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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

維新道楽紀行 飛騨高山篇⑦ 飛騨護国神社 令和4年8月20日(日)晴れ 

維新道楽紀行 飛騨高山篇⑦ 飛騨護国神社 令和4年8月20日(日)晴れ 

 

飛騨護国神社(招魂社)

飛騨護国神社も訪れることを楽しみにしていた。

旅の前に護国神社を調べて見ると、飛騨護国神社のHPが見つかり、そこに靖国神社宮司の加茂百樹とも縁がある神社であると記載されていたからだ。

www.hidatakayama.ne.jp

加茂百樹は、賀茂真淵の流れを汲む国学者であり、また藤井稜威の弟でもあるという。

藤井稜威は、賀屋鎌子さんの夫ということで、両名が賀屋興宣の両親ということにあたる。賀屋興宣が大学時代に影響を受けたのは、筧克彦である。賀屋は、「東京裁判」で「A級戦犯」となり、巣鴨プリズンに服役した人物である。

そういう神社であったが、しかし特に何もなく参拝しただけであった。

 

哲学研究者の高橋哲哉氏は『靖国問題』(ちくま新書532、2005年)の中で、葦津珍彦の父・葦津耕次郎と靖国神社宮司の賀茂百樹との論争を扱っている。

1934年に靖国神社で仏教各派が参加する仏式の供養を行うために神官と僧侶とからなる「靖国会」を作ることを耕次郎が提唱したという(上掲書・58頁)。

葦津耕次郎の立場:靖国の英霊を讃えるのみならず、その苦難の中亡くなっていった面を見て供養が必要である。

加茂百樹の立場:戦士した兵士は大安心、大歓喜しながら死んでいった。

結局、葦津の提唱は取り下げざるを得なくなったという。

したがって、高橋は靖国神社の祭祀の本質を次のように結論づける。

靖国の祭り(祀り)を、「悲しみ」の祭り(祀り)と考えることは困難である。それは、悲しみを抑圧して戦死を顕彰せずにはいられない「国家の際祭祀」なのである」(59頁)。

また、記述の順番は前後するが「靖国の論理」とは、「戦死を悲しむことを本質とするのではなく、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするものである。靖国の言説は、戦死の美化、顕彰のレトリックに満ちている」(54頁)と説いている。

私は戦死を歓喜することはできないからもし加茂百樹が上記のように考えていたのでなら共感できないが、その死を悲しんだ上で、なお一命を捧げた尊い犠牲はあると考える。それが私の立場であり、考え方、感じ方である。

高橋哲哉氏の論には赤澤史郎氏の研究を参照し、葦津耕次郎、加茂百樹などの議論を扱っているのだが(p.58に「赤澤史郎『近代日本の思想動員と宗教批判』一九八五年に拠るとある」)、もはや葦津珍彦はともかく議論の両当事者の著作や主張は知られておらず、入手することも難しい。

だから、ここが一体どういう神社なのか、どういう考えで成立し、維持されている神社なのか学習できる施設があった方がよいと感じた。

(ちなみに隣には日曜日にもやっている児童の保育施設みたいなものがあったが、どういう施設なのだろうか。)

 

参考:記述にあたっては、下記サイトを参照させていただきました。いつも勉強になります。

歴史が眠る多磨霊園

www6.plala.or.jp

 

過去記事:葦津珍彦については、以下の過去記事を参照されたい。

 

book-zazen.hatenablog.com

 

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