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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

エピタフのチラシ&C言語12・13回目ー令和元年6月15日(土)雨

エピタフのチラシ&C言語12・13回目ー令和元年6月15日(土)雨

 

C言語12・13回目。コンパイルの事など学んで、一通りの学習を終えた。

 

習う前は、組み込みエンジニアの初心者レベルぐらいにはいくのかと思っていたが、自力で問題演習を解くのが難しく、とてもそこまでいけていない。

 

ただプログラミングを読むことはある程度のレベルにまで達した。だから、これから自分で少しずつ進めて行けば、少しは向上していくだろう。

 

それにC言語をやったことで、他の言語の理解が容易になる可能性もある。C言語から派生したものではなくても、C学習でできた枠組みから、比較できるし、物事を考えることができるようになったのは大きな収穫であろう。

 

CD屋に行った。試聴器にBAD RELIGIONの"AGE OF UNREASON"があり、彼らの所属するエピタフというレーベルのチラシがあった。

 

私が10代の頃は、GREEN DAY, NOFX, OFF SPRING, BAD RELIGION, RANCIDなど日本で「メロコア」と呼ばれたバンドが、洋楽では人気があった。高校の時のバンド仲間周辺でもGREEN DAYや日本のSNAIL LAMP, HI-STANDARDなど人気があった。

 

あれから20年以上経った。チラシの写真を見るとBAD RELIGIONのメンバーなどはもうお爺さんに見えるし、RANCIDは中年になっている。ヴォーカルのTim(だったっけ?)は、現在でもカッコいい。イメージとしては故山本キッド氏のような風貌といったらよいだろうか。

 

外部リンク:エピタフ・レコード(ここから写真を見てくれ)**********

BAD RELIGION & RANCIDの経歴ページへ飛びます。

http://epitaph.com/artists/bad-religion/bio

http://epitaph.com/artists/rancid/bio

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チラシによると、BAD RELIGIONの"AGE OF UNREASON"は、17枚目の新作で、

現代社会の抱える様々な問題、人種差別、トランプ政権問題、中流階級崩壊、コリン・キャパニックの抗議等をテーマにした”反理性の時代”に対するアンチテーゼ及び警告であり、きわめてアグレッシヴな作品に仕上がっている」という。

(「THIS IS Epitaph2019」より。コリン・キャパニックはアメリカの人種差別を理由として、国歌斉唱の時に起立せずに抗議の意思を表したアメフト選手とのこと。

BBC(外部リンク):https://www.bbc.com/japanese/45404559参照)

 

またBAD RELIGIONについては、「結成以来、ヒューマニズム、そして個人主義を支持する、政治性の強いパンクバンドとして活動してきた。このような価値観が崩れていき、偏狭なナショナリズムが高まって行くこの時代だからこそ、彼らのメッセージはより重みをもって我々の胸に突き刺さるのかもしれない」(「THIS IS Epitaph2019」より)と述べられている。

 

10代の頃に、DEAD KENNEDYSや西海岸のパンクバンドを手が届く範囲内で聴いていた自分であったが、20代、30代を経た今、このパンフにあるような素朴な進歩的理念、反権力・反体制的態度に共感することはない。いや既に10代の頃からそうだったのだろう。

 

「偏狭なナショナリズム」といっても、どのグループのことを指すのか?ナショナリズムはいつも偏狭なのだろうか(彼らはそんなことを言っていないって?)。グローバリズムについてはどう考えるのだろうか?トランプはダメならば、ヒラリーはいいのか?いやサンダースなのかな?個人主義ならばリバタリアンなのかな?リベラリズムについてはどう考えるのかな?

 

10代に聴いていた音楽。もはや共感していない。でもその道筋をしっかり説明できる作品を私は残していない。何を言っても、遠吠えになってしまう。

 

だから自分は10代の頃聴いていた音楽と20代、30代の人生経験や読書体験から得た自分を統合するような本を書きたい(英語と日本語で)。出してくれる所はないから、これから自分のブログに発表していくだろう(お金と時間の許す限り)。

 

自分の生きてきた証なのだから。

 

でもいまでもエピタフ系の音楽は好きだ。試聴器で聴いてしまうぐらい。何だそりゃ?

