の中に五百木良三(政教社同人)が「右翼的東洋主義者」(141頁)として登場していたので、ネット検索してみると、松本健一氏が本を出していた。

そういえば、日経の書評欄での連載で佐藤卓己氏が松本健一氏のこの本について触れていたなとも思った。

 

裏表紙には

正岡子規と同郷の俳人で、子規第一の弟子と言われ、医師として日清戦争に従軍した男は、やがて俳句の世界から言論界、そして政治の舞台裏へと歩を進める。原敬暗殺、二・二六、張作霖爆殺事件など、日本が戦争へと突き進む中で果たした男の役割とは?近衛篤麿、大隈重信田中義一に近く、右翼の頭目頭山満の衣鉢を継いだ国粋的“浪人”の謎多き一生。」

 

とある。おもしろそうでしょ。

正岡子規の周辺ってやっぱりすごいね。陸羯南とか。ああいうのが一番好きだ。

松本によると、司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、正岡子規と同じ愛媛・松山出身で騎兵・海軍で活躍した秋山兄弟の日露戦争での活躍を描いた作品だが、そこには五百木瓢亭(いおき ひょうてい)こと五百木良三の名は出てこないという。松本は指摘する。

「もし五百木良三の名まえを出せば、読者にとってこの未知の人物がその後どのような人生を送ったのか、どこかで言及しなければならなくなるからだ。司馬は五百木の人生には、そうして五百木がふかく関わる暗い時代、「魔の季節」には、『坂の上の雲』では触れたくなかったのである」(75頁)

 

NHKのドラマで『坂の上の雲』が製作・上映された2010年ごろにも、司馬がこの作品を軍国主義賛美の作品と誤解されたくないとかなんとかで、なかなか映像化されなかったとかと言っていた記憶がある。

また司馬遼太郎の「暗い昭和」観をいつかしっかり考えねばならないところまで来ている。「頭山満の衣鉢を継いだ国粋的<浪人>」などに触れたくなかったということか。

大森曹玄翁も頭山満門下の禅僧なのである。

 

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まだ読んだばかりだけれども、松本氏の立ち位置も気になる。でも興味深い本。本棚に残る本だと思う。本棚を維持できるかどうかは未定だが・・・。

 

平泉澄鶴見俊輔近衛文麿論の比較もまた記事にする予定です。

 

E.H.カー(原彬久)『危機の二十年』(岩波文庫、2011年)

大学時代、国際政治か憲法学かどちらを専攻しようか迷ったが、結局法哲学に進んだ我。

国際政治には子供時代から興味があったが、学歴上というかオフィシャルな経歴として国際政治とは無縁になってしまった。

柴四朗を論じた論文に権力と正義を単純に二分し、柴が正義を希求しながらも、権力政治に屈したとの評価を与えたというような論文を読んだので、その違和感を、このあたりを読むことから考え直し始めたい。

同志社出身で早稲田で教鞭をとった浮田和民にも(かつて二次文献をざっくり眺めただけながら)『倫理的帝国主義』なる書物があり、、近年のものではマイケル・イグナティエフの『軽い帝国』(こちらは坪内祐三氏が紹介していて、翻訳本を購入した。アフガニスタン戦争あたりのアメリカの対外関与を論じた本)などもある。

帝国主義と倫理は二分法で断罪できるものなのかという疑問を考えたい。

浮田和民の『倫理的帝国主義』が文庫などで手軽に読めなくなっている現代にも一石を投じたい。出版するなどして。

 

自分はこういう仕事をしたい。お元気で。

 

 

 

 

 

 

 

福本和夫氏の田口卯吉評ー福本和夫氏『私の辞書論』(河出書房新社、1977年)よりー令和二年五月八日(金)

 福本和夫氏の田口卯吉像ー福本和夫氏『私の辞書論』よりー令和二年五月八日(金)

 

福本和夫氏と言えば、戦前の共産主義マルクス主義者として有名だ。

その人物と私にどんな接点があるというのか?

 

私は10代の頃に、立花隆日本共産党の研究』の第一巻で福本および「福本イズム」のことを知った。まだ私の思想が未分化の状態。現状打破の思想ならどんなものでも憧れを持っていたということだろうか。

 

「福本和夫は、東大政治学科を卒業後、松江高校教授となり、一九二二から二年半の間、英独仏に文部省在外研究員として留学。一九二四年(第一次共産党解党の年)に帰国して、山口高商の教授をしている人物だった」(立花隆日本共産党の研究』講談社、1983年、108頁)

 

出典を忘れたが、福本の文体が、左翼の悪文の見本となったとか何とか書いてあった記憶があり、この時点でそれ以上関心を持つことはなかった。

 

  

その後、鶴見太郎氏の柳田国男とその弟子たちー民俗学を学ぶマルクス主義者』人文書院、1998年)で、福本が柳田民俗学に深く興味を持っていたことを知った。民俗学マルクス主義なんてやっぱり面白い組み合わせだよね。処分しなきゃ良かった。書庫を作れない身の悲しさ。

 

「私が柳田国男先生に、はじめておめにかかったのは、十四年の獄をおえて出獄後のことで、鳥取県出身の橋浦康雄氏の紹介により、爾来、しばしば成城町のお宅を訪ね、すぐに大きな書斎、ぎっしり書物の整然とつまれた書斎にとおされて、したしくお話を伺った」(福本和夫氏『私の辞書論』河出書房新社、1977年、163頁)

