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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

福田恆存の講演録が出ていたー令和二年二月一日(土)

福田恆存の講演録が出ていたー令和二年二月一日(土)

まえがき

 新型コロナウイルスを警戒しつつ、ジムでトレーニングし、帰りに本屋に寄って来た。

 

経済関係の本でも買おうかなと思っていたが、偶然、文春学藝ライブラリーの福田恆存の講演録『人間の生き方、ものの考え方』が面展(表紙が見えるように本棚に置くこと)されていた。

 

文春学藝ライブラリーは、江藤淳山本七平保田與重郎、田中美知太郎などの作品が収録されていてお薦めできるのだが、最近の、精悍な顔つきではない「保守の批評家」連が、この年代の人々を持ちあげる流れには乗りたくなかったから、欲しいタイトルもあったがほとんど近寄らなかった。

 

本の帯に「戦後最強の論客による学生たちへの特別講義」とあったが、私にとって福田恆存氏は「戦後最強」というよりも、論壇でも親戚の集まりでも日本人としての「生活」と「思想」を両方統合できる人格の持ち主なのであり、そこから逃げなかった信頼できる人物なのである。

 

「学生たちへの特別講義」というのも、いまの私にとって違和感がある。まだ社会の歯車の中に(嫌でも)1つの役割を与えられて、強いられて生きていない学生にした講義というものを聴いたところで、今の私にとってあんまり価値はないと一瞬思った。

 

福田恆存は、学生を自分の信者にするような知識人を批判してきた人だ。福田恆存氏の魅力は、世間の大人に対しても、しっかりと通用するところだと思う。このことは私が20代前半で聴いた新潮社のカセットテープ「処世術から宗教まで」を論じた講演からも分かると思う。(ただ、この講義に関しては、一般の学生に対してなされたのではなく、志を持った学生に対してなされたものだったのだが・・・)

 

*新潮社のカセットテープは、もう手に入らないかも知れないけど、図書館にはあるかも知れない。新潮カセット講演「福田恆存講演」(一)~(三)は、シェイクスピアの翻訳者で新劇の劇団「昴」を主宰していた福田恆存氏が、1976年に東京の三百人劇場で行ったものである。

 

前置きはこのぐらいにして、本の内容に入っていきたい。といっても、今日買ったばかりだから、詳しくは論じられないが、この本に期待することなどを書いておきたい。

 

国民文化研究会でなされた講演である

編集部や片山杜秀氏の解説によると、本書は国民文化研究会の合宿に集まった学生に対する講演であり、国民文化研究会とは小田村寅次郎氏を理事長として発足した団体である。小田村氏の曾祖母は、萩藩の幕末の志士・吉田松陰の妹であり(そう、あの松陰先生の妹です)、三井甲之らの原理日本社の系統に連なる人物であるという。

 

このあたり必ずしも福田恆存氏と国民文化研究会の思想系統とは同じではないだろう。だが、その最良の部分に対して共感するものがあったのかも知れないと解説者のみならず、私も思う。同じ日本で育ち、明治以降の我が国の状況、己の置かれた立場に縁戚関係のような者を感じていて、行き方は違っても、その最良の部分では通じ合っているという気持ちなのだと思う。

 

蓑田胸喜や三井甲之について私は、植村和秀氏が西田幾多郎を師と仰ぐ京都学派と蓑田胸喜や三井甲之を中心として原理日本社との思想闘争を扱った書『「日本」への問いをめぐる闘争』(柏書房、2007年)を(特に京都学派から見る観点で)読んでいたし、同じ「パルマケイア叢書」に収録されている竹内洋佐藤卓己編『日本主義的教養の時代ー大学批判の古層』大学図書館でざっくり読んだだけだが知ってはいた。同書には、「東大小田村事件」のことなどが記載されていたと記憶する。いつか二次文献でなく、直接読みたいと思っていたが、博士課程に進学できず、その後に投げ出された社会の底辺の中で、そのままになっていた。

 