でも、音楽性を抜きにしたむき出しの政治的主張には賛成しないかも知れない。

 

自分なりの表現で作品を作らないと。

 

 

<最近購入した本>

GEORGE H.NASH "THE CONSERVATIVE INTELLECTUAL MOVEMENT IN AMERICA SINCE 1945"(ISI BOOKS,1976. reprint 2017)

(『1945年以降のアメリカにおける保守思想運動』、未邦訳(だと思う))

*会田弘継氏の『追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫、2016年)の冒頭で紹介されていた本。まだ翻訳はないという事だが、2000円ぐらいだったので(ポイントがあったから)、買いました。ちなみに会田氏の本は、パンクバンド周辺では気持ち悪がられる対象でしかない「キリスト教原理主義」なども、頭のおかしな人扱いせずに解説している。

聴いたり読んだりするなら、西海岸のパンクバンドだけではなく、私の育った環境では触れられることの少なかったアメリカの「保守」の思想も侮蔑と嫌悪の対象にするだけでなく、その思想と行動をしっかり見ないと、かえって自分が偏見を持っていることを告白しているにすぎなくなってしまうと思う。

同じナッシュ(だと思うが)が編集にかかわったと思われるアメリカ大統領ハーバート・フーバーの『裏切られた自由』は渡辺惣樹氏が翻訳している。渡辺氏は、学者・研究者ではなかったと思うが、大著を翻訳し、読者に提供している。見習わねば。言い訳していてはダメだな。トホホ。

 

早稲田大学ビジネススクール『ビジネスマンの基礎知識としてのMBA入門』(日経BP社、2012年)

ビジネススクール憧れは捨てると言ったのに、よりよい仕事をしようと思えば関係してくる。少し古いがおもしろそうなので購入。

苦言を一言。「はじめに」では「ビジネスパーソン」と書いているが、タイトルには「ビジネスマン」とある。私はPC的な指摘を自分の人生でしたいと思わないし、思想的に共感したくはないが、このご時世で不用意だと思う。まあ、女性が職場で「~マン」と言っているのを何度も聞いたこともあるけども。でも最初から「ビジネスパーソン」としておけば、くだらない摩擦を起こさずに済むのではないか。思想闘争の場ではないのだから。

 

 

book-zazen.hatenablog.com

 

池谷敏郎氏『内臓脂肪を落とす最強メソッド』(東洋経済新報社、2019年)

*私はいろいろ書いているけど、いつの間にか中年になっている。あー、恐ろしい。若いころみたいに思想や音楽だけじゃなく、健康も大事なのです。素直に耳を傾ける歳になってきました。

 

 

日本にもあったという際の方法論についてー『ケインズに先駆けた日本人ー山田方谷』ー令和元年6月14日(金)くもり

ケインズに先駆けた日本人ー山田方谷』ー令和元年6月14日(金)くもり

「英国のケインズが「雇用・利子および貨幣の一般理論」を上梓した一九三六年にさかのぼることほぼ一世紀前、ケインズの不況対策の独創理論は、別人によってすでに完成していた。のみならず、その理論を自ら実証してみせた日本の超人的財政家がいたのである。その人の名は山田方谷」(矢吹邦彦『ケインズに先駆けた日本人ー山田方谷明徳出版社、平成十年、1頁)

 

こういった文章に接したときに読者の方は、どう思われるだろうか。素朴に感動するのだろうか、それとも誇張のあるお国自慢に過ぎないと思うのだろうか。私の場合、日本の事を掘り下げてもらいたいという気持ちは一緒だが、それを支える方法論や得られた結論を表現する際の用意周到さに欠けてはいけないと思う。これが私の感覚である。

 

 以前に私は、滋賀の鉄砲師・国友一貫斎について書いた記事の中で、なぜ我々は西洋近代由来の学問を、日本の大学でするのだろうかという問題を少し書いた。この問題をうまく描いたと私が考える清水幾多郎氏の文章を引用していた。


book-zazen.hatenablog.com

 

