Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

スパイク・リー監督『ブラック・クランズマン』ー令和二年二月二十九日(土)小雨

スパイク・リー監督『ブラック・クランズマン』ー令和二年二月二十九日(土)小雨

 

コロナで外出自粛気味(コロナ感染の「社会的コスト」を含めてのこと。)のこの週末、スパイク・リー監督『ブラック・クランズマン』を観た。映画監督スパイク・リーの作品を見たのは、10代中頃のことだったと思う。

 

1995年頃は少しラップも聴いていたから(と言っても、ギャングスタ・ラップ全盛だったので、アメリカのシーンは怖くて単に聴いていただけだったのだが)、アフリカ系アメリカ人のカルチャーに興味を持った。

 

スパイク・リーの作品で日本で一番有名なのは『マルコムX』だろうか。私もそこから彼の作品に入って、ちょっとした暴動事件を扱った『DO THE RIGTH THING』や犯罪のある街で育つことの難しさを描いた『クロッカーズ』などを観たぐらいで、その後全然観てなかった。

 

物語の舞台は1970年代半ば、コロラド州コロラドスプリングス

 黒人で初の警察官になったロンは、アメリカの白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(K.K.K)との電話でのコンタクトに成功する。そこから潜入捜査を開始するのだが、ロン自身は黒人であり、K.K.Kには当然加入できない。そこで実際にコンタクトするのは同僚の世俗化したユダヤ系の白人の警察官である。2人で1人の人物を演じるのである。K.K.Kが企んでいたのは、地元のカレッジの黒人学生自治会の女性パトリスの爆殺であった。

 

自治会長のパトリスは、ブラックパンサー党のカーマイケルことクワメ・トゥーレ(KWAME TURE。アフリカ移住後に改名したという。アフリカ移住って、本気の人だったんだな。)を呼んで講演会を開催する。その会の危険性を判定するためにロンが送り込まれたのだった。物語は、地元警察に勤務するロンと、警官(cop)を"pig"と呼ぶ反権力思想を抱いた女性パトリスを軸に進んで行く。

 

カーマイケルを車で送っている最中に、パトリスを地元の警察が尋問し、あろうことか自治会長の女性の身体をまさぐったのである。

 

パトリスは、新聞で警察を批判した。 それに怒ったK.K.Kは彼女を狙うのである。

 

ストーリー解説するつもりはないので、詳しくは映画を見て欲しい。

ここではあくまでも映画を観て、これからの人生の課題を書いておきたい。

 

<自分の課題>

・「良心」や「正義」の行方

クワメ・トゥーレ(カーマイケル)の講演、アフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティベトナム戦争への参加拒否などを聴く聴衆の眼差しは、自己のアイデンティティに関わるものだし、自分たちの先を行っている人物の講演だから、真剣そのものである。自分より自分を実現している人物に出会ったのである。

 また「語り継ぐ会」のようなもので過去に町で起きた残虐事件聴く聴衆も真剣そのものだし、この映画を観る者の「良心」に訴えるものがある。また2017年の衝突事件の映像は衝撃的であり、観る者にショックを与える。

「正義感」の強い人間であれば(でなくとも)、スパイク・リーや「アフリカ系アメリカ人の立場」「人種差別反対」に共感しするだろうし、そういう映画なのでもあろう。

 

肌の色だけで人間を憎んだり、蔑んだりすることがおかしい、くだらないことなのは当然のことだ。私もそう思う。最も深いレベルで思考すれば、肌の色が問題ではないことは経験できるはずだ。

 

ただ子供の頃から、学校において戦争や植民地、日本社会にある差別などの授業を、私が決して尊敬することのなかった「先生」方から受けて、あるいは受けさせられて、「考えさせられて」、作文を書けと言われてきた者としては、この種の「正義」や「良心」に一直線に取り込まれていくことには警戒心がある。悪を断罪する側にも、悪はあるし、政治的な悪の追求だけが人生でもない。

 

 

book-zazen.hatenablog.com

 

では、その辺の考えをどうまとめるのか。微妙な問題だから表現するのが難しい。

肌の色だけで相手を憎んだりしないことと、政治的に純粋な正義だけを唱えることとの距離を表現することは本当に難しいと思う。

 

 ・アメリカのもっと深い思想が知りたい

この映画の中でスパイクリーが描く白人の有名人は、K.K.K.から政界に打って出たデヴィッド・デュークや最近では大統領になったドナルド・トランプぐらいのもので、彼らの理論レベルというか思想レベルは決して高くないだろう。

思想レベルが高くない相手であっても、それが政治的現実で力を持つ状況下では、その差別性を批判することは現実に必要なことである。それは理解できる。ああいった状況であれば、なおのことそうであろう。