でも、なぜ日本の大学で日本の学問ではなく、西洋の学問をやるのか?この問いは記事の筆者たる私も、深いレベルで疑問に感じていた。大学時代特にそうだった。これに答えることなく、生活に追われている。

 

講義1は「悪に耐える思想」

本題に戻ると、講義1は「悪に耐える思想」である。

日本の思想と西洋の思想を、我々の思想的課題として論じる。解決の道などないが、その自覚をが大切だと説き、明治以降、西洋の思想を受容し成立した近代日本が混乱していると論じるのである。

「今日の思想の混乱のもとは、いうまでもなく明治時代に西洋の思想を受け入れて、その結果として生じたものなのです」(13頁)

言葉による我々の生理解の混乱を指摘し、福田氏流にアレンジした「言語道具説」を説く。道具というと軽く聞こえるかも知れないが、福田氏は幼いころに見た大工の大工道具に対する愛着から、言語を手足のように大切にするのが「言語道具説」の真骨頂だと説く。

 我々が物事を考える際に手足のように操る愛着のある言葉に何が起きたのだろう。西洋由来の政治制度や概念(民主主義、愛、権力、文化、教養など)我々の直面する精神的な混乱が実社会に及んでいるのである。言葉の生き方の分裂が生じ、親と子の言葉が通じ合わずにいる。この全体的な状況に対処する根本哲学を我々は持っていない。そこにマルクス主義が入ってきたのである。

 

明治以降のこのような状況を考えるとき、大化の改新のことが思い浮かぶと福田氏は言うのである。なぜか。福田氏は神祇官の家柄に生まれる(=日本固有の思想を中心に生きる)も、儒教をも取り込んだ藤原鎌足のことを考える。

「私は当時の神ながらの道というのは非常に立派な生き方であると思うのです。しかしながらそれは己れを虚しうして自然の心を心として生きる生き方ですから、根本において間違いはなくても、それだけでは当時の混乱した状態を切りぬけることができなくなって来たということを、恐らく鎌足は自覚したに違いないのです、当時の異常な混乱を正すためにはやはり人も殺さねばならない。これは悪であります。この悪に耐える思想というものが鎌足に必要であったわけです。しかしそういう思想は従来の日本の生き方の中から生まれてこない。従って鎌足はそういうものを求めて、儒教というものに縋った」(39頁。「縋った」=「すがった」)。

 

内面的な清純さを追求していても、状況を変革できず、内面まで侵されている状況。善良なだけでは、善良な世界を守れないと考えた時にすがったのが、外来の思想たる儒教だというのである。

 

記事の筆者たる私の『論語』理解では、顔淵十九に、

「季康子が政治のことを孔子にたずねていった、「もし道にはずれた者を殺して道をっ守るものをつくり上げるようにしたら、どうでしょうか。」孔子は答えていわれた、「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風風にあたれば必ずなびきます。」」(金谷治訳注『論語岩波文庫、239頁)

 

とあり、『論語』では政治的殺人を否定していると考えていた。

だが、とにかく外来の思想に混乱した状況を治める「悪に耐える」思想を求めていたという。

そして明治以降の日本人も「悪に耐える」そのような思想を持たなければならないと説く。

 

これからの課題

課題ばかり増えて、何も仕事もライフワークの何も為すところなく、生きているが、課題を挙げずにはいられないので、挙げておく。

福田恆存の戯曲「有間皇子」を読むこと。

この戯曲が書かれた意味が分かったから、今なら読めるだろう。

全集の8巻を購入したまま、20年ぐらい置いておいたままだったが、機が熟したと思う。

生きていれば、おもしろいこともあるなー。

 

福間良明氏の論文「英語学の日本主義ー松田福松の戦前と戦後」をブリッジにして、記事を書くこと。

福田恆存は、この会のメンバーと関係かあった松田福松のような人物を、どう見ていたのだろう。どれくらい読んでいたのだろう。

 

斎藤秀三郎の正則英語学校が及ぼした影響。斎藤英語学の継承を自らの課題としていたそうだ。

 

