入り身ー『次代へつなぐ 葦津珍彦の精神と思想』ー令和二年六年四日(金)
入り身ー『次代へつなぐ 葦津珍彦の精神と思想』ー令和二年六年四日(金)
「本を読むときに普通の人との読み方と違ふのは、彼は「この場に俺がゐたら、俺ならどうするか」という思ひといふか、問ひを常に抱いて読んでゐた」(『次代へつなぐ 葦津珍彦の精神と思想』神社新報社、平成二十四年、214頁。「彼」とは葦津珍彦氏のこと)
葦津珍彦(あしづ うずひこ)氏といえば、我が国近現代の神道思想家である。
大学時代、神社新報社から出ている葦津氏の選集を1冊(第二巻)購入し、以後その史論・人物論については最大の信頼を置いてきた。顔見知りとなっていた生協の女性店員は、「すごい高い本ですね」と言っていた。何か新興宗教の本と勘違いされていたのかも知れない。
前にも書いたが、中学の時の日露戦争の授業は、反対者としての幸徳秋水の賛美であったと記憶しているし、小学校の時は、直訴した者としての田中正造が尊敬する人物になるように教育を受けた記憶もある。幸徳でも田中でもいい。でもその方向だけが人間の誠実さを表わすと見るならば、それは偏狭なのである。
それはそれとして。葦津氏は大学教育や研究者になるための教育を受けた男ではない。独学者の系譜にあたる者だが、それ以上に当時の様々な人物に会う中で鍛えられていった人物なのだと思う。葦津氏を見ていると、研究機関に属していないと嘆いている自分が情けなく思われる。「処士横議」こそが大事なんだなー。
今日届いた本なので、電車の中でざっと読んだだけだが、葦津氏が独学でどうしてあれほどまで情熱と論理を兼ね備えた文章を書けるのだろうという疑問の解答が書かれてあるように思った。それがご子息の葦津泰国氏による冒頭の「入り身」(いりみ)なのである。
「親父は社会科学とか、社会主義思想の本、また革命の研究など、多くの本を持ってゐましたが、これはみなその中に自分自身を投入して考へてゐた」(214頁)
書庫を見てみたいが、別の本の晩年の記述からは、図書館通いかと思っていた。
「親父はこれを「いりみ」と言ってゐましたが、漢字で書けば「入身」、武道の言葉で出てくるやうな言葉の意義が当てはまると思ひますが」(214頁)
私の知っている武道で「入り身」は、相手(敵手)のゾーンに深く侵入することだが、そういうことではないようだ。
「本の書き手の思想、世界の中に入り込んでいって、俺ならこの時にはどう決断するか、どう判断するかといふことを常に中心に考へ、読んでゆくわけです、さういふモノの見方・考え方が非常に特徴的な人物であったと思ひます」(214頁)
この点が葦津珍彦氏という人物を産み出していたのだな。1つ収穫のあった本である。
もう一つ興味深いのは、葦津氏が谷干城の乃木将軍論を批判している記述である(44頁)。陸軍士官学校で谷干城は、乃木将軍の戦略的失敗を批判しているそうだが、それを葦津氏は反批判しているという。これは興味深い。
昔、福田恆存氏が旅順を訪れた紀行文(だったと思うが)、司馬遼太郎氏(?)の「乃木愚将」論への違和感を語っていたと思うが、期せずして谷干城とリンクして登場したわけである。日露戦争を幸徳秋水だけで語る授業がどれほど貧困なのか。私なら谷干城や伊藤博文の慎重論も踏まえて語る。
調査に没頭したいが、コロナ後の世界で、明日職があるだけありがたいので、もうすぐ寝ます。おやすみなさい。
神様。私にこういう仕事を与えてください。研究がしたいんです。
毎日この仕事がしたいんです。