Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

中島らも氏『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(集英社文庫、1997年) 令和二年八月二日(日)晴れ

中島らも氏『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(集英社文庫、1997年) 令和二年八月二日(日)晴れ

 

休日を利用して、福田和也氏の著作をまとめようとしていたが、まとめきれなかったので、休憩に中島らも氏の『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(集英社文庫、1997年)について書かせてもらう(「らも氏」って似合わないので、以下、「中島らも」と書かせてもらいます)。

 

本書は中島らもの前半生をエピソードとともに綴った伝記エッセイなのであるが、原著は1994年に出ていた。それを私は1996年ごろに図書館から借りて読んでいたと思う。中島の少年期から就職までを描いていた。当時の私にとって大学や就職もずっと先のことに感じていた。いや、ずっと先だと思いたかったのだ。いや、永遠に来なければいいと思っていたのだった。

 

「みんなが」就職するような年齢から、約20年。取り残されて生きて来た私(このブログの筆者)。本当に身心がおかしくなりそうな毎日。「何で俺だけが」と思う毎日。嫌悪感が体内に充満する毎日。それでも生計を立てるために、ポーカーフェイスで職場に通っている。「こんな時期に仕事があるだけましだろ!?」って自分に言い聞かせながら・・・。だが、もう1つの可能性というか、可能性の閉じ方があったんだ。

 

それは「第四章 モラトリアムの闇」の「浪々の身 3」にある。「モラトリアム」というのは「猶予期間」のことで、転じて「就職するまでのブラブラ期」、「一人前になるまでのためらい傷の時間」みたいな意味に使われる。つまり、まだ大人になりたくない期間という訳だ。

 

中島が浪人をしていた時のことである。

「鬱々として過ごしていた浪人の年の半ばに、やはり浪人をしていた友人の一人が自殺をした」(p.192)。

 

「あれから十八年が過ぎて、僕たちはちょうど彼がなくなった歳の倍の年月を生きたことになる」(p.193)。

 

「かつてのロック少年たちも今では、喫茶店のおしぼりで耳の穴をふいたりするような「おっさん」になった。(中略)薄汚れたこの世界に住み暮らして、年々薄汚れていく身としては、先に死んでしまった人間から嘲笑されているような気になることもある」(同頁)。

 

私の場合、これまでの自分に嘲笑されている感じがする。今までの努力は全部否定された。生計を立てていくためには、若い時に思ったこととはちがうことをしなければならないとが毎日だ。誰も助けてくれない。

 

仕事のストレスでへとへとになって腐臭を放っていく中年オヤジになっていく自分。ストレスで髪の毛が後退しないかヒヤヒヤしている毎日。

 

そんな毎日の中でも、「生きていてよかったと思う夜がある」と中島は言う。

 

「一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける。だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う」(p.193)。

 

俺も探そうと思ったよ。そんな瞬間を。でもコロナのこんな時期にどんな愉しみがあるっていうんだい?

 

「あんまりあわてるから損をするんだ、わかったか、とそう思うのだ」(同頁)

 

いや、もう駄目だ。明日からまた人生を全否定された、血反吐を吐く日々。合掌。

 

中島らもでも会社で働いていた期間がある。どんな風にやり過ごしていたんだろうと思って読み始めたけれど、もう慌てても間に合わないような年齢になってしまった。年齢なんか関係ないのだけでも、企業社会では関係がある。企業で働かないと、生計が立てて行けない。

 

もう手遅れか・・・。合掌。

 

 

 

 

 

 

 

書評・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年)① 序について

書評・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年)① 序について

Book review, Kazuya Fukuda "Strange Ruins: Genealogy and Collaboration of Anti-modernism in France" (Kokusho Publishing, 1989. Japanese)

 

購入動機

生活人として生きている私。一日の大半を興味のない仕事に費やし、ビジネス書や実用書も読んでいる。このような生活で、もはや文学、特にフランスの文学や思想を知りたくなることはないだろうと思っていた。

だが、エズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)を知ったことがきっかけで、文学や詩への興味が再燃した。とりわけエズラ・パウンドアメリカで生まれながら、ムッソリーニの側に与し、その後連合国に捉われ、精神病院にも入れられる人生を送った。

 