無料で読める国会図書館のデジタルコレクションにリンクを貼っておく。

米英研究 : 文献的・現代史的批判論策 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

福田恆存松原正坪内祐三・岡田俊之介氏のラインを探って記事にする。

・先日、惜しくも亡くなられた坪内祐三さんの師匠たる松原正氏。その師が福田恆存氏であると理解しているが、松原氏と坪内氏が早稲田大学の英文学に関係している。その松原正氏のHPを探っていたら、岡田俊之介氏(早稲田大学の文学部准教授)のことを知った。HPも面白そうだし、不出来な私とちがい「正字・正かな」できちんと記しておられる。世間的には有名ではないが、私は興味をもっているので、何か記事にできればいいなと計画中である。(その前に、本とそれを置けるスペースの維持費を工面できるようにならなけれないけないが・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

折口信夫の選集が出ていたー令和2年1月26日(日)晴れ

折口信夫の選集が出ていたー令和2年1月26日(日)晴れ

 

少し前に三宮にあるジュンク堂に立ち寄ったら、レジの近くの「精選 折口信夫 全6巻」というリーフレットが目に入って来た。こういうリーフレットは、出版社が全集や著作集などを予約出版するときに、見本として、目次、字体、構成などを案内する目的で提供されるものである。これまでにも新潮社の小林秀雄筑摩書房三島由紀夫などのものを無料で手に入れて大事にしていた。

 

リーフレットには「折口信夫の最後の弟子が後世に残す「折口信夫のエッセンス」」と書いてあり、岡野弘彦氏が編集者としてその名があがっている。

 

岡野弘彦氏(1924年生まれ)といえば、民俗学神道学者の折口信夫の弟子であり、和歌を通じて皇室と関係があり、呉智英氏の弟子筋にあたる浅羽通明(あさば・みちあき)氏が大学で行われている講義の内容を一般読者に解説した本『ニセ学生マニュアル』にも、

 

岡野弘彦歌人で歌論家。TVの短歌講座講師や新聞の歌壇選者としてはもう重鎮。折口派の神道学者でもあり、皇室の新年お歌初めにも出講される。Xデー直後は昭和天皇の御製の解説で忙しかった」(『[逆襲版] ニセ学生マニュアルーミーハーのための<知>の流行案内』徳間書店、1989年、181頁。ちなみに同じ項目で、佐々木幸綱氏、古橋信孝氏が紹介されている)。

 

と紹介されている。その他、私が知っていることと言えば、イラク戦争の際に、「バクダッド燃ゆ」との詩を発表していたことだ。この時期、論壇では「親米保守」と「反米保守」をめぐって言論戦がなされていたが(そんなに読んでいなかったが)、和歌を通じて皇室と関係があり、折口氏の弟子で、戦前から生きている岡野氏の立場が、「親米保守」に収斂していかない姿というものが存在するということをあらためて印象付けられた出来事だった。

 

 

そんな岡野氏が編集したという「精選 折口信夫 全6巻」(慶應義塾大学出版会。なぜ慶應かというと、折口は國學院の他に慶應でも教えていたからだと思う。たしか江藤淳が何か書いてたかな・・・)。自分が20代だったころには、文庫版で折口信夫の著作集が書店に置いてあったと思うが、2年ぐらい前に折口に対する興味が熟して来た頃に探してもなかった。筑摩書房から宮澤賢治夢野久作の並びみたいな感じでなかったかな。柳田国男の方だったかな。勘違いだったのか。

※中公文庫だった!