 

 

 また大学院時代には、福本がかのフランクフルト研究所の創設に関与したとか何とかの話を読んで、自分とはスケールのちがう人物だなと思った。10代の頃はともかく、研究者の卵として考えた時に、福本に及ぶ何物もないなと気づかされた自分。

 

その後、どういうきっかけだったか忘れたが、京都の古本屋で本を見ていた時、福本和夫氏『私の辞書論』(河出書房新社、1977年)を見つけた。この本で田口卯吉が佐藤一斎の曽孫であることを初めて知った。

 「田口卯吉(一八五五~一九〇五)、名は鉉、アザナは子玉、安政二年卯年の四月卯月に生まれたので、卯吉と通称し、鼎軒と号した。幕府昌平黌の教授で「陽に朱子学、陰に陽明学」と呼ばれ、「言志四録」で知られる大儒佐藤一斎の外曽孫にあたる」(103頁)。

 

福本和夫はこの『辞書論』で卯吉と東京経済雑誌社が日本百科辞典をつくるべく努力した点を大いに評価している。

 

そう、卯吉には塙保己一の『群書類従』の活字印刷本の刊行や日本史研究の基本資料となる『国史大系』の編纂を行い、黒板勝美氏に校訂の修行の機会を提供するなど、出版事業でも我々に貢献した功績があるのである(田口親『田口卯吉』吉川弘文館、2000年、222頁以下参照)。

 

 他にも福本氏は新村出編『広辞苑』に関して、あの小池都知事が使って話題となった「アウフヘーベン」の訳語として「止揚」(しよう)よりも福本訳の「揚棄」(ようき)に重点を置いていることに感謝しているが、「日本ルネッサンス」については、

「すくなくとも日本には、寛文初年(一六六一)から嘉永三年(一八五〇)に至る百九十年にわたって、立派にルネッサンスと称すべき時期の存在したことには、まだすこしも説き及んでいない」(187頁)

と言っているのである。

いやはや福本氏から日本のことを教わる、しかも日本の立派な点を教わるなんて子供時代には想像もしていなかった。ここらへんが自分の目で思想書を読む面白さだよね。

 

さすがは「俗流マルクス主義」から自己を区別し「本来のマルクス主義の、方法論的把握と、自主的な活用」を目指した人物である(207頁)。

 

イスラームのことを視野にいれていた大川周明、日本や中国など「東洋」を視野に入れていた福本和夫。どちらも右翼や左翼の狭い世界に囲うのではなく、我々明治以降の日本人の視界を大きく広げてくれた人物だと思いたい。そういう目で見たい。

 

そのささやかな試みがこのブログである。

 

 

 

田口卯吉による東海散士『佳人之奇遇』評ー令和二年五月三日(日)

田口卯吉による東海散士佳人之奇遇』評ー令和二年五月三日(日)

 

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田口卯吉の肖像(「近代日本人の肖像」より)

田口卯吉は、明治の経世家で、幕府の儒者佐藤一斎の孫の子にあたる。卯吉の祖父慎左衛門は、佐藤一斎の長男なのだが、胆力のある豪の者だったので、儒者には向かないということで、田口家に入った(『明治文学全集14 田口鼎軒集』昭和五十二年、筑摩書房、456頁など参照)。それはそれで凄いのだと思うが。

 

田口卯吉は、日本史では『日本開化小史』の著者として知られていると思うが、エコノミストとしては自由貿易論論者だった。

 

その卯吉が明治十九年に「東京経済雑誌」に発表した「新著佳人之奇遇を讀む」を紹介する。「佳人之奇遇」が「新著」であった時代に何だか驚くが、短い文章をもっと短くする。

 

この本は天下の不平を集めたものである。スペインやアイルランドの「佳人」(美人のことなのだと思う。『新字源』には「美人」の他にも「忠義の臣」ともある)とであり、「戊辰の變」に嘆き、東洋の苦しい立場を嘆き、保護政策を唱える人物である。

全巻嘆きまくり怒りまくりの本で、そのまま書いてあるから、卯吉はびっくりする、というようなことが書いてある。

 

ただそれだけ紹介したかったのだが、佐藤一斎の長男の孫が田口卯吉であり、ムスリム同胞団などのイスラーム復興主義を調べて柴四朗(東海散士)に辿り着く。読書はおもしろいね。現代はちゃんと過去につながっているよね。戊辰戦争から9・11テロまで関係を見ることはできる。

 

現代でもTPPの問題にしても自由貿易保護貿易ということが話題になる。また記事にする予定だが、柴四朗は自由貿易による経済侵略を警戒したんだよね。

 

こういう対立はすでに明治時代に存在するのである。骨太な経世家の論説の方が面白いよね。

 

惜しいのは、このあたりの知識は現代日本人の教養から、ほとんど抜け落ちていることである。文庫本で手軽に手に入る訳でもない。

 

自分で出版社を設立して「柴四朗選集」や「柴四朗著作集」を出版してみたい。

 

必ず若い人たちにも届くと思うから。この断絶を何とかしたい。現代の駄本よりも、明治の良本が手に入る環境を作りたい。

 

以上。