パウンドは単なる奇人ではない。原成吉氏の『アメリカ現代詩入門ーエズラ・パウンドからボブ・ディランまで』(勉誠出版、2020年)によるとエズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)は「古英語の士、中世トルヴァドールの吟遊詩人の作品、日本の能、唐時代の詩、『論語』など翻訳(翻案)し、現代に蘇えらせた」(39頁)人物であるという。

 

福田氏のこの本では、パウンドにも影響を与えた、シャルル・モーラスのことが論じられているので、機が熟したと考え、購入を決意。読み返すこと二度目の最中に、これを書いている。

 

全体は七章からなっており、各章では個別の人物についての記述がなされている。それに先立ってこの「序」では、「コラボトゥール」を論じる前提として、ファシズムと文学・思想について論じるのである。

 

まず本書において「コラボトゥール」あるいは「コラボ」とは、第二次大戦期フランスにおいて「思想・信条から主体的にナチス=ドイツと手を結んだ作家」(13頁)のことである。

 

彼らは祖国への裏切りを行ったのか。いや。「「民族」や文化、伝統の総体としての祖国をかれらが裏切ったとは到底いえない」(12頁)。

 

非人道的行為のお先棒を担いだのだろうか。それはイエスだ。「かれらはナチズムとの共同をおこなったことで、近代史の最も忌まわしい一連の人物として銘記」されているのである。

 

では彼らはドイツへの迎合を行った人物なのだろうか。そうではない。彼らは自己の思想・信条に基づいて決断しており、ドイツの風下に立ったと言われることを拒んだだろう。

 

彼らの思想の背景には、フランスの反近代・反ヒューマニズムの流れがある。「黙示録的な崩壊ののちにあるべき再生」を求めていたのである。

 

彼らは主流でないにしても、フランス文学史のある種の流れの正統な後継者なのである。それは1944年のパリ解放とともに命脈を絶たれたように見えるが、戦後のフランスにも生きているのである。どういうことだろうか。

 

その例として福田氏は、「構造主義記号論フーコーデリダといった系譜に対して隠然として精神的支柱、後見人の役を果たしてきた」モーリス・ブランショの名を挙げる(13頁~)。

 

ブランショは後に取り上げるシャルル・モーラスの影響の下、思想家としての道を歩み始めたのである。単なる若気の至りではないのである。

 

デリダが反ヒューマニズムを語るときに依拠するハイデガーや、ハイデガーによるヘーゲルニーチェの読解と戦後のブランショの立場は極めて近いものである」(14頁)

 

ハイデガーの哲学的立場は近代的な価値を相対化しようとしたシャルル・モーラスやコラボ作家たちの反近代主義とそれほど遠いものではなく、現在ではこのハイデガーを通じて、コラボの文学者とブランショは、そして戦前フランスの反近代主義と戦後の思想はつながっているとも考えられる」(14頁)。

 

戦後フランスでハイデガー解釈として発表される反近代主義は、戦前のフランスでも確かに存在していたのであり、それは哲学というよりも、文学の領域でのことだったのである。

 

とはいえ、アウシュビッツを極みとするユダヤ人への迫害に加担した、ルバテやブラジャックの文学は、作品世界と作者の人物を切り離し、文学の世界だけを論じるという「消毒」は不可能なのである。というのも、彼らの文学と政治行動は結び付いているからである(15頁)。

 

このようなコラボ作家の文学にどのような態度をとればよいのだろうか。福田氏は次の二つを並べる。

(1)封印すること

(2)「ヒューマニズムと近代に反逆し、そして歴史との格闘の末に行きづまり、自暴自棄な闘いに身をゆだねて地獄に堕ちた、極めて興味深くまんざら現在の課題に役に立たなくもない文学・思想として捉える」(17頁)こと

 

そして、自身は後者を選択する。

「ブラジャックのような知性がなぜホロコーストに加担したのかという問いは、一種のスキャンダル、知的好奇心をそそるばかりではなく、封印のうえに再びヒューマニズムを建てることを試みるのとは異なり、真の問いかけを「近代」に対してうみだしうるはずなのである」(17頁)

 

福田氏は、『ハイデガーナチズム』でハイデガーのナチ加担が「軽微な政治的過誤」などではなく、本質的なものであったことを扱ったヴィクトル・ファリアスが巻き起こした論争に触れて、「ハイデガーとナチズムの関係は、コラボ作家の文学の基本的なプロブレマティークと同じ構造をもっている」(18頁)という。

 