清水幾多郎氏は、『論文の書き方』岩波書店、1959年)の中で、興味深い体験を述べている。自国の言語で大学などの高等教育が営まれ得るか否かという問題に触れた後で、経済学について以下のように述べている。

 

「かつて、私は徳川時代経済書数篇をまとめて読んだことがある。私が読んだものを年代順に挙げると、太宰春台(一六八〇年ー一七四七年)の『経済録』(一七二九年)、三浦梅園(一七二三年ー一七八九年)の『価原』(一七七三年)、海保青陵(一七七五年ー一八二七年)の『升小談』(一七八九年より稍稍後)、中井履軒(一七三二年ー一八一六年)の『均田茅議』(?)、佐藤信淵(一七六九年ー一八五〇年)の『物価余論』(一八三八年)、神田孝平(一八三〇年ー一八九八年)の『農商辯』(一八六一年)。」(162頁)

 

「最初の太宰春台の『経済録』から最後の神田孝平の『農商辯』までの間には約百三十年の時間がある。そして、この期間は、西洋で古典派経済学が成立し、発展し、完成するのに必要であった九十年という時間を含んでいる」(同頁)。

 

「ところが、古典派経済学が成立し、発展し、完成した期間を軽く包み込む百三十年ではあるが『経済録』から『農商辯』まで読んで行く私にしてみると、終始同じ濃い液体の中で呼吸しているような感じがする。」(162頁‐163頁)。

 

「それが提出している特殊な諸問題の実践的解決法であるからである。何処まで行っても、現実的、具体的、特殊的、個別的、実践的である。(中略)現実の所与を突き抜けるというか、とにかく、抽象という乾いた世界へ向かって冒険を企てていない。」(163頁)。

 

「乾いた観念のシステムは、日本の経済論の内部からでなく、やがて、西洋から輸入された経済学説によって提供された」(163頁)。

 

 兆民が「日本に哲学なし」と言ったのは有名だが、哲学に限らず、我が国の歴史は科学、宗教など「あった」と言えるのかどうなのか考えたくなることがあるだろう。まあ、宗教は仏教など根付いているにしても、哲学や科学はどう考えたらいいのだろうか。

 

冒頭の文章については、経済政策として自由放任ではなく、何らかの財政政策や金融政策を発動するという発想という点で見れば、山田方谷に限らず、日本いや世界のどの国や社会にもあったのではないかと思う。だから、「ケインズの不況対策の独創理論」や「ケインズ革命」とは何かということを厳密に定義し、さらにその定義の正当化を行った上で、論じるという方法論の部分が大事であるし、得られた結論に対して、そのテーゼをいかに防衛するかという観点から表現なされないといけないだろう。どんなものであれ、日本にそんなものはありえないと考える人々の反論を予想しつつである。

 

偉そうなことを書いたが、現時点では私はどちらもできていない(しかもまだ冒頭しか読んでいない)。ただ問題意識として明確にしておき、時機が来たら、片付けるつもりだ。

 

ケインズに先駆けた日本人

ケインズに先駆けた日本人

 

 

 

夢の残骸4 特殊講義・アジア主義ー令和元年6月14日(金)くもり

夢の残骸4 特殊講義・アジア主義ー令和元年6月14日(金)くもり

 

大学時代、授業の枠内で面白かったものと言えば、アジア主義の特殊講義だった。変わった先生が担当していて、そのキャラも面白かった。

 

大学・大学院時代の講義ノートや資料はほとんど捨ててしまったが、これは残っている。人間関係もいろいろあったが、痛快な授業でもあった。

 

授業では、竹内好の「日本のアジア主義」を輪読した。分担を決めて、レジュメを作った。また福澤諭吉の「脱亜論」も読んだ。こちらはどういう風に授業が進んだのかは、記憶にない。レジュメに読んだ後だけが残っている。

 

