Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

榎本武揚と害虫ー『近代日本の万能人・榎本武揚より』令和5年12月15日(金)

榎本武揚と害虫ー『近代日本の万能人 榎本武揚より』令和5年12月15日(金)

 

最近、浜松旅行の途中から更新できていませんが、この間にも名古屋旅行にも行ってきました。

 

★家人からくれぐれも「トコジラミ」を持ち帰らないように言われて、樟脳のオイルを購入したり、ホテル内でパッケージングを工夫したり(荷物をビニール袋に入れるなど)大変でした。

 

★昔いた虫ということだったので、昔の偉人も苦労したのかなと思っていたところ、たまたま読み返した榎本武揚の本で、榎本も苦労したという記録が残っていて興味深かったので紹介する。

 

『近代日本の万能人 榎本武揚より』(藤原書店

木村汎「「恐露病」の克服」(128頁~)

・「榎本武揚にとり、シベリア旅行中の最大の敵は何だったのか?」「それは、毎夜きまって訪れる南京虫の襲来であった」(128頁)

 

・榎本が著わした『西比利亜日記』(シベリア日記)に少なくとも8か所に南京虫の記述が登場するそうだ。他にも、蚊、蝿、ブヨ、蜂にも悩まされたという。

「かつて函館五稜郭の雄、武揚も、これらの害虫にたいしてはまったくのお手上げ受胎だったらしい。」(129頁)

 

・榎本のシベリア横断旅行は、在ペテルブルク日本公使館付けの特命全権大使として1875年に樺太・千島交換条約を締結し、在任5年間を終えた後のことであった。楽な船旅を選ばず、2か月以上かけてシベリアを横断して帰国した背景には、今にもロシアが攻めてくるのではないかという「恐露病」の克服にあったのではないかと著者の木村氏は見ている。(130頁)

・我が国近現代のために、シベリアの地勢、政治、経済、軍事、風俗、人情などを観察してきた榎本武揚。でも害虫ほどの難敵はいなかった。

 

そしてまさかその害虫が今話題になるなんて。人間が生存する条件ってのは、そんなに変わるものじゃないと思った次第です。

 

※補足:

そういえば、安倍公房が榎本武揚を題材に小説を書いていたな~。

実存主義的なイメージの安部公房新選組の土方などとも接点のあった榎本。どんな作品だったのだろう?余裕があるときに取り組んでみよう。

 

 

 

 

www.ndl.go.jp

源流紀行☆浜松篇 三 遠州鉄道~天竜浜名湖線 令和五年八月某日 晴れ

源流紀行☆浜松篇 三 遠州鉄道天竜浜名湖線  令和五年八月某日 晴れ

浜松駅前

浜松駅前はおしゃれだ。駅前にはJRと浜名湖線が走っている。

カフェのプロントなどもあってシャレオツだ。

だがあまりに暑すぎて、アイスの自販機もほとんど売り切れ。グレープを食べたかったのだけど、チョコチップになった。(おいしいからいいけど、フルーティーなものを食べたかった。)

遠州鉄道は、路面電車っぽい雰囲気の路線で、現地の人の生活の足。

浜松からまずは西鹿島まで各駅停車で目指します。そこから天竜二俣に行くつもりだ。

西鹿島駅

西鹿島駅に着きました。ここから天竜二俣には、天竜浜名湖線に乗り替えないといけない。30分ぐらいの待ち時間が発生。今日はめちゃ暑いので、熱中症にならないか心配なのです。旅行中に熱が出る事だけは避けたいので安静にしておきます。

すぐ近くにコンビニがあるのが救いです。トイレもすぐです。

外国人も住んでいます。

天竜二俣駅は、『シン・エヴァンゲリオン』に関係する場所らしく、ファンらしき色白で眼鏡をかけた美人の女性も天竜浜名湖線を探していた。何せ天浜線は、この遠州鉄道の裏側にあり、地下道を通って行くのだから無理もない。駅員さに尋ねてちゃんと見つかったみたい。良かった。

 

天竜二俣

西鹿島から5分ぐらい。天竜二俣に来たのはいいのだが、暑すぎて限界。天竜川まで歩いていける体調ではない。5分ぐらいいて、すぐに電車に戻りました。

外ではトロッコで遊ぶ子供や、エヴァンゲリオン好きな感じの人が集まる中で、電車に戻ったですが、そこも暑過ぎたのです。駅舎にラーメン屋があり、いい香りなのですが、そこも暑過ぎたとです。(しかも時間外であった。)

 

もう倒れそうだけどここまで来たからには、「遠州森」まで向かうぞ!

