Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

養老孟司氏『AI支配でヒトは死ぬ』ー本日買ったものー令和三年十月三日(日)夏のような晴れ

養老孟司氏『AI支配でヒトは死ぬ』ー本日買ったものー令和三年十月三日(日)夏のような晴れ

養老孟司氏『AI支配でヒトは死ぬ』

滞事を一掃し、新たなことにも取り組んでいる今日この頃。

朝から動いていました。

 

さて、先日「表現者クライテリオン」のHPを見ていたら、養老孟司氏の本の紹介がしてあったのですが、単なる書評かと思っていたら、表現者クライテリオンのメールマガジンが縁で、編集委員浜崎洋介氏が聞き手になって、この本の初出となる原稿ができたという。「タコツボ型」の日本社会では、こちらで有名であっても、あちらとどう結びついているのか分かりにくいことが多い。でもあの養老孟司氏が、表現者クライテリオンと接点があったのかと思った。

 

とはいえ、最近はこういう即興で書かれた対談本を購入することには極度に慎重になっている。一に金銭の問題、二に置き場所の問題、三に処分の問題があるからだ。

 

だが目次を見て、共鳴できそうな箇所があると踏んで、購入を決意した。

表現者クライテリオンとの「縁」」

「保守思想と西部邁

「国語と自然ー養老孟司福田恆存

「「身体」に耳を傾けること」

「「構造理解」が苦手な日本人」

「一年半ぶりの再会ーコロナと不要不急」

「ワクチンと安全保障」

「「戦前」を反復する「戦後」ー国民を飢えさせる政府」

「解剖学と保守思想」

「解剖学と被差別」

複雑系とカオス」

「虫好きな日本人」

 

こういう小項目が並んでいる。ちょっと保守系の言葉が目につくが、私としてはむしろ「解剖学」や「虫」など普段接しない話題に刺激を受けたいと思った。人生で諦めずに「解剖学」を人生で学ぶ機会を作りたい。

 

もう購入しました。

そしてもう1冊購入したのは、

Foo Fightersの1stアルバムのバンドスコア。

知らない方もいるかも知れないが、Foo FightersというのはNIRVANAのドラマーのデイブ・グロールが結成したロック・バンド。この映像でドラムを叩いているのが、デイブ。

www.youtube.com

1stの雰囲気は例えばこんな曲。でも自分は"For  all the cows"が好きだった。"For  all the cows"を聴いた時、自分の中の何かが終わったと思った。まだローティーンに過ぎなかったけど、そう思った。

www.youtube.com

私は1995年のIMPホールでのライブに行った。95年のライブでは、まだ発表前の2ndの"Enough Space"もやっていたと記憶している。このあたりの曲はすごいよね。3rdあたりから聴かなくなった。私の関心が徐々に移っていったというより、手の届かない外国よりも身近な友達に合わせて音楽を聴いてしまっていた。情けない日々。でも次に進むために必要だった。

 

10代と40代が同居している私。

これから自分はどこに行くのだろう。

 

Foo Fighters

Foo Fighters

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(これはCDアルバムです。)

 

 

「酔生夢死の生涯をおくるなかれ」ー平田精耕『禅からの発想ー自由自在に生きる』ー令和三年八月二十六日(木)

「酔生夢死の生涯をおくるなかれ」ー平田精耕『禅からの発想ー自由自在に生きる』ー令和三年八月二十六日(木)

 

「一つの道に、あるいは一つの仕事に阿難のごとく二十年、三十年と打ち込む。そうして苦労に苦労を重ねてこそ初めて一つのことが身につくのです。それこそ最良の人生ではないでしょうか。」(平田精耕『禅からの発想ー自由自在に生きる』(禅文化研究所、昭和57年、181頁)

 

平田精耕氏は、天龍寺派の禅僧。

 

世尊=釈迦に対し、外道(仏教以外の学説を説く者)が、常見論と断見論についての見解を伺う。常見論とは、この世は唯一絶対神のあらわれだと説く見解(正統バラモン派)で、断見論とは一切の現象は原子からなっていると説く見解(インド古典唯物論)のことである。(171頁~172頁)。

この問いに対し、お釈迦様は常見論と断見論をともに否定したので、外道がさらに「仏教の真理とは何か」を問うた。お釈迦様は沈黙したのである。

  

ここで気になるのは、釈迦と外道のこの問答を聞いていた阿難(あなん。仏弟子)のことである。

 

この沈黙の意味を外道は即座に分かったという。しかし、仏弟子の阿難は二十年の修行にもかかわらず、分からなかったという。

 

私は不遜にもこの阿難尊者に自己を重ね合わせて見てしまうのである。

 

すぐに理解した外道。仏弟子なのに理解できなかった阿難。

 

この逸話に関する無門のコメントを引いて、平田氏は「阿難には仏の教え身に深くしみこんでいました。そのためにかえって瞬時にわからなかったといえるかもしれません」(179頁)という。

