Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

「方法としての中国」を読むー令和元年1月4日(土)

「方法としての中国」を読むー令和元年1月4日(土)

 

 

*私は、若い頃「思想を持つ者」として生きていたつもりだったが、いつの間にか「生活者」として暮らしている。普段から日経を読んで、飯のタネに敏感になろうとしていたところ、昨年米中関係を扱ったシンポジウム(エズラ・ボーゲル氏などが講演)を聴講し、「米中覇権時代の歴史哲学こそ私の課題だー国際シンポジウム「米中関係と日本~超大国対立の行方」」という大げさなタイトルで、記事にした。その責任の一端を果たすべく、自分の考えていることを書き記したいと思う。「御民われ」である。

 

 

book-zazen.hatenablog.com

 日経(2020年1月5日朝刊)の一面「逆境の資本主義ー4-」

日経(2020年1月5日朝刊)の一面「逆境の資本主義ー4-」は、「自由より国家、走る中国」と題して、国家主導で産業競争力を強化する中国を特集している。クリントン政権下で国防次官補を務めたグレアム・アリソンハーバード大教授)は「経済発展には個人の自由が不可欠と言われてきたが、中国は必ずしもそうでないこと」「中国の国家資本主義が新しい産業競争で優位性を持ちうると警告」しているという。

アリソンは、ソビエト連邦の意思決定の研究で有名になった人。私は大蔵官僚の榊原英資氏の本で名前を知った。近年、米中衝突を扱った著作もあるが、未読である。

 

関連記事:G・アリソンのインタビュー。一読を!

www.nikkei.com

思えば、グローバル企業・経済が国家の枠組みを超えると喧伝されていた「ボーダーレス・エコノミー」時代を経て、近代経済学の理論が迫真性をもつアメリカと国家資本主義の中国が経済面でも衝突しているのである。

 

この中を我々日本人がどのように生き延びていくか、自分たちの過去・現在・未来をどのように考え、行動していくかが問われているのである。腐っていても、こんなことを考えているのである。

 

*日経は、中途採用で、ITやエネルギーなどの高度な専門記事を書ける記者を募集しているが、政治思想や思想については、募集しなくてよいのだろうか?私ごときが高度ではないにせよ、思想の記事を書ける人を募集しないのは、問題であると思う。私が知らないだけかも知れないが、嘱託などで募集しているのだろうか。私なら米中衝突時代の我が国の思想的立場を掘り下げた記事を書き続けるだろう。

 

 

思想レベルで考察する際に手助けとなる著作を紹介して、進めて行きたい。(溝口氏を知ったのも、これもまた呉智英氏の著作だったと記憶するが、年末に探したが、その出典を思い出せていない)。

 

「方法としての中国」を読む(溝口雄三『方法としての中国』東京大学出版会、1989年所収

溝口雄三『方法としての中国』(東京大学出版会、1989年)所収で、表題となったこの論文は、1987年に東大出版会のPR誌『UP』に発表されたもの。

 

文中、さすがに時代状況が古いなと感じさせる箇所(「チョーヨンピル人気」(!)とか(笑))があるが、米中の共同覇権時代(覇権争い時代?)を考察する上で、いまなお重要性を失っていない論文集と思う。

 

 「中国」を方法として「世界」を把握するというプログラムの提唱

「わたくしたち中国研究者」(138頁)と自己を規定する溝口氏が、この論文で企図しているのは、「中国」を方法として「世界」を把握していくことである。氏は「中国を中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもう一つのたとえば中国原理といったものを発見しようと」研究してきたのである(138頁)。

それはどういうことだろうか。

  

ヨーロッパへの関心は近代も含み、中国への関心はそうではない。

まず溝口氏は、我々日本人がヨーロッパを見る目と中国を見る目が異なる点を指摘して、議論を展開する。日本人がヨーロッパを見るのは、現代のヨーロッパの優位性のゆえであるのに対し、中国に対してはそうのような観点からではないと指摘する。

 

プラトンやダンテを読む人は、現在のヨーロッパ近代に対する興味や知識が欠如しているとは考えにくいが、『唐詩』『碧巌録』を読む人は現在の中国に対する興味・関心とは無関係に存在することが多いと溝口氏は言う(131頁)。

(人にもよるのだが、いまは意を汲んで読み進めて欲しい)

 

「日本漢学」と自己の立場を峻別する

溝口氏は、自己の立場を「中国なき中国学」=「日本漢学」から区別する。

「結論を先にすれば、わたくしはそのような中国なき中国学(すなわち日本漢学)の有害無益の増殖を認めることはできないし、むしろ批判を強めていくべきだと考えるのだが、それはいうまでもなくこれからの自由な中国学の自由度に制限を加えることによってではなく、かえって自由度を高めることによって果たされることである」(135-136頁)