コラボ作家にはなかった戦後の人生を、ハイデガーは長らく生きたのだから、コラボ作家を扱う上で役に立つのであると福田氏はいう。そしてナチに加担した哲学者ハイデガーとナチから迫害された詩人ツェランの関係を睨みつつ、福田氏がコラボ作家を論じる位置を確保しようと試みるのである。

 

マルティン・ハイデガーパウル・ツェランは、ナチスユダヤ民族に加えた蛮行をはさんで正反対の位置にありながら、ジェノサイドと全体主義の本質を前にして、虐殺と圧政にみちた現実よりもさらなる深淵への到達を詩作=思索する者の課題とすることにおいて一致して結び付いた」(30頁)

「ここでハイデガーツェランが到達した地点が、小著がコラボ作家を論じる位置であり、またいうならば一種のアリバイである」(同頁)。

 

このように論じ、コラボ作家らがハイデガー以上に道義的非難にさらされるべき人物としながらも、その作品の中には、なおも読むべきものが「ホロコーストの彼岸からも読むべき何かが含まれている」(30頁)とするのである。

 

ここからコラボ作家らが位置するフランスの反近代主義文学の一連の作家(アルチュール・ド・ゴビノー、モーリス・バレス、シャルル・モーラス、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル、ロベール・ブラジャック、リュシアン・ルバテ、ロジェ、ニミエ)らを論じていくのである。

 

(続く)To be continued

 

<予告>

第一章では、アルチュール・ド・ゴビノーが取り上げられる。

今村仁司氏編集の『現代思想を読む事典』(講談社、1988年)の「人種差別」の項目には、アルチュール・ド・ゴビノーは「ナチズムの人種政策を準備した人物」として名前が挙げられている(337頁。項目執筆者は桜井哲夫氏)。果たして福田氏は、どのように扱っているのだろうか。

 

*私はこの事典を高校の時に購入し、2、3年前に処分し、また買い直した。福田氏の著作を読んで刺激されたからである。

 

<課題>

現代思想冒険者シリーズの『デリダ』や、酒井健氏の『バタイユ入門』、中山元氏の『フーコー入門』(これは高校の時に読んだ)など、フランス現代思想の解説本は少し読んだことがあったし、高橋哲哉氏の『逆光のロゴス』や『記憶のエチカ』など、それっぽい日本語の著作は読んだことがあった(2回買って2回とも捨てたので、もう手元にはない浅田彰氏の『構造と力』もあった)。とはいえ、私はロシアの文豪ドストエフスキーの作品は何冊か読んだけど、フランス文学といえばアナトール・フランスの『神々は渇く』のみだった。これからスタンダールからウルリッヒ・ベックなど、比較的多めにフランス文学に触れ行きたい。何だったらこだわりをもたず、私の人生や態度に全然重ならないジャン・ジュネ伝なども読んで見たい。

 

・文学と政治の問題を読んで、「禅と戦争」という問題を思いだした。大森曹玄氏との関係で書き残したいテーマである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祝!累計10000人突破(Grand Total Over10000 PV for 3 years)!ーこれからの抱負みたいなー令和二年七月十九日(日)

 祝!累計10000人突破!ーこれからの抱負みたいなー令和二年七月十九日(日)

 

祝!累計10000人突破!

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 

Grand Total Over10000 PV for 3 years.

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約3年前、日常生活のどうしようもなさから、これまでの人生を整理するために書き始めたこのブログ"Book Zazen"。

About three years ago, this blog "Book Zazen" was started to sort out or bury my  past life because of the miserable life.

 

20代以降は、本の前で坐禅して来たみたいな人生だと思って、付けたタイトル。

In my twenties, I thought it was like living in a zazen style in front of a book.

So I choose this title "BOOK ZAZEN". It's my original.

しびれた足でつまずいた人生みたいな

 My feet numb....

 

これからの記事の内容

 

・やっぱりメインは本について書く。思想系。

・次に音楽。本を読む前は、音楽が好きだったから。

・その合流地点として、英語・アメリカ現代詩や歌詞に触れて生きていけたらいいな。

 

Contents of future articles
・Mainly, I write about books. Thought and Philosophy.
・Next is music. Before I was crazy about books, I love music, especially Grunge or Alternative music in America.
・It would be great if I could live by touching English and American contemporary poetry and lyrics as a meeting point(Thought and Music, Japan and America(Western)).