もう本当に暑い。天浜線の車内も暑い。

 

 

源流紀行☆浜松篇 二 賀茂真淵記念館 令和五年八月某日 晴れ

源流紀行☆浜松篇 二 賀茂真淵記念館  令和五年八月某日 晴れ

賀茂真淵記念館 側壁より

遠鉄バスの「鴨江坂上」という停留所で下車したものの、スマホGoogle Map頼りに移動し始めた。このあたりは住宅街のようだ。浜松も日差しがとても暑い。冷却タオルを持ってこなかったのは失敗だった。しかも道を間違えて遠回り。どこなんだい?

 

25分ぐらい歩いてようやく到着。地元の中学生が夏休みの宿題の話をしながら通り過ぎていく。彼らにとっては当たり前の施設なんだろうな。

 

HPで見ていた時は、本居宣長記念館より、熱意や学術度が劣るのかとも思っていたが、そうでもなかった。本居宣長記念館と比べると、展示スペースが小さいとは言えるだろう。

 

まず入館すると、学習ビデオを上映してもらい、その後、平常展の解説を学芸員がしてくれたのである。

 

館内

自分のためのメモ

賀茂真淵だけに和歌の話が多い。だが、私はイデオロギーや世界観に興味を以て生きてきた。だから平田篤胤のような人物の方に興味があると思った。

松尾多勢子。何度も出てくる名前。坂本是丸氏の本で読んだぐらいだが、自分の信念の基づき、生き、行動した人物。何度も出てくる。

・江戸時代。専門の研究者は少なく、みな家業を持ち学問をした。自分も言い訳はできない。昔の日本人はほとんどそうだったのだから。

・解説員の方がうまく解説してくれた。帰ってきてから調べて見ると、学校の先生だったとのこと。定年退職後、記念館に来たとのこと。武道も長年されているとのこと。

→1つのことに定年まで取り組んだ職業人生と、長年武道を続けて、今は国学者の記念館で解説員をやっているという人生。自分には手に入らなかった人生。

 

⇒私のこの人生、この情熱、今まで積み上げたもの、これからの人生、そしてあの世に行く前に何を成し遂げればいいのか。

 

隣の敷地にある縣居神社にも参拝した。縣居神社には熊谷真美さんが浜松に移り住んだというような話が書かれてあった。いいね!来た道とは反対の道、つまり勾配のきつい坂を下った。

勾配のきつい坂道

 

坂を下ると賀茂真淵の生誕地があり、またそこからバス停の方向へ2~3分歩くと真淵の父が神官をやっていたという加茂神社があった。昨年の飛騨の護国神社もそうだったのだが、名のある神社に行っても、教化されるような文字資料がなく、さびれた様子であるのは残念だ。文字資料だけが教化なのではないのだろうが、

加茂神社

倒れそうに暑かったので、すぐバス停に戻って、次の目的地に向かおうとしたのだが、記念館でもらったクリアファイルとその資料があって手ぶらになれない。そこで一度ホテルまで戻って、預かってもらっているリュックに資料を入れに戻ることにした。

 

遠回りかも知れないが、置いていく訳にはいかないので、戻ります。

 

 

 

源流紀行☆浜松篇 令和五年八月某日 晴れ

源流紀行 浜松篇① 令和五年八月某日 晴れ

浜松を選んだ理由。

今年の夏は、旅行先として浜松を選んだ。

賀茂真淵の生まれ故郷だからだ。

前回、本居宣長記念館に行った時にも書いたが、名前だけ知っていて、詳しく知らない人物ことが多いからだ。伊勢に行った気持ちのまま、浜松に行きたいと思い、浜松を選んだ。

JR浜松駅

浜松駅の前は、都会であり、遠州鉄道なので、「遠鉄百貨店」などがあった。

浜松駅前

徳川家康

 

徳川家康が青年期から中年期にかけて過ごした町である浜松。

いまはヤマハ、河合、スズキなどの企業が本社を置いていることで有名であり、駅中にグランドピアノが置いてあるなど独特の街。

でも町中を歩いていると、一見南米系の人がすごく多い。自動車工場などで働いているブラジルが9000人近くいる町でもある。

今回、賀茂真淵記念館以外の行き先をまだ決めていません。

www.chunichi.co.jp

 

hamamatsu-ieyasu.com

 

源流紀行 八 番外編 令和五年七月七日(金)晴れ

源流紀行 八 番外編 令和五年七月七日(金)晴れ

 

伊勢神宮の内宮は、食事面でも楽しい。

てこね寿司

おかげ横丁は見ているだけでも楽しいです。

そのひぐらし