 

大きめの折口信夫全集は、まだ大手書店なら置いてあったが、重要な論文のアンソロジーの方が今の自分にとっては良い。購入できても、部屋に置いておくスペースがないからだ。購入はできてもそのスペースをこれからも維持できる自信がないのである。

  

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著作集は全6巻に分かれており、各巻(本体価格2,800円。四六判=だいたい「単行本」サイズ)の構成は

Ⅰ.異郷論・祭祀論

Ⅱ.文学発生論・物語史論

Ⅲ.短歌史論・釈迢空短歌編

Ⅳ.芸能史論

Ⅴ.随想ほか・迢空詩編

Ⅵ.アルバム

 となっている。(釈迢空とは、折口の歌人としての名である。)

 

私的に気になるのは、

Ⅰ.異郷論・祭祀論では、「神道に現れた民族論理」「道徳の発生」

Ⅳ.芸能史論では、「無頼の徒の芸術」

Ⅴ.随想ほか・迢空詩編では、「平田国学の伝統」「民族教より人類教へ」

このあたりだろうか。

 

何のためか分からない記事を書いてしまったが、これから折口信夫を読みたい方にはこんな選択肢もあるよと言いたかったのである。令和元年の11月に完結したということだから、とっくに出ていたようだ。

 江藤淳についても、同種の出版物があればいいなと思う。以上。

 

 あわせて過去記事も見ていただければ幸いです。

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坪内祐三さんが亡くなった

今新聞を見ていたら、坪内祐三さんが急性心不全のためお亡くなりになられたとのこと。

まだ61歳だった。

 

全て読んだわけでもないが、福田恆存を師と仰ぐ氏の文章に好感を持っていた。ご冥福をお祈りし、ご家族様にお疲れが出ませんことを願っております。

 

拙い過去記事を参照していただければ幸いです。

 

 

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アメリカ村に楽器店が戻っているとの記事ー日経令和2年1月14日(火)夕刊14面

アメリカ村に楽器店が戻っているとの記事ー日経令和2年1月14日(火)夕刊14面

www.nikkei.com

 

晩御飯の時に、日経を流し読みしていたら、「大阪アメリカ村は音楽街?」と題して、アメリカ村にギターなどの楽器店が再び集約されているという記事を発見した。

 

アメリカ村のイメージにも合うし、心斎橋筋商店街よりも、賃料が安いということもあるらしい。へー、これは意外だ。大人になってからの視点だ。

*ちなみにアメリカ村御堂筋線の心斎橋駅で降りる(地下鉄四橋駅も可能)。

アメリカ村に大人が戻ってきているとのコメントもあり、アメリカ村に興味が戻ってきた私の現在とも一致する。

 

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でも、初めてアメリカ村に行く方が気を付けないといけないことがある。

楽器屋の裏路地の四隅に、男が立っている箇所があり(この地図にも出ている範囲内)、何か分からぬが声をかけて来る場合がある。一切無視して逃げていい。

三角公園の横に交番があるから、そちらへ向かえ。普段反権力と思っていても、喰いものにされるより、ましだ。恥ずかしがらずに交番の方へ逃げよ。

 

 

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「方法としての中国」を読むー令和元年1月4日(土)

「方法としての中国」を読むー令和元年1月4日(土)

 

 

*私は、若い頃「思想を持つ者」として生きていたつもりだったが、いつの間にか「生活者」として暮らしている。普段から日経を読んで、飯のタネに敏感になろうとしていたところ、昨年米中関係を扱ったシンポジウム(エズラ・ボーゲル氏などが講演)を聴講し、「米中覇権時代の歴史哲学こそ私の課題だー国際シンポジウム「米中関係と日本~超大国対立の行方」」という大げさなタイトルで、記事にした。その責任の一端を果たすべく、自分の考えていることを書き記したいと思う。「御民われ」である。

 

 

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 日経(2020年1月5日朝刊)の一面「逆境の資本主義ー4-」

日経(2020年1月5日朝刊)の一面「逆境の資本主義ー4-」は、「自由より国家、走る中国」と題して、国家主導で産業競争力を強化する中国を特集している。クリントン政権下で国防次官補を務めたグレアム・アリソンハーバード大教授)は「経済発展には個人の自由が不可欠と言われてきたが、中国は必ずしもそうでないこと」「中国の国家資本主義が新しい産業競争で優位性を持ちうると警告」しているという。

