Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

エズラ・パウンド、ダンヌンツィオ、三島由紀夫ー断捨離の後悔、筒井康隆氏『ダンヌンツィオに夢中』の場合ー令和二年七月十二日(日)

エズラ・パウンド、ダンヌンツィオ、三島由紀夫ー断捨離の後悔、筒井康隆氏『ダンヌンツィオに夢中』の場合ー令和二年七月十二日(日))

 

人生の節目、節目に本の断捨離を行って来たことは、以前に書きました。

 

関連記事:カテゴリー「断捨離」を参照していたければ、幸いです。

book-zazen.hatenablog.com  

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 前回の記事には 「ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス」の中の、

Christopher Benfeyによる"Richard Wright, Masaoka Shiki, and the Haiku of Confinement"(英語)の要旨を書いたのだが、リチャード・ライトの娘ジュリア・ライト氏の話や、ドナルド・キーン氏のことなどを省略していた。

 

省略した中でも、特に気になっていたのが、エズラ・パウンドのことだ。

記事の第4段落にあるエズラ・パウンド部分だけ訳すと、以下のようになる。

He shrewdly countered Anglo-American modernism—with its emphasis on the spare, the fragmentary, and the suggestive (and, in Ezra Pound’s case a decade later, an Orientalist interest in Confucianism and the Chinese written character)—by promoting a Japanese alternative steeped in tradition but laced with contemporary experience.

 

拙訳:「10年後のエズラ・パウンドの場合では、オリエンタリストの関心は、儒教と中国の文字に重心を移す」

 

Christopher Benfey, "Richard Wright, Masaoka Shiki, and the Haiku of Confinement"より(https://www.nybooks.com/daily/2020/06/25/richard-wright-masaoka-shiki-and-the-haiku-of-confinement/

(太字は引用者)

 

 

このようにエズラ・パウンドに言及されていた。エズラ・パウンドという名前は、ウィリアム・パウンドストーンやエズラ・ヴォーゲルなどの名前と混ざって、知っているような知っていないようなものだった。つまり、名前ぐらいしか聞いたことがなかったのである。アメリカ現代詩を体系として受容したくなかったし、文学研究科出身といっても、特定の時期以降の哲学系の研究だったから、エズラ・パウンドについての知識が抜けていても無理もないだろう。

 

とはいえ、体系的な受容も必要かと考え原成吉氏アメリカ現代詩入門ーエズラ・パウンドからボブ・ディランまで』勉誠出版、2020年)を読んで見ると、エズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)は「古英語の士、中世トルヴァドールの吟遊詩人の作品、日本の能、唐時代の詩、『論語』など翻訳(翻案)し、現代に蘇えらせた」(39頁)人物であるという。まじカッコいい。のちに、吉川幸次郎とも会ったことがあるという。唐詩の関係だろうか?

 

大学院修了後、大学の外国語の教員を四か月で辞め、どこか経由したのか知らないが、イタリアに渡り(ロンドン、パリにもいたという)、そこで20年間暮らすことになる。

 

しかも、彼がなんと政治的にムッソリーニファシストに傾倒し、第二次大戦中、ムッソリーニを支持するラジオ放送をしたというから、アメリカの反体制ビート・ジェネレーション好きっぽいこの本の中で、冒頭から異彩を放つのである。

 

しかも、そのことで国家反逆罪に問われ、連合軍によってピサ郊外の米軍キャンプに収容される。アメリカに移送されてからの知は、「精神異常」と診断され、ワシントンにある病院に13年も軟禁されたというから(43頁など)、本物オーラが漂い過ぎて、大川周明もびっくりなのである。

 

儒教精神に基づいた政治社会の構想を持っていたことや、アーネスト・フェノロサの未亡人より遺稿を預かったことなど、あまりに本物過ぎてびっくりするのである。

 

そこで思い出したのが、イタリアのダンヌンツィオである。

 

呉智英氏の書評集『知の収穫』(双葉社、1997年。原著は1993年にメディア・ファクトリーより刊行)には「三島由紀夫像の両極」として、西部邁氏の『ニヒリズムを超えて』と、筒井康隆氏の『ダンヌンツィオに夢中』が書評の対象となっていた。

 

「ダンヌンツィオとは、十九世紀末から今世紀前半にかけて活躍したイタリアの文学者である。耽美的な先品、貴族趣味、そして愛国的な行動、まるで三島由紀夫のような、と言うよりも、このダンヌンツィオに憧れ、自らをダンヌンツィオに化そうとしたのが三島だった。筒井は三島をこう描く。これは、筒井の単なる思いつきではない。資料をよく調べ、実証的なまでに手堅く分析している」(呉・上掲書、101頁)。

 

純粋な日本を探求している人間は、「三島が模倣しただと!」と怒るかも知れないが、私はむしろ三島の体現した日本性が世界レベルで行われていることにこそ悦びを感じる。幕末・明治以来、ここまで来たのかと。

 

といっても、私は筒井康隆氏の『ダンヌンツィオに夢中』をしっかり読んだことがない。無理やり知識として入れるのではなく、興味が成熟してきたところで読みたかったからだ。

 

古本屋でパラフィン紙つきの良書を手に入れていたのに、積読(つんどく・・買ったまま本を置いておくこと)すること10数年、やっと読もうと思った時には、すでになくなっていた。

 

あの断捨離を生き抜いていなかったのか。残念、今なら読めたのに。

 

エズラ・パウンド、ダンヌンツィオ、三島由紀夫。タイトルにした割に、内容に踏み込めていない。でも、いつかモノにするぜ!

 

明日も仕事だ。8時間興味のないことをするのは苦痛だ。

でも、どんな仕事にも苦痛はあるだろうと、自分を慰めている日々。

寸暇を惜しんで勉強しないと、あっという間に人生の時間が過ぎ去ってしまう。

Good night!