 

 さらに充実させます。

・思想系は、連想記事ではなく、しっかり内容を論じること。

⇒時間がないことを言い訳にしない。昔の偉人だってそうだっただろ。誰もが、専従の研究者だったわけではない。今の自分に学問の時間を作れば、それが学者だ。それでいい。

 

Further enrich.
・Disscuss the contents firmly, not associative articles.
⇒ Don't make excuses for not having time. I think so was the old great man. Not everyone was a full-time researcher. If you give yourself some time to study, that is a scholar. That's fine.

 

 

<本日購入した本>

福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年)

福田和也氏のことは当然知っていたし、雑誌の対談・小論等は読んだことがあった。さらに『批評空間』で、浅田彰氏・柄谷行人氏タッグと、西部邁氏・福田和也氏タッグの対談が載っていた号は、今でも保存している。また格闘家・前田明日氏との対談も、昔もっていた。

だが、時評(総理大臣の値打ちとか)、歴史論(近現代史)などよりも最初にこの本を読むべきであった。氏の出発点となった著作。私共も哲学・思想系の大学院(修士課程)に通ったものとして、フランス現代思想が持つ影響力はやはりあった。レヴィナスなんて、大きい存在であった。でも、そういう方向ではない。被害者ではない著述家たち。

 

<Books purchased today>

Kazuya Fukuda "Strange Ruins: Genealogy and Collaboration of Anti-modernism in France" (Kokusho Publishing, 1989. Japanese)

*Of course I knew Mr. Kazuya Fukuda, and had read conversations and essays in magazines. Furthermore, in the "Critical Space(Hihyo- Kukan)", the issue where the dialogue between Akira Asada/Kojin Karatani and Susumu Nishibe/Kazuya Fukuda was posted is still preserved. He also had a conversation with the fighter, Akira Maeda.

However, this book should have been read first, rather than on time reviews (such as the value of the prime minister) or historical theory (modern history on wartime Japan). The book that became his starting point. As we have attended a graduate school (master's course) in philosophy/ideology, French influence still had an influence in Japan. Levinas was a big thing. But that's not the case. Authors who are not victims.

 

 

 

 

 

 

 

 

「渋い声」か、それとも「老人の読経」かそれが問題だーボブ・ディラン『ラフ&ロウディ・ウェイズ』ー令和二年七月十八日(土)

「渋い声」か、それとも「老人の読経」かそれが問題だーボブ・ディラン『ラフ&ロウディ・ウェイズ』ー令和二年七月十八日(土)

 

昔、聴いていた洋楽のアーティストを久しぶりに購入することはないだろうか?

 

去年は、アリス・イン・チェインズの『レーニア・フォグ』を買って、1年経っても愛聴している。ギターリフがかっこいいし、歌声も好きだ。私が真剣に聴いていたのは1995年前後、カート・コバーンは亡くなっていたが、レイン・ステイリーは存命だった。2Pacもまだ撃たれていなかった。

 

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あれから25年。その間に、(レンタルだけど)ボブ・ディランの"Blowin in the Wind"や"Like a Rolling Stone"なども聴いた。レンタルだと他に、The Clashの"London Calling"なども聴いた(Johnny Rottenの自伝を読んでいたから、ClashよりもPistolsやP.I.Lの方を好んだ)。

 

 

購入動機

リチャード・ライト正岡子規の記事を読んだおかげで、アメリカ現代詩に興味を持つことができた。ビート世代でギンズバーグ、ケルアックなどとも関係があり、のちに京都の大徳寺坐禅修行をしたゲーリ・シュナイダー(Gary Snyder, 1930-)に、かねてより興味をもっており、アメリカ現代詩を読んで見たかった。

体系的に知りたいと思ったから、このタイミングで原成吉氏の『アメリカ現代詩入門』(勉誠出版、2020年)を購入し、読んで見た。副題は「エズラ・パウンドからボブディランまで」であったから、ボブ・ディランを意識していた。

 

そこに日経の全面広告NIKKEI The Style Advertising(2020年7月12日(日))の"Rock Times, 2020 July"にポピュラー音楽研究の佐藤良明氏のインタビューが載っていた。4月の来日公演は中心となったが、オリジナル楽曲の最新アルバム『ラフ&ロウディ・ウェイズ』がリリースされたという。

 

佐藤氏は、前作『テンペスト』までの詩を翻訳した「The Lyrics」という書籍の翻訳者ということである。

 

