福本和夫氏の田口卯吉像ー福本和夫氏『私の辞書論』よりー令和二年五月八日(金)
福本和夫氏と言えば、戦前の共産主義、マルクス主義者として有名だ。
その人物と私にどんな接点があるというのか?
私は10代の頃に、立花隆氏の『日本共産党の研究』の第一巻で福本および「福本イズム」のことを知った。まだ私の思想が未分化の状態。現状打破の思想ならどんなものでも憧れを持っていたということだろうか。
「福本和夫は、東大政治学科を卒業後、松江高校教授となり、一九二二から二年半の間、英独仏に文部省在外研究員として留学。一九二四年(第一次共産党解党の年)に帰国して、山口高商の教授をしている人物だった」(立花隆『日本共産党の研究』講談社、1983年、108頁)
出典を忘れたが、福本の文体が、左翼の悪文の見本となったとか何とか書いてあった記憶があり、この時点でそれ以上関心を持つことはなかった。
その後、鶴見太郎氏の『柳田国男とその弟子たちー民俗学を学ぶマルクス主義者』(人文書院、1998年)で、福本が柳田民俗学に深く興味を持っていたことを知った。民俗学とマルクス主義なんてやっぱり面白い組み合わせだよね。処分しなきゃ良かった。書庫を作れない身の悲しさ。
「私が柳田国男先生に、はじめておめにかかったのは、十四年の獄をおえて出獄後のことで、鳥取県出身の橋浦康雄氏の紹介により、爾来、しばしば成城町のお宅を訪ね、すぐに大きな書斎、ぎっしり書物の整然とつまれた書斎にとおされて、したしくお話を伺った」(福本和夫氏『私の辞書論』河出書房新社、1977年、163頁)
また大学院時代には、福本がかのフランクフルト研究所の創設に関与したとか何とかの話を読んで、自分とはスケールのちがう人物だなと思った。10代の頃はともかく、研究者の卵として考えた時に、福本に及ぶ何物もないなと気づかされた自分。
その後、どういうきっかけだったか忘れたが、京都の古本屋で本を見ていた時、福本和夫氏『私の辞書論』(河出書房新社、1977年)を見つけた。この本で田口卯吉が佐藤一斎の曽孫であることを初めて知った。
「田口卯吉(一八五五~一九〇五)、名は鉉、アザナは子玉、安政二年卯年の四月卯月に生まれたので、卯吉と通称し、鼎軒と号した。幕府昌平黌の教授で「陽に朱子学、陰に陽明学」と呼ばれ、「言志四録」で知られる大儒佐藤一斎の外曽孫にあたる」(103頁)。
福本和夫はこの『辞書論』で卯吉と東京経済雑誌社が日本百科辞典をつくるべく努力した点を大いに評価している。
そう、卯吉には塙保己一の『群書類従』の活字印刷本の刊行や日本史研究の基本資料となる『国史大系』の編纂を行い、黒板勝美氏に校訂の修行の機会を提供するなど、出版事業でも我々に貢献した功績があるのである(田口親『田口卯吉』吉川弘文館、2000年、222頁以下参照)。
他にも福本氏は新村出編『広辞苑』に関して、あの小池都知事が使って話題となった「アウフヘーベン」の訳語として「止揚」(しよう)よりも福本訳の「揚棄」(ようき)に重点を置いていることに感謝しているが、「日本ルネッサンス」については、
「すくなくとも日本には、寛文初年(一六六一)から嘉永三年(一八五〇)に至る百九十年にわたって、立派にルネッサンスと称すべき時期の存在したことには、まだすこしも説き及んでいない」(187頁)
と言っているのである。
いやはや福本氏から日本のことを教わる、しかも日本の立派な点を教わるなんて子供時代には想像もしていなかった。ここらへんが自分の目で思想書を読む面白さだよね。
さすがは「俗流マルクス主義」から自己を区別し「本来のマルクス主義の、方法論的把握と、自主的な活用」を目指した人物である(207頁)。
イスラームのことを視野にいれていた大川周明、日本や中国など「東洋」を視野に入れていた福本和夫。どちらも右翼や左翼の狭い世界に囲うのではなく、我々明治以降の日本人の視界を大きく広げてくれた人物だと思いたい。そういう目で見たい。
そのささやかな試みがこのブログである。