アリソンは、ソビエト連邦の意思決定の研究で有名になった人。私は大蔵官僚の榊原英資氏の本で名前を知った。近年、米中衝突を扱った著作もあるが、未読である。

 

関連記事:G・アリソンのインタビュー。一読を!

www.nikkei.com

思えば、グローバル企業・経済が国家の枠組みを超えると喧伝されていた「ボーダーレス・エコノミー」時代を経て、近代経済学の理論が迫真性をもつアメリカと国家資本主義の中国が経済面でも衝突しているのである。

 

この中を我々日本人がどのように生き延びていくか、自分たちの過去・現在・未来をどのように考え、行動していくかが問われているのである。腐っていても、こんなことを考えているのである。

 

*日経は、中途採用で、ITやエネルギーなどの高度な専門記事を書ける記者を募集しているが、政治思想や思想については、募集しなくてよいのだろうか?私ごときが高度ではないにせよ、思想の記事を書ける人を募集しないのは、問題であると思う。私が知らないだけかも知れないが、嘱託などで募集しているのだろうか。私なら米中衝突時代の我が国の思想的立場を掘り下げた記事を書き続けるだろう。

 

 

思想レベルで考察する際に手助けとなる著作を紹介して、進めて行きたい。(溝口氏を知ったのも、これもまた呉智英氏の著作だったと記憶するが、年末に探したが、その出典を思い出せていない)。

 

「方法としての中国」を読む(溝口雄三『方法としての中国』東京大学出版会、1989年所収

溝口雄三『方法としての中国』(東京大学出版会、1989年)所収で、表題となったこの論文は、1987年に東大出版会のPR誌『UP』に発表されたもの。

 

文中、さすがに時代状況が古いなと感じさせる箇所(「チョーヨンピル人気」(!)とか(笑))があるが、米中の共同覇権時代(覇権争い時代?)を考察する上で、いまなお重要性を失っていない論文集と思う。

 

 「中国」を方法として「世界」を把握するというプログラムの提唱

「わたくしたち中国研究者」(138頁)と自己を規定する溝口氏が、この論文で企図しているのは、「中国」を方法として「世界」を把握していくことである。氏は「中国を中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもう一つのたとえば中国原理といったものを発見しようと」研究してきたのである(138頁)。

それはどういうことだろうか。

  

ヨーロッパへの関心は近代も含み、中国への関心はそうではない。

まず溝口氏は、我々日本人がヨーロッパを見る目と中国を見る目が異なる点を指摘して、議論を展開する。日本人がヨーロッパを見るのは、現代のヨーロッパの優位性のゆえであるのに対し、中国に対してはそうのような観点からではないと指摘する。

 

プラトンやダンテを読む人は、現在のヨーロッパ近代に対する興味や知識が欠如しているとは考えにくいが、『唐詩』『碧巌録』を読む人は現在の中国に対する興味・関心とは無関係に存在することが多いと溝口氏は言う(131頁)。

(人にもよるのだが、いまは意を汲んで読み進めて欲しい)

 

「日本漢学」と自己の立場を峻別する

溝口氏は、自己の立場を「中国なき中国学」=「日本漢学」から区別する。

「結論を先にすれば、わたくしはそのような中国なき中国学(すなわち日本漢学)の有害無益の増殖を認めることはできないし、むしろ批判を強めていくべきだと考えるのだが、それはいうまでもなくこれからの自由な中国学の自由度に制限を加えることによってではなく、かえって自由度を高めることによって果たされることである」(135-136頁)

 

「中国なき中国学」とは、漢学の流れを汲み、戦前に「日本的ナショナリズム」と手を組み「国粋的大東亜主義」を形成したものであるという(135頁)

 

*この記事の筆者=私は、山崎闇斎学派を遠くから敬慕していたものであるから、「日本漢学」が論外(「中国なき中国学はもはや論外として」137頁)として扱われているのを見ると、立ち止まって考えないといけないことがあるなと考えるが、いまは置こう。

 

 

