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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

書評・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年)① 序について

書評・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年)① 序について

Book review, Kazuya Fukuda "Strange Ruins: Genealogy and Collaboration of Anti-modernism in France" (Kokusho Publishing, 1989. Japanese)

 

購入動機

生活人として生きている私。一日の大半を興味のない仕事に費やし、ビジネス書や実用書も読んでいる。このような生活で、もはや文学、特にフランスの文学や思想を知りたくなることはないだろうと思っていた。

だが、エズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)を知ったことがきっかけで、文学や詩への興味が再燃した。とりわけエズラ・パウンドアメリカで生まれながら、ムッソリーニの側に与し、その後連合国に捉われ、精神病院にも入れられる人生を送った。

 

パウンドは単なる奇人ではない。原成吉氏の『アメリカ現代詩入門ーエズラ・パウンドからボブ・ディランまで』(勉誠出版、2020年)によるとエズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)は「古英語の士、中世トルヴァドールの吟遊詩人の作品、日本の能、唐時代の詩、『論語』など翻訳(翻案)し、現代に蘇えらせた」(39頁)人物であるという。

 

福田氏のこの本では、パウンドにも影響を与えた、シャルル・モーラスのことが論じられているので、機が熟したと考え、購入を決意。読み返すこと二度目の最中に、これを書いている。

 

全体は七章からなっており、各章では個別の人物についての記述がなされている。それに先立ってこの「序」では、「コラボトゥール」を論じる前提として、ファシズムと文学・思想について論じるのである。

 

まず本書において「コラボトゥール」あるいは「コラボ」とは、第二次大戦期フランスにおいて「思想・信条から主体的にナチス=ドイツと手を結んだ作家」(13頁)のことである。

 

彼らは祖国への裏切りを行ったのか。いや。「「民族」や文化、伝統の総体としての祖国をかれらが裏切ったとは到底いえない」(12頁)。

 

人道的行為のお先棒を担いだのだろうか。それはイエスだ。「かれらはナチズムとの共同をおこなったことで、近代史の最も忌まわしい一連の人物として銘記」されているのである。

 

では彼らはドイツへの迎合を行った人物なのだろうか。そうではない。彼らは自己の思想・信条に基づいて決断しており、ドイツの風下に立ったと言われることを拒んだだろう。

 

彼らの思想の背景には、フランスの反近代・反ヒューマニズムの流れがある。「黙示録的な崩壊ののちにあるべき再生」を求めていたのである。

 

彼らは主流でないにしても、フランス文学史のある種の流れの正統な後継者なのである。それは1944年のパリ解放とともに命脈を絶たれたように見えるが、戦後のフランスにも生きているのである。どういうことだろうか。

 

その例として福田氏は、「構造主義記号論フーコーデリダといった系譜に対して隠然として精神的支柱、後見人の役を果たしてきた」モーリス・ブランショの名を挙げる(13頁~)。

 

ブランショは後に取り上げるシャルル・モーラスの影響の下、思想家としての道を歩み始めたのである。単なる若気の至りではないのである。

 

デリダが反ヒューマニズムを語るときに依拠するハイデガーや、ハイデガーによるヘーゲルニーチェの読解と戦後のブラン所の立場は極めて近いものである」(14頁)

 

ハイデガーの哲学的立場は近代的な価値を相対化しようとしたシャルル・モーラスやコラボ作家たちの反近代主義とそれほど遠いものではなく、現在ではこのハイデガーを通じて、コラボの文学者とブランショは、そして戦前フランスの反近代主義と戦後の思想はつながっているとも考えられる」(14頁)。

 

戦後フランスでハイデガー解釈として発表される反近代主義は、戦前のフランスでも確かに存在していたのであり、それは哲学というよりも、文学の領域でのことだったのである。

 

とはいえ、アウシュビッツを極みとするユダヤ人への迫害に加担した、ルバテやブラジャックの文学は、作品世界と作者の人物を切り離し、文学の世界だけを論じるという「消毒」は不可能なのである。というのも、彼らの文学と政治行動は結び付いているからである(15頁)。

 