 

「中国なき中国学」とは、漢学の流れを汲み、戦前に「日本的ナショナリズム」と手を組み「国粋的大東亜主義」を形成したものであるという(135頁)

 

*この記事の筆者=私は、山崎闇斎学派を遠くから敬慕していたものであるから、「日本漢学」が論外(「中国なき中国学はもはや論外として」137頁)として扱われているのを見ると、立ち止まって考えないといけないことがあるなと考えるが、いまは置こう。

 

 

 中国を知ることを目的とする学ではない

他方、溝口氏は中国を知ることを目的とするような中国を目的とする学からも、自己の立場を区別する。そして自身は「真に自由な中国学」を目指そうとするのである。

  

「真に自由な中国学」とは

溝口氏の言う所の「真に自由な中国学」とは、「中国を方法とする中国学」のことである。それは「目的を中国や事故の内におかない、つまり中国や事故の内に解消されない、逆に目的が中国を超えた中国学なのであるべき」だと言う(136頁)。

 

溝口氏は「中国を中国の内部から中国に即して見、またヨーロッパ原理と相対のもう一つのたとえば中国原理といったものを発見しようと」研究してきたのである(138頁)。こうなってくるとヨーロッパ近代の優位性に特徴づけられて近代世界を剥ぐようなスタンスで、俄然おもしろさが増してくるだろう。親中/反中などという問題圏ではないのである。近代世界をトータルに問題にするスタンスなのである。これは京都学派の歴史哲学にも見られる態度なのである。

 

何が引き出せるのか

シンポジウムで五百旗頭氏は「法の支配は重要だが、それだけでは納得いかない場合もあるだろう。人類がどこでも否定できない道理のようなものを模索することが大事」であるとし、「一緒に生きる道を見いだすべきだ」という結論を唱えていた(2019年12月3日(火)朝刊35面参照)。

 

私は、ここでいう「法の支配」を、単に法学部で「国家権力を「正しい法」で縛り・・・」という意味だけじゃなく、西洋近代において発展してきた価値観、それを反映した統治のルールと受け取って議論を進めたい。

 

溝口氏が中国を方法とすることで、何が見えてくるのだろう。

 それは「日本再発見」「東洋再発見」などではなく(ここらへんは京都学派に対する批判か?)、世界の多元性への貢献である。

その一例として、「国際法法源としての国家主権のあり方の問題」を挙げる(139頁)。

「ヨーロッパで第二次大戦後、ナチズムへの反省からネオ・トミズムの立場に立つたとえばH・ロンメンらの自然法論が現れたように、「法の基礎は正義である」という立場からのヨーロッパふうの国際法の見直しに対して、中国の同じく道徳的オプティミズムに根拠した清末の公法観・公理観も中国ふうなりに十分に方法としての有効性をもち、この問題でヨーロッパとアジアは共同してより高次な世界秩序を目指すことが可能なであり、少なくとも国家主権の絶対視というこれまでの国際秩序観の再検討がここから始められ、それはまた法と道徳あるいは政治と道徳の関係についての見直しにの問題に及ぶことである」(139頁)

 

 

これは習近平の強力な指導体制の下、国家主導の産業競争に乗り出している今日の中国の現状面とはことなるが(もちろんずっと昔に書かれたものだから現状に合わないのは当たり前だが)、思考レベルでは興味深い。

というのも、この記事の筆者は大学時代にドイツの法哲学を学び、それは自然法論に同情的だが法実証主義と対決する第三の立場を目指すものだったし、大学院時代は非ヨーロッパの名前を冠した哲学を研究領域としていたからである。

そして、現在米中の二大覇権国に囲まれた我が日本国で壮年期を生きている男でもある。もっとも収入は低くてびっくりするぐらいだが・・(笑)。

 

集中的に時間を取って書くのが難しいから、粗削りで恐縮だが、これぐらいにしておきたい。

次回予告

次回予告は、溝口雄三氏のこの著作に関しては、岩波新書朱子学陽明学』で有名な島田虔次氏、私の好きな哲学者・西晋一郎の息子たる西順蔵氏の特徴を簡潔にまとめた文などを紹介する予定だ。

また、別の本としては批評家・東浩紀『テーマパーク化する地球』について、特に哲学・思想・批評+大人になること・経営などに焦点を絞って記事を書く予定です。

東浩紀氏は外山恒一氏とならんで、私が現代の批評家・思想家で敬意を抱いている人物である。といっても、氏の著作としては『テーマパーク化する地球』が初めて読んだものなんだけどね・・。

乞うご期待!