佐藤氏によると、ディランの最新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』は、「不自由な枠を全て外し至高を極めた最新作であり」、「詩とメロディは分離して、もはやディランはほとんど歌って」おらず(?)、「それでも一発で親しめる音楽に包み込まれている」とのこと。

 

期待して聴いてみた。

 

 25年前。あの頃聴いたボブ・ディランの声は若々しかった。でも、今回楽しみにしていたボブ・ディランの声は、さすがにもう老人の声で、良く言えば、「渋い声」、悪く言えば「じいさんの読経」みたいなものだった。

 

アルバムの裏ジャケットは、大統領ケネディの写真が・・・・。デッド・ケネディーズだったら嬉しかったのに。特定の大統領を信奉できるのかディランは?そこからも外れた詩人であって欲しかった。

 

大統領ケネディのことを歌った"Murder Most Foul"(「最も卑劣な殺人」)では、"Freedom, oh freedom, freedom ovee me"(「自由よ、ああ自由よ、わたしのもとへ」)ってな感じで歌っているし(歌詞対訳は中川五郎氏による)。自由が人類の到達点という哲学なのだろか?

 

第一パラグラフ5行目では、

 

"Being Led to the slaughter like a sacrificial lamb"

 

とあり、呉智英『危険な思想家』メディアワークス、1998年)を通過した目からすれば(しかも10代の頃に)、ディランに手放しで共感できるほどの詩(歌詞)ではない。

 

呉氏は、「反戦フォークの女王ジョーン・バエズ」が原曲を歌った「ドナ・ドナ」について、これが「一九六〇年代後半、日本でもアメリカでも若者による反体制運動が続発していた。これが差別摘発運動につながるものである」ことを指摘し、それにも関わらず、運動の中で好んで歌われた歌詞の中にこのような一節があることを「看過できない」(呉・上掲書、77頁)としている。

Calves are easily bound and slaughtered

Never kowing the reason why

But whoever treasures freedom

Like the swallow has learned to fly.

 ("DONA DONA", English Words by Sheldon Secunda, Teddy Schwartz, Arthur Kevees)

自由を抑圧しているという例えとして同様のものと言うべきか?

 

聴き始めてから1日しか経っていないから、これ以上のことは言えないが、この2枚組アルバムの中でおススメするなら1枚目のNo.2"FALSE PROPHET"(偽預言者)がいいかも知れない。

 

ボブ・ディランの『ラフ&ロウディ・ウェイズ』。これを79歳になったディランの「渋い声」とするか「老人の読経」とするかそれが問題だ。

 

でも久しぶりに洋楽購入の楽しさ・ドキドキ感を味わったことには感謝。

興味ある方はどうぞ。

ラフ&ロウディ・ウェイズ

ラフ&ロウディ・ウェイズ

 

 

 

エズラ・パウンド、ダンヌンツィオ、三島由紀夫ー断捨離の後悔、筒井康隆氏『ダンヌンツィオに夢中』の場合ー令和二年七月十二日(日)

エズラ・パウンド、ダンヌンツィオ、三島由紀夫ー断捨離の後悔、筒井康隆氏『ダンヌンツィオに夢中』の場合ー令和二年七月十二日(日))

 

人生の節目、節目に本の断捨離を行って来たことは、以前に書きました。

 

関連記事:カテゴリー「断捨離」を参照していたければ、幸いです。

book-zazen.hatenablog.com  

book-zazen.hatenablog.com

 前回の記事には 「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」の中の、

Christopher Benfeyによる"Richard Wright, Masaoka Shiki, and the Haiku of Confinement"(英語)の要旨を書いたのだが、リチャード・ライトの娘ジュリア・ライト氏の話や、ドナルド・キーン氏のことなどを省略していた。

 

省略した中でも、特に気になっていたのが、エズラ・パウンドのことだ。

記事の第4段落にあるエズラ・パウンド部分だけ訳すと、以下のようになる。

He shrewdly countered Anglo-American modernism—with its emphasis on the spare, the fragmentary, and the suggestive (and, in Ezra Pound’s case a decade later, an Orientalist interest in Confucianism and the Chinese written character)—by promoting a Japanese alternative steeped in tradition but laced with contemporary experience.