当時私は、日本の近現代の史論について、葦津珍彦氏の影響下にあったと思う。だから日露戦争に関しては、内田良平の立場に強い関心を抱いていた。

 

中学時代、日本の近現代の歴史の犯罪的側面ばかりを強調していた歴史の教員がいた(中学に限らず、そんな教育だったと感じていた)。ちょうど日露戦争の回では、幸徳秋水の非戦論を強調して、その素晴らしさを讃えていたと記憶している(他には文化祭の展示で日本の戦争犯罪のパネル展をやっていたとも記憶する)。内田良平など出てこようはずもなく、また内田の「露西亜亡国論」が直ちに発禁となったことなど、葦津氏の著作(葦津珍彦選集 第二巻』神社新報社、平成八年、「明治思想史における右翼と左翼の源流」156頁以下参照。)に触れるまで、知らなかったし、知ることができる知的環境になかった。

 

さらに伊藤博文や国粋派の将軍で谷秦山の子孫たる谷干城が日露開戦に反対していたことも葦津氏の著作で知った(葦津・上掲書、155頁参照)。

 

*葦津氏の「明治思想史における右翼と左翼の源流」という論文は、何度読み返しても見事な腕前の史論であり、日本語でしか読めないとしたら、もったいない。私の英語学習の目標は、こういう論文を英語に翻訳することにあると言いたい。また内田良平伊藤博文谷干城の見解の違いは、さらに探求せねばならないと感じる。

 

あの授業から、もう10年以上経った。船橋洋一氏のシンクタンク本を読んだから、外交や国際戦略のことを知りたい気持ちが再燃して、岡崎久彦氏の『戦略的思考とは何か』を買い直して、再読した。

 

意外や意外。今の私には、こちらの方が興味深く感じられるようになってしまった。

 

もともと自分はアジア主義的な立ち位置であると考えていた。そんな私が新英米派の外交官として有名で、イラク戦争の時にはアメリカ追従で、保守派の中でも、評判を落とした(?)岡崎氏の著作に、あらためて啓発されるとは。

 

岡崎氏は、『戦略的思考とは何か』(中公新書700、1983年)の中で、日清戦争以降の日本の国家戦略としてのアジア主義の可能性という問題に触れて、

 

「最後に日本の戦略論という観点から、永遠の疑問として残るのは、アジア主義の問題です」(44頁)

 

と問題提起するが、結論として、

 

「民間の論説にはアジア主義はいろいろあるのですが、両国政府の公式文書を見るかぎり、結論からいってその可能性は皆無だったといえます」(45頁。「両国」というのは、日中両国の事を指し、その提携の可能性の事を岡崎氏は論じている。)

 

日本が列強の一員として振る舞った結果を知っている現在の我々は、日本が近代化の進んでいない清・韓を支援し、日・清・韓が連合して欧米列強に対抗するという選択肢の方が良かったと、義侠心から、罪悪感から考えるかも知れない。でも、そのような方向は、理論的的に考えることができても、現実性はなかったと岡崎氏によって結論づけられる。

 

「一般的に弱者同盟というものは力の上であまりプラスにならないうえに、強者を「しゃらくさい真似をする」と言って怒らせて、危険が増大するおそれがあります」(46頁)。

 

アジア主義というものが実現しなかったのは、現実の諸力を有していなかったからだと結論づけられる。日英同盟も日本が力をつけることによって初めて可能となったのだから、そのような点を見よという訳である。

 

この歳になってみて岡崎氏の『戦略的思考とは何か』を読み返していて、興味を惹かれるのは、日露戦争当時の伊藤博文や元老らは「親英」ではなく、「親露」だとされているような点である(78頁)。

 

大東亜戦争後の北方領土侵攻やシベリア抑留などを知る我々としては意外に感じられるが、伊藤らが再三再度日露戦争に踏み切るのを止めようとしたのは、勝てない戦争をして、日本国を危機に陥れてはいけないという思いからだったのだろう。その点、やはり幕末の難局をくぐり抜けて、日本の歴史伝統に上に、先進的な明治国家を作り上げて、産みの苦しみを経験した伊藤らは、すごいというべきなのだろうか。