 ただ人種差別や黒人差別への反対を全面的に押し出した思想家じゃなくても、見るべき思想家はいるのではないか。それをしっかり説明できるようになりたい。

 

そういう作業は批判的にではあれコーネル・ウェストらがしているのだろうか?知りたいが、いまは経済関係に「選択と集中」しているから手が回らない。

 

あるいは、クワメ・トゥーレ(カーマイケル)の全思想をもっと詳しく知りたい。特にアメリカ批判をしただけでなく、アフリカに移住した点で人間的な興味がある。

 
アメリカの文化を日本人へ書き残す。

ブラックパンサー党などアメリカ・カルチャーの知識を日本人に行き渡らせたい。ラッパーの2pacの母親がそうだったからRap系の人か、映画好きか、この辺りの日本人しか知らないのは問題がある。そういう知識を書いた記事や書籍を書き残したい。

 

以上、不完全ながらも、コロナ自粛期間に、久しぶりにスパイク・リーの映画『ブラック・クランズマン』を観て、考えた自分の課題でした。

 

 

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https://www.youtube.com/watch?v=9TrJGYJjL9E

論語「暴虎馮河して死して悔いなき者は」ー令和2年2月24日(月)晴れ

論語「暴虎馮河して死して悔いなき者は」ー令和2年2月24日(月)晴れ

 

「子の曰わく、暴虎馮河(ぼうこひょうか)して死して悔いなき者は、吾(わ)れ与(とも)にせざるなり。必ずや事に臨みて懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成さん者なり」(述而一〇)

 

弟子の子路から「先生が大軍をお進めになるとしたら、だれといっしょになさいますか。」との質問を受けて、答えた言葉。

 

金谷治氏の現代語訳:

「虎に素手でたちむかったり河を歩いて渡ったりして、死んでもかまわないというような〔無鉄砲な〕男とは、わたしはいっしょにやらないよ。どうしてもというなら、事ににあたって身長で、よく計画をねって成し遂げるような人物とだね。」(『論語岩波文庫、1999年、132-133頁)

 

私はハードコアバンドのライブ会場で、恐くなったときに、この話を思い出しながら勇気と無謀はちがうと自分に言い聞かせた。

 

薩摩の伊地知正治(合ってたかな?自信ないな。)が、危難を察知し、飛びのいて隠れた話も好きだ。

 

 

FreeStyle Philosophy 5 VEINの動画 モッシュについて 令和2年2月23日(日)晴れ

今回はPhilosophy(哲学)というより法律や安全の話である。

news.nicovideo.jp

www.youtube.com(自分は2:56あたりのサウンドが好きだ)。

 

最近、Youtubeでハードコア系のライブ映像配信"hate5six"をよく見ている。

このチャンネルで、ハードコアバンド"Vein"のことを知った。"Jesus Piece"もかっこいい。

 

2017年7月にフィラデルフィアのエレクトリックファクトリー(英語のwikipediaによるとフランクリンミュージックホールというが、元々電気工場だったとかなんとか・・・)

 

Youtubeのコメントが面白い!

 

映像中、「VEIN」と書いたパーカーあるいはウィンドブレーカーの聴衆が多数写っているのが目に付くが、それを見たAlec Turcot氏のコメントが面白い(翻訳は拙訳)。

 

「I havent seen this many windbreakers since the last time I went inside a North Face department store」

(「こんなに多数のウィンブレ野郎を見たのは、ノースフェイスのショップに行ったとき以来だぜ」)

 

だって(笑)。本人たちが真剣なだけに面白い。

 

もう一つが今回の問題なんだけども、モッシュでの事故である。

sunday square氏のコメントに

「3:10 RIP to that dude」(「あばよ、3:10に映っている男」)

とあったので、やっぱりケガ人が出たのかなと思って、巻き戻してみたら画面左下の男が、後ろからローリングしている別の男の腕に、後頭部を殴られている。

 

自分は音楽を楽しむのは好きだが、暴力的なモッシュは嫌いだ。あれに入っていかなかったからって弱いと思わない。

 

自分がケガしたら最悪だし、相手をケガさせても後悔する。

病院で治るようなものならともかく、目にケガしたり、歯が折れたら、取り返しがつかない。

無謀の一言である。勇気と無謀は区別されるべきなのである。

 

ハードコアのライブだから当然だろって?

かも知れない。こう考える私がダサいだけなのかも知れない。

ケガについて主催者は責任を負う旨書いていないだろうし、ハードコア系のライブのチラシを見ても当事者間で決着つけることになっている。

要するに「自己責任」な訳だ。

政治の世界の「自己責任」は批判されるが、ハードコア系のライブでは通用する。

何故だろう?ハードコアだからだろうか?なぜハードコアだったら「自己責任」は許されるのだろうか?