 

拙訳:「10年後のエズラ・パウンドの場合では、オリエンタリストの関心は、儒教と中国の文字に重心を移す」

 

Christopher Benfey, "Richard Wright, Masaoka Shiki, and the Haiku of Confinement"より(https://www.nybooks.com/daily/2020/06/25/richard-wright-masaoka-shiki-and-the-haiku-of-confinement/

(太字は引用者)

 

 

このようにエズラ・パウンドに言及されていた。エズラ・パウンドという名前は、ウィリアム・パウンドストーンやエズラ・ヴォーゲルなどの名前と混ざって、知っているような知っていないようなものだった。つまり、名前ぐらいしか聞いたことがなかったのである。アメリカ現代詩を体系として受容したくなかったし、文学研究科出身といっても、特定の時期以降の哲学系の研究だったから、エズラ・パウンドについての知識が抜けていても無理もないだろう。

 

とはいえ、体系的な受容も必要かと考え原成吉氏アメリカ現代詩入門ーエズラ・パウンドからボブ・ディランまで』勉誠出版、2020年)を読んで見ると、エズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)は「古英語の士、中世トルヴァドールの吟遊詩人の作品、日本の能、唐時代の詩、『論語』など翻訳(翻案)し、現代に蘇えらせた」(39頁)人物であるという。まじカッコいい。のちに、吉川幸次郎とも会ったことがあるという。唐詩の関係だろうか?

 

大学院修了後、大学の外国語の教員を四か月で辞め、どこか経由したのか知らないが、イタリアに渡り(ロンドン、パリにもいたという)、そこで20年間暮らすことになる。

 

しかも、彼がなんと政治的にムッソリーニファシストに傾倒し、第二次大戦中、ムッソリーニを支持するラジオ放送をしたというから、アメリカの反体制ビート・ジェネレーション好きっぽいこの本の中で、冒頭から異彩を放つのである。

 

しかも、そのことで国家反逆罪に問われ、連合軍によってピサ郊外の米軍キャンプに収容される。アメリカに移送されてからの知は、「精神異常」と診断され、ワシントンにある病院に13年も軟禁されたというから(43頁など)、本物オーラが漂い過ぎて、大川周明もびっくりなのである。

 

儒教精神に基づいた政治社会の構想を持っていたことや、アーネスト・フェノロサの未亡人より遺稿を預かったことなど、あまりに本物過ぎてびっくりするのである。

 

そこで思い出したのが、イタリアのダンヌンツィオである。

 

呉智英氏の書評集『知の収穫』(双葉社、1997年。原著は1993年にメディア・ファクトリーより刊行)には「三島由紀夫像の両極」として、西部邁氏の『ニヒリズムを超えて』と、筒井康隆氏の『ダンヌンツィオに夢中』が書評の対象となっていた。

 

「ダンヌンツィオとは、十九世紀末から今世紀前半にかけて活躍したイタリアの文学者である。耽美的な先品、貴族趣味、そして愛国的な行動、まるで三島由紀夫のような、と言うよりも、このダンヌンツィオに憧れ、自らをダンヌンツィオに化そうとしたのが三島だった。筒井は三島をこう描く。これは、筒井の単なる思いつきではない。資料をよく調べ、実証的なまでに手堅く分析している」(呉・上掲書、101頁)。

 

純粋な日本を探求している人間は、「三島が模倣しただと!」と怒るかも知れないが、私はむしろ三島の体現した日本性が世界レベルで行われていることにこそ悦びを感じる。幕末・明治以来、ここまで来たのかと。

 

といっても、私は筒井康隆氏の『ダンヌンツィオに夢中』をしっかり読んだことがない。無理やり知識として入れるのではなく、興味が成熟してきたところで読みたかったからだ。

 

古本屋でパラフィン紙つきの良書を手に入れていたのに、積読(つんどく・・買ったまま本を置いておくこと)すること10数年、やっと読もうと思った時には、すでになくなっていた。

 

あの断捨離を生き抜いていなかったのか。残念、今なら読めたのに。

 

エズラ・パウンド、ダンヌンツィオ、三島由紀夫。タイトルにした割に、内容に踏み込めていない。でも、いつかモノにするぜ!

 

明日も仕事だ。8時間興味のないことをするのは苦痛だ。

でも、どんな仕事にも苦痛はあるだろうと、自分を慰めている日々。

寸暇を惜しんで勉強しないと、あっという間に人生の時間が過ぎ去ってしまう。

Good night!