 

傍から見ている方が当事者よりもよく分かることがある「傍目八目」(おかめはちもく)も役に立つことがあると認めつつも、「本職としている当事者の真剣さには局外者はかないません」ともいう。だから平田氏は弟子に「プロの禅僧になれ」と教えるという(181頁)。

 

そして冒頭の言葉が続くのである。

 

「一つの道に、あるいは一つの仕事に阿難のごとく二十年、三十年と打ち込む。そうして苦労に苦労を重ねてこそ初めて一つのことが身につくのです。それこそ最良の人生ではないでしょうか。」

 

二十年苦労してようやく悟りを得た阿難は、一瞬のうちに悟った外道とは違い、仏教のプロです。悟りに至るまでの時間は外道の方が極端に短かったが、仏教にかける熱意、修行に対する真剣さ、その努力ははるかにプロである阿難が上です」(181頁、太字引用者)。

 

この箇所を読んで涙が出そうになるのである。十数年修行して何の成果が出なかった自分だけれども。

 

でも、心に刺さる一言もある。

 

「プロに徹し切れない、なんとなくアルバイトのままで人生を終わってしまう・・・こんな気分が現代社会には強いようです」(同頁)

 

あらゆる夢破れて、何年になるだろう。

日々をしのぐ生活を送り、「プロに徹し切れない」日々。

足元を見られる人生。ああ、俺のことだ。

 

自由自在に生きたい。

 

 

 

 

 

三浦雅士氏『身体の零度―何が近代を成立させたか』ー令和三年七月三十一日(土)酷暑

三浦雅士氏『身体の零度―何が近代を成立させたか』ー令和三年七月三十一日(土)酷暑

「古代文化のなかでは、競技がつねに神に捧げられた祝祭の一部をなし、幸をもたらす神聖な儀礼として、不可欠なものとされていた。この祭祀との関連が、現代のスポーツではすっかり失われてしまった。スポーツは完全に奉献性なきものと化し、また、たとえ政府権力によってその実施が指示された場合でさえも、もう何ら社会の構造と有機的な繋がりをもたないものになってしまった。それはなにか実りを生む共同社会の精神の一因子というより、むしろただ闘技的本能だけの、孤立的な表れなのだ。」(ホイジンガホモ・ルーデンス中公文庫プレミアム、457頁より)

 

 東京オリンピック2020の真っ最中。この間の四連休には、ヒマができたので物の処分や部屋の整理をしていた。本棚にあった三浦雅士『身体の零度―何が近代を成立させたか』(講談社選書メチエ、1994年)を久しぶりに手に取った。

 

表紙の文言によれば、本書は「東西の豊富な文献を駆使し、泣きかた・笑いかた・行進・舞踏など人間の表情や動作にたちむかう」「そして、身体へのまなざしの変容こそが、近代の起点であることをあざやかに検証する」「社会史・思想史のなかに、身体を位置づけた力作」ということだ。

 

私はこの本で武智鉄二という名を初めて知り、彼に剣道自慢の三島由紀夫が「ナンバ歩き」が難しいと言っていたというエピソードがあることも初めて知った(三浦・131頁)。

武道で知っている人がいるかもしれないが、「ナンバ歩き」というのは「右足と同時に右手が出、左足と同時に左足が出る歩き方」のことである(三浦・132頁)。かつて日本人はそのような歩き方をしていたのだが、近代化とともに身体レベルで変容が起こったという。

 

今回、この本の第六章「体育」をざっくり読み返した、得るところがあった。それが三浦氏が引用しているホイジンガの言葉である。

 

三浦氏によるとホイジンガが言いたかったこととは、「遊戯としてのスポーツには含まれていたコスモロジカルな要素が、近代スポーツからは脱落してしまった」ということであり、「遊戯」というのは「宇宙と人間の関係を告知するもの」であり、「人間の生と死がどのようにこの宇宙とかかわっているかを告知する」のであるという(三浦・238頁)。

 

このことに関連して、解きほぐせた言葉がある。それは長い間気になっていた保田與重郎の下の言葉である。

保田與重郎も『祖国正論』所収の「オリムピツク選手派遣を中止せよ」(昭和二十五年)で言う。

 

一秒の何分の一を争ったり、身長の何分の一の前後を争ったりすることに、何か重大な意義があるとおもふのは、近代の興行意識と賭博心理を根拠とする、おそろしい近代の迷信だ。封建の武術試合なら多少重大な意味もある」(『祖国正論』新学社、二〇〇二年、167頁。太字引用者)。

 

保田は当時貧困に陥っているわが国が、大勢の選手を派遣するようなことはしない方がいいと主張する。近代スポーツを批判する時、その理由として「近代の興行意識と賭博心理」を挙げているが、事はそう単純ではなく、三浦氏が著作の他の章で語っているような広がりを持つものだと思う。保田の短いが深い意味のある言葉だけでなく、三浦のように社会史、文化史に広がるような領域が必要なのである。