 

幸徳秋水を取り上げるだけの授業では分からないのである。(内田良平を取り上げても分からないではないかと反論されそうだが、内田良平を良い意味で取り上げる学校の歴史教育は、私には想像がつかない環境である。そんな思想の流れは、私の通った学校にはないも同然だったのである)。

 

それにしても伊藤博文は、幕末の長州に生まれて、どうやってこれだけの見識を身に付けたのだろうか。いまの大学でも国際政治学はあるが、これだけの人物は偶然にしか生まれないのだろうか。

 

伊藤博文については瀧井一博氏『伊藤博文ー知の政治家』(中公新書2051、2010年)や、現在読書中の伊藤之雄氏の『伊藤博文ー近代日本を創った男』(講談社学術文庫2286、2015年。原本は2009年)などで学んでいる。

 

瀧井氏のものは「伊藤はナショナリズムに重きを置かない政治家だった」(瀧井・上掲書、321頁)など、私の先入観とは異なる伊藤像を提示している。

 

伊藤氏の方は「軽佻浮薄」、「保守反動」、「節度を欠く」女好きなどといった従来像よりも、日本の近代を作り上げ、厳しい国際環境の中で、日本を大事に育て上げた伊藤公の人物を伝えている。

 

あれから10年以上、経済、地位、勢力、国力など現実を動かしている諸力を見て生きているせいかも知れないが、伊藤博文らの国際戦略の方に興味が移ってきたのである。

 

さらに勉強を続けないといけない。

 

窒息ー苛立つ人に苛立つー永井均氏『<魂>に対する態度』(勁草書房、1991年)ー令和元年6月12日(水)

窒息ー苛立つ人に苛立つー永井均氏『<魂>に対する態度』(勁草書房、1991年)ー令和元年6月12日(水)

「真なる言説と善なる言説は必然的に一致するという、プラトニズムからその大衆版としてのキリスト教をへて現代のフランクフルト学派にまで通じる「敬虔なる嘘」を、最初に見破った思想家はもちろんニーチェであった」(「ポスト<道徳>的文化の展望」3頁)。

 

ポストモダン論争を始めとする現代の諸論争は、煎じ詰めれば、この状況下でどちらの可能性に賭けるかー善なる嘘か邪悪なる真理かーをめぐる論争だ、と見ることができるからである」(「哲学の極限」46頁)。

 

高校の時、『ヴィトゲンシュタイン入門』を読んで以降、十代が終わるまで、永井均氏の諸著作にのめり込んだと記憶する。でも、だんだんその興味を封印してきた人生だったと思う。やはりその頃、ギターを弾き音楽を聴くのをやめたように。

 

「他の点では時としてニーチェ以上にニーチェ的に過激である現代のニーチェアンたちが、この点に関しては根底的な議論を提出しないように見えるのは何故だろか」(6頁。「この点」とは、「道徳そのものにとって本質的なある部分」のことを指す)。

 

「今日の世界は、表層でのポスト・モダンの流行現象等々にもかかわらず、ある面からいえば、道徳主義的世界解釈が神聖にして侵すべからざるものとして君臨している世界である」(永井均氏『ルサンチマンの哲学』河出書房新社、1997年。102頁)。

 

「そのことに疑問を呈するためどころか、そのことを認識するための概念的手段(語彙)すら奪われているこの悲惨な(しかそれを悲惨と感じることさえ許されない)現状に対して、私は本稿においてささやかな抵抗を試みたつもりである」(同書・102頁)

 

C言語教室の後に、大型書店の人文書コーナーを歩いていると窒息しそうになる。永井氏の近くに置いてある著者(大学の研究者がほとんどである)や、対談などで親しいひとも含めて、彼・彼女らは本当にこのような問題を通過してきた人たちなのだろうか。「向き合う」べきのは、社会問題なのだろうか?