 

あまりにもひどいケガだと被害者は、家に帰ったあと、後悔するだろう。

ダサいと思っても警察に言うこともあるだろう。法律論にもなるだろう。

その場合、学生時代に習った民法の「不法行為」の問題になるだろう。北海道とかのスキー場で、見知らぬ者同士がぶつかった責任みたいな。でも、ちょっとちがうな。

 

news.nicovideo.jp

その時本当に好きなバンドのファン同士だから許すなんて気持ちになるだろうか?

私はならない。

 

だったらこなけりゃいい?それはその通りだ。だけどライブ会場に行ったからと言って、何でも包括的に合意した訳ではないだろう。ホテルに言っても、NOはNOなのである。やっぱり嫌な人もいる。その辺のデリケートさが大事だと考えて、世の中に反抗しているのではないのか?

 

世界平和や人間尊重を謳っていても、自分の周辺では「自己責任」や暴力を許すのは、ひっかかる。

 

まあ、ひとまずこれぐらいにして。

 

ANTIVIST氏のコメント

「Extremely confused. Is every person in a windbreaker that gets a hold of the mic a also a singer in another band or....?」

(めっちゃ、困惑しています。ウィンブレ着てマイクを握っている一人ひとりは、別のバンドのシンガーなのか?それとも・・・何なの?)

 

やっぱりそうだよね。戸惑うよね。何これって。

興奮した聴取をも巻き込んでのハードコアライブの良さなんだろうと思っている。

 

ざっくりこんな話。色々行ったけど、カッコよすぎるから聴いてみて。

 

www.youtube.com

 

FreeStyle Philosophy 4 Twitching TonguesのPV 令和二年二月十一日(日)晴れ

FreeStyle Philosophy 4 Twitching TonguesのPV 令和二年二月十一日(日)晴れ

 

FreeStyle Philosophyが無用と言うのなら、こういうPVは何なんだ。

黙って見ていろというのか。

何故、アメリカの国旗カラーを身にまとった男が、切腹し、ボーカルが介錯するのだろうか?

何故、アメリカのハードコアバンドがそんなことをするのだろうか?

考えてはいけないのだろうか?

 

哲学や思想じゃない?大きなお世話だ!

ハードコアに詳しくないのに、そんなこと言うな?じゃあ、解釈して見せてくれよ!

 

 

www.youtube.com

森羅万象の不思議、森羅万象への驚きが哲学なんだから!

 

FreeStyle Philosophy 3 DJ KRUSH氏の音楽 令和二年二月九日(日)晴れのち曇り

FreeStyle Philosophy 3 DJ KRUSH氏の音楽 令和二年二月九日(日)晴れのち曇り

 


Dj Krush - DJ set @ Sónar 2019 (full show)

 

私はDJ KRUSH氏に詳しい訳でも、クラブカルチャーの中で育った訳でもない。

以前にハードコアバンドのPALMの歌詞についてFreeStylePhilosophyの中で書いたが、やはりPALMに詳しい訳でも、ハードコア系のライブハウスで育った訳でもない。

 

だが、世界的に活躍しているバンドやDJが奏でる音楽、これらを日本の思想や哲学の観点からどう言い表せばよいのだろうか?

 

FreeStylePhilosophyは、学術論文では表せない、学術の序列や上下関係に従いたくない、むしろ反旗を翻したい、そんな気持ちの俺が、日本の哲学や思想の中に含められていないDJ KRUSHPALMを見て感じたことを、生きた証として言葉で表現して残して置きたい。

 

「日本」や「日本人」、在日外国人を含めて「日本生まれ」「日本育ち」など、「日本」ということだけで括る必要はない。そういう批判があることはもちろん分かっている。確かにそうだ。DJはDJだし、ハードコアはハードコアだ。哲学は哲学だし、サッカーはサッカーだ。そこに「日本の~」という付ける必要性はない。

 

だがこういう音楽は何と表現すればいいのだろうか。「日本に結びつける必要性のなさ」だけでは、救いきれない自分の奥底にある何かがある。それは日本のカルチャーに何かが関係している。それを言い表している人がどれだけいるのだろか。

 

こういう音楽も明治以降、欧米のカルチャーと日本人乃至は日本の在日外国人が出会った表現方法なのである。別に歌舞伎調の音楽を電子的に演奏すれば、いいなんて言っていない。でもエレキギター琉球音楽を弾いても、「魂のこもったもの」は琉球の音楽なのである。

 

 

そんなことを(少なくとも)視野に入れていない、日本の哲学や思想に魅力を感じない。視野に入れても、歯が立たないこともある。でも、その屍から次の世代が生まれてくると思う。

 

拙い過去記事ですが、よろしければどうぞ。

book-zazen.hatenablog.com

 

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