 中国を知ることを目的とする学ではない

他方、溝口氏は中国を知ることを目的とするような中国を目的とする学からも、自己の立場を区別する。そして自身は「真に自由な中国学」を目指そうとするのである。

  

「真に自由な中国学」とは

溝口氏の言う所の「真に自由な中国学」とは、「中国を方法とする中国学」のことである。それは「目的を中国や事故の内におかない、つまり中国や事故の内に解消されない、逆に目的が中国を超えた中国学なのであるべき」だと言う(136頁)。

 

溝口氏は「中国を中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもう一つのたとえば中国原理といったものを発見しようと」研究してきたのである(138頁)。こうなってくるとヨーロッパ近代の優位性に特徴づけられて近代世界を剥ぐようなスタンスで、俄然おもしろさが増してくるだろう。親中/反中などという問題圏ではないのである。近代世界をトータルに問題にするスタンスなのである。これは京都学派の歴史哲学にも見られる態度なのである。

 

何が引き出せるのか

シンポジウムで五百旗頭氏は「法の支配は重要だが、それだけでは納得いかない場合もあるだろう。人類がどこでも否定できない道理のようなものを模索することが大事」であるとし、「一緒に生きる道を見いだすべきだ」という結論を唱えていた(2019年12月3日(火)朝刊35面参照)。

 

私は、ここでいう「法の支配」を、単に法学部で「国家権力を「正しい法」で縛り・・・」という意味だけじゃなく、西洋近代において発展してきた価値観、それを反映した統治のルールと受け取って議論を進めたい。

 

溝口氏が中国を方法とすることで、何が見えてくるのだろう。

 それは「日本再発見」「東洋再発見」などではなく(ここらへんは京都学派に対する批判か?)、世界の多元性への貢献である。

その一例として、「国際法法源としての国家主権のあり方の問題」を挙げる(139頁)。

「ヨーロッパで第二次大戦後、ナチズムへの反省からネオ・トミズムの立場に立つたとえばH・ロンメンらの自然法論が現れたように、「法の基礎は正義である」という立場からのヨーロッパふうの国際法の見直しに対して、中国の同じく道徳的オプティミズムに根拠した清末の公法観・公理観も中国ふうなりに十分に方法としての有効性をもち、この問題でヨーロッパとアジアは共同してより高次な世界秩序を目指すことが可能なであり、少なくとも国家主権の絶対視というこれまでの国際秩序観の再検討がここから始められ、それはまた法と道徳あるいは政治と道徳の関係についての見直しにの問題に及ぶことである」(139頁)

 

 

これは習近平の強力な指導体制の下、国家主導の産業競争に乗り出している今日の中国の現状面とはことなるが(もちろんずっと昔に書かれたものだから現状に合わないのは当たり前だが)、思考レベルでは興味深い。

というのも、この記事の筆者は大学時代にドイツの法哲学を学び、それは自然法論に同情的だが法実証主義と対決する第三の立場を目指すものだったし、大学院時代は非ヨーロッパの名前を冠した哲学を研究領域としていたからである。

そして、現在米中の二大覇権国に囲まれた我が日本国で壮年期を生きている男でもある。もっとも収入は低くてびっくりするぐらいだが・・(笑)。

 

集中的に時間を取って書くのが難しいから、粗削りで恐縮だが、これぐらいにしておきたい。

次回予告

次回予告は、溝口雄三氏のこの著作に関しては、岩波新書朱子学陽明学』で有名な島田虔次氏、私の好きな哲学者・西晋一郎の息子たる西順蔵氏の特徴を簡潔にまとめた文などを紹介する予定だ。

また、別の本としては批評家・東浩紀『テーマパーク化する地球』について、特に哲学・思想・批評+大人になること・経営などに焦点を絞って記事を書く予定です。

東浩紀氏は外山恒一氏とならんで、私が現代の批評家・思想家で敬意を抱いている人物である。といっても、氏の著作としては『テーマパーク化する地球』が初めて読んだものなんだけどね・・。

乞うご期待!