アメリカの特殊部隊の献身ー映画『ゼロ・ダーク・サーティー』など
映画『ゼロ・ダーク・サーティー』や『ネイビー・シールズ:チーム6』など、アメリカの特殊部隊が、オサマ・ビン・ラディンを殺害するまでを追った映画を見た。
『ゼロ・ダーク・サーティー』は、数年前。『ネイビー・シールズ:チーム6』は、最近見た。
どちらも女性の分析官が、周囲の反対にあいながらも、ビン・ラディンを追い詰めて、シールズが強襲しに行くという点は共通している。だから、女性の活躍を描いた面のある今日風の映画だとも言える。
とはいえ、私が気になったのは、アメリカ特殊部隊の献身である。
アメリカとイスラム過激派では、イスラム過激派の信仰が取りざたされることの方が多い。一方で、アメリカの特殊部隊は、実用的な面を先鋭化していったようなイメージであり、その献身の根拠となる、情熱を確認しにくいと感じる。
だが、このような映画を見ている限り、どちらにも何らかの信仰があると言わざるを得ない。私生活・家族を犠牲にしている面もある。公共あるいは崇高なものへの献身という面がある。ビン・ラディンの身元を特定する際に、スマホみたいなものを使って写真を送り、作戦司令室に鑑定させているのは現代風のテクノロジーだが、特定された後「神と国家」という言葉を使っている点は、歴史や信仰を感じさせるのである。
そこで気になるのが、以前購入して、まだ熟読できていないが植村和秀氏の『折口信夫』(中央公論新社、2017年)にある記述である。
折口は大切な人を、かの有名な「硫黄島の戦い」で喪うのだが、折口は、アメリカの戦いぶりに宗教的情熱を認めていたという。
「敗戦後、折口が何よりも重大視したのは、アメリカの政治や経済、軍事ではなく、宗教である。「西洋の青年」の宗教的情熱として折口が塚崎進に語ったのは、硫黄島でのアメリカ軍兵士の戦いぶりである」(138頁)。
多くの場合、神風特攻隊など、我が国の側の方が宗教的(あるいは「狂信的」)で、アメリカ軍は合理的という主張に接しているはずである。私も疑問に思うのだが、合理的なだけで、あのような戦いができるのものだろうか。合理性に敗北したという分析とともに、敵の精神性や精神的背景を深く見定められていなかったのではないかという気持ちが、アメリカのドラマやテレビなどを見ていて、たまに思うのである。
現に折口も、敗戦の年、昭和二十年(1945)の夏に、
「あめりかの青年たちがひょっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費やした、十字軍における彼らの祖先の情熱をもって、この戦争に努力しているのではなかろうか、もうしそうだったら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだろうかという、静かな反省が起こってきました」(139頁)。
私が大学の教員ならば、学生とともにこのような問題を映画を見ながら、考えたい。硫黄島、折口信夫、クリント・イーストウッド、ビン・ラディン、ネイビーシールズなど刺激的なテーマだ。
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