 

私なりの言葉も交えて語ると、近代は時間・空間の均一化の時代である。

 

「オリンピックは、少なくとも理念として、均質な空間と均質な時間」を前提としており、「均質化され近代化された身体」を前提している(三浦・237頁)。

 

「オリンピック選手は、より速く走り、より高く跳び、より強く戦う。だが、彼らの戦う場所は、特定の地上においてではもはやない」。

 

だから選手が競技している空間は、「まさに抽象的な座標空間」においてであり、一方そこで選手の身体は、我々が高校以来習うような数直線上であらわされる「抽象的な座標点のひとつ」になるのである(三浦・239頁)。

 

近代の特徴が、画一化・規格化・中央集権化などにあるということはすでに語られていることだろう。そして近代という時代は、欧米によって特徴づけられた時代なのだから、「それこそがヨーロッパの流布した身体」なのであるという。

 

長い間気になっていた保田與重郎の言葉を解きほぐし、理解を深めることができた。保田も「近代」と「封建」という言葉を使っていた。もっと「近代」を語らねばならない。

 

オリンピックを見る楽しみと読書の楽しみがここにあった。

 

 ホモ・ルーデンスには、私の知る限り2つの翻訳があるが、三浦氏は第章の参考文献表でこちらを挙げていた。

 

ブログ開設4周年記念 ―これからの方向性、あるいは人生の残骸―令和三年七月二十二日(木)真夏

ブログ開設4周年記念 ―これからの方向性、あるいは人生の残骸―令和三年七月二十二日(木)真夏

 

神は俺にいつもダサい役割を与える

いつもダサい役ばかり こんな人生

あと何年生きるか知らないが、始めたブログも4年経った

 

過去いろいろ書いたけど 思想性のない単なる日経まとめや英語の話題、単なるジム系の話などはもうやめる。

 

書きかけのまま放置した記事も多いが、思想性のある記事を書いていきたい。

思想、音楽、翻訳。そして自分の言葉。

こういうのものを中心に書いていく。

 

俺が俺になった証明。俺の生きてきた意味。

それを書き残すんだ。好きな過去記事を選んだから、それを見るとこれからの方向性が見えてくる。 

 

俺の好きな過去記事:

自分ではタイトルも含めて気に入っている記事。リチャード・ライトに関する英語の記事に端を発し、子規、五百木瓢亭、頭山満ゲーリー・シュナイダー、ケルアックなどの「奇縁マンダラ」的世界。こういう時の自分が好きだ。 

book-zazen.hatenablog.com

これは俺が現代に感じている窒息感を表現した詩だ。

book-zazen.hatenablog.com

 アジア主義への興味関心が、やはり自分の本拠地か?

book-zazen.hatenablog.com

 自分が考えてきたのはこういうことだ。 

book-zazen.hatenablog.com

こういうことも考えてきたのだ。

book-zazen.hatenablog.com

 これだって私のテリトリー。 

book-zazen.hatenablog.com

 

でも、現代に生きている自分としては、音楽やファッションを楽みたいよね!

 

book-zazen.hatenablog.com

 だって、俺の出発点は音楽好きからなんだから。

book-zazen.hatenablog.com

そしてこれが俺の本を読むときの前提。

 book-zazen.hatenablog.com

 こういう方向で、これから記事を書き進めて行きます。

 

見たい人だけ見てください。以上。

 

 

 

 

 

 

Yohei論語「全力を出し切れたか」ー令和三年七月十日(土)くもり時々晴れ

Yohei論語「全力を出し切れたか」ー令和三年七月十日(土)くもり時々晴れ

 

40年以上生きてきた自分の人生の感想としてまとめるYohei論語

本で得られた知識じゃなく、体得してきた言葉を残して置こうと思う。

 

 「全力を出し切れたか」

人生こうなりたいという夢や希望がある。

 

でも必ずしも叶わなかったことの方が多かった。

 

勝ち負けで言えば、負けの方が多い。

 

そんな時は、つい負けたことにばかり気を取られるだろう。

 

でも大事なことは、1つ1つの場面で全力を出し切れたかどうかなのである。

 

人生、いくら良い働きをしても、認められないこともあるし、評価されないこともある。

 

だから、勝敗も大事だが、それは一旦わきに置いて、自分の持っている力を100パーセント出せたか、自分の可能性の最大限を表現できたかの方が重要なのである。

 

 

勝敗は時の運。だが、自分の100パーセントを出し切らないと勝利は見えてこない。

自分の100パーセントを出し切らないで勝ったところで、次につながらない。

 

 

あいつが勝っているところを見るのは苦しい。死にたくなる。

でも、自分の人生の100パーセントを出すところに勝利が見えてくる。

 

だから、勝敗はいったん、わきに置いておき、自分の可能性を最大限に発揮できるように努力しよう。

 

そこに自分の人生の勝利、自分なりの人生の勝利が見えてくるのである。