このようなコラボ作家の文学にどのような態度をとればよいのだろうか。福田氏は次の二つを並べる。

(1)封印すること

(2)「ヒューマニズムと近代に反逆し、そして歴史との格闘の末に行きづまり、自暴自棄な闘いに身をゆだねて地獄に堕ちた、極めて興味深くまんざら現在の課題に役に立たなくもない文学・思想として捉える」(17頁)こと

 

そして、自身は後者を選択する。

「ブラジャックのような知性がなぜホロコーストに加担したのかという問いは、一種のスキャンダル、知的好奇心をそそるばかりではなく、封印のうえに再びヒューマニズムを建てることを試みるのとは異なり、真の問いかけを「近代」に対してうみだしうるはずなのである」(17頁)

 

福田氏は、『ハイデガーナチズム』でハイデガーのナチ加担が「軽微な政治的過誤」などではなく、本質的なものであったことを扱ったヴィクトル・ファリアスが巻き起こした論争に触れて、「ハイデガーとナチズムの関係は、コラボ作家の文学の基本的なプロブレマティークと同じ構造をもっている」(18頁)という。

 

コラボ作家にはなかった戦後の人生を、ハイデガーは長らく生きたのだから、コラボ作家を扱う上で役に立つのであると福田氏はいう。そしてナチに加担した哲学者ハイデガーとナチから迫害された詩人ツェランの関係を睨みつつ、福田氏がコラボ作家を論じる位置を確保しようと試みるのである。

 

マルティン・ハイデガーパウル・ツェランは、ナチスユダヤ民族に加えた蛮行をはさんで正反対の位置にありながら、ジェノサイドと全体主義の本質を前にして、虐殺と圧政にみちた現実よりもさらなる深淵への到達を詩作=思索する者の課題とすることにおいて一致して結び付いた」(30頁)

「ここでハイデガーツェランが到達した地点が、小著がコラボ作家を論じる位置であり、またいうならば一種のアリバイである」(同頁)。

 

このように論じ、コラボ作家らがハイデガー以上に道義的非難にさらされるべき人物としながらも、その作品の中には、なおも読むべきものが「ホロコーストの彼岸からも読むべき何かが含まれている」(30頁)とするのである。

 

ここからコラボ作家らが位置するフランスの反近代主義文学の一連の作家(アルチュール・ド・ゴビノー、モーリス・バレス、シャルル・モーラス、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル、ロベール・ブラジャック、リュシアン・ルバテ、ロジェ、ニミエ)らを論じていくのである。

 

(続く)To be continued

 

<予告>

第一章では、アルチュール・ド・ゴビノーが取り上げられる。

今村仁司氏編集の『現代思想を読む事典』(講談社、1988年)の「人種差別」の項目には、アルチュール・ド・ゴビノーは「ナチズムの人種政策を準備した人物」として名前が挙げられている(337頁。項目執筆者は桜井哲夫氏)。果たして福田氏は、どのように扱っているのだろうか。

 

*私はこの事典を高校の時に購入し、2、3年前に処分し、また買い直した。福田氏の著作を読んで刺激されたからである。

 

<課題>

現代思想冒険者シリーズの『デリダ』や、酒井健氏の『バタイユ入門』、中山元氏の『フーコー入門』(これは高校の時に読んだ)など、フランス現代思想の解説本は少し読んだことがあったし、高橋哲哉氏の『逆光のロゴス』や『記憶のエチカ』など、それっぽい日本語の著作は読んだことがあった(2回買って2回とも捨てたので、もう手元にはない浅田彰氏の『構造と力』もあった)。とはいえ、私はロシアの文豪ドストエフスキーの作品は何冊か読んだけど、フランス文学といえばアナトール・フランスの『神々は渇く』のみだった。これからスタンダールからウルリッヒ・ベックなど、比較的多めにフランス文学に触れ行きたい。何だったらこだわりをもたず、私の人生や態度に全然重ならないジャン・ジュネ伝なども読んで見たい。

 

・文学と政治の問題を読んで、「禅と戦争」という問題を思いだした。大森曹玄氏との関係で書き残したいテーマである。