 

結局、安倍政権批判や日本社会の後進性批判ぐらいでしかない。見かけ上のラディカルさ(という程でもないが・・)でしかない。本を出し、影響を与えてしまっていいような人物なのだろうか。「若者受け」しそうなものとか。若い時、どんな生き方をしてきたのか分からないような人物。大学の勉強で「ラディカル」になることと、若い時に自己を掘り下げたかどうかはちがう。自己を掘り下げた人物が、今の社会で必ずしも本を出版するような立場に多くいないだけだ。

 

ブログにもいる。「~こそが真の保守」とか。「逆にこれこそ愛国心」とか。「新の保守」とかどうでもいい。「逆」を言えばいいってものでもない。それより、どんな立場でも根本的に掘り下げた人、根底的な者へめがけて行った人、自己を掘り下げていった人の方がおもしろい。外山恒一氏とか永井均氏とか。もちろん、著作と作者の魅力は一致しないことの方が多いが。

 

人間の共同体を結ぶ古い道徳に罵詈雑言・嘲笑が浴びせかけられて、見かけ上ラディカルな論者ばかり。別種の道徳に窒息させられる社会。

 

大型書店の人文書コーナーを歩くと窒息させられる。「善なる嘘」に。「邪悪なる真理」を喝破したふりに。

 

 

 

 

「魂」に対する態度

「魂」に対する態度

 

 

 

ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

 

 

 

 

最近気になる人ー映画監督・演出家・押井守氏ー令和元年6月9日(日)

最近気になる人ー映画監督・演出家・押井守氏ー令和元年6月9日(日)

 

「私はナショナリストでも右翼でもないけれども、自分のアイデンティティに「日本」が入りこんでいることも感じています」(『Voice』平成30年9月号、132頁)

 

昨年の論壇誌の記事で恐縮であるが、気になっていたので書き残しておく。

 

押井守氏の名前は当然知っていた。アニメ作品の関係者と思っていた。『機動警察パトレイバー』、『GOHST IN THE SHELL/攻殻機動隊』などを監督したという。

 

その押井氏のインタビューが『Voice』という月刊誌に掲載されていたので、読んでいた。

 

記事では、押井氏が「国際リニアコライダー(ILC)」を誘致するサポーターという組織の発起人になった動機や経緯などが語られている。

表現者としての自己に集中するために、社会運動には関与しないという立場を貫いてきた氏であったが、近未来を舞台にした作品を作ってきた者として日本社会に恩返ししようと思い、ILCの誘致に参加することに決めたという。活動の結果、大友克洋氏のような漫画家も賛同してくれたという。

 

押井氏は、実利ばかり追い求める現代日本に、何の役に立つのか分からないプロジェクトを追いかける夢の大切さを語る。

 

その原動力となったのが、冒頭の発言にあった日本人としてのアイデンティティなのである。

 

宇宙の事であれば、別に日本人である自分にこだわる必要はないだろうし、またそのような観点から反論されそうではあるが、氏は日本人としての自分と宇宙や世界(招致が成功すると、そのまわりに外国からの研究者・関係者のコミュニティができる)を結びつけている点で、私好みの人である。

 

「伝統は非合理的な側面もありますが、昔から紡がれ、守られてきたことには、役に立つか否かを超えて「四の五のいわずに従うこと」自体に何かしらの意味や価値がある。若いうちはまったく気付きませんでしたが、この歳になってそれを実感しています」(133頁)

 

世界的な映画監督なのに西部邁氏の著作に共感するなどの点で、世界的に成功する日本人によくある、日本や日本人を見下す発言をする態度とは、一線を画する。

 

大学で「日本○○」の教授と名乗っていても、日本や日本人の背負って来た運命や歴史に対する敬意を感じない人がいる。一方で、タツノコプロ出身の押井氏が、多彩な才能から、バランスの取れている発言を行う。権威を信用してはいけないのである。たとえ「日本○○」の教授と名乗っていても。

 

最近気になる人、押井守氏。エッセイや評論の本も出しているようだから、これから読んで見よう。私の本棚が、一層多様になっていくだろう。

 

本離れ、出版不況など、どこの世界の話だろうか。人生で本だけが増えていく。