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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

私の西郷隆盛像の形成過程ー平成30年8月15日(水)

私の西郷隆盛像の形成過程

 

今年の前半戦が終わった。後半戦は、鹿児島旅行から始まる。

もうすでに人生半分を過ぎていると自覚していることは何度も書いて来た。

今年以外に良いタイミングで鹿児島に行き、西郷隆盛について書く機会などなかなか訪れないかも知れない。 

一生に一回のタイミングだと思い、ここに私の西郷隆盛像を書き残しておきたい。

 

私はもちろん「大西郷」の偉大さを認めることにやぶさかではない。だが、これまでどちらかというと、山岡鉄舟の方が好きであった。それは大森曹玄氏に影響を受けてのことだ。

 

西郷隆盛の方はどうだろうか。私の西郷隆盛像は、歴史ドラマなどの影響を除けば、葦津珍彦氏の『永遠の維新者』によって形づくられたと言えよう。だから、まずこの本について書く。

 

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西郷隆盛肖像(「近代日本人の肖像」より)

葦津珍彦著『永遠の維新者』(葦書房、昭和56年)

もともとは昭和50年に二月社から出版されたもの。現在は、葦津事務所から刊行されている。蛇足であるが、葦書房は福岡にある出版社で、葦津事務所は鎌倉に葦津氏の御子息が設立した出版社である。「地方出版社」が重要な本を出版している好例である。

 

*著者について

葦津珍彦氏は、明治42年、葦津耕次郎氏の長男として、福岡県に生まれた。筑前筥崎宮の社家。青年時代、バクーニンクロポトキンアナキズムからマルクスレーニンまでの社会主義に対する情熱を持っていたが、父の感化により神道的な思想を持つにいたる。戦前、志士的な活動家として過ごしたが、戦後、東京裁判の下、父祖の歴史が黒一色に塗りつぶされて行くことに憤慨し、近現代史を本格的に研究し始めた。

 

したがって本書は単なる歴史家や文筆家によって書かれたものではなく、自分も西南戦争で戦って見たかったという情熱を持った人物によって書かれたものである。

 

「私は、正直に告白すれば、この「永遠の維新者」という一文を草しながら、生きて西郷ほどの人物を師として、その師とともに、決起の機に会して力戦敢闘、その生涯を燃やしつくした戦没者にたいして、羨望の情を禁じがたいものがある」(前記より)

 

*本書について

構成 主論文の「永遠の維新者」があり、「従たる参考資料」として五篇の論文が収録されている。主論文は、『新勢力』の昭和50年3月・4月号に発表されたもの。

五篇の論文は、Ⅱ、Ⅲに区分されて収められている。

Ⅱ.孤戦と連合‐内戦の政治力学:「明治新政権にたいする抵抗の思想と潮流」、「禁門の変前後」、「薩長連合の政治史」

Ⅲ.明治の精神-明治国家の形成とナショナリズム:「維新史における天皇意識」、「天皇制と明治ナショナリズム

ジャンル 西南戦争における西郷隆盛を論じた史論

 テーマ 明治維新以後の我が国の歴史を、西郷隆盛の路線と大久保利通らの路線との対比で捉えて、西郷への共感を主張する。

「永遠の維新者、西郷隆盛は、悠久なる東洋政治哲学の確たる理想に根底をもち、それを追求して、世界に比類ない近代統一国家の建設のために全生命を投入した、雄偉なる史上の英雄である」(再刊の辞より)

「その西郷に相対した大久保利通は、卓抜なリアリズムをもって、近代西欧近代権力の本質をつかんで、日本の急スピードの高度発展のコースを直視する先駆となった」(同上)

「永遠の維新者」とは、明治維新後、政府の最高権力の座にあっても、あぐらをかかず、腐敗することがなかった西郷隆盛を評した言葉なのである

概観

第一章 征韓論争(p.11~

西郷隆盛が、その門下の同士とともに、城山に斃されてから、すでに一世紀の時が流れすぎた。しかしいまもなお、西郷を『永遠の維新者』としてあおぐ精神は、脈々として生きつづけている」(p.11)という一文から始まる。

 

葦津は、明治の政治史を、西郷的な東洋的政治路線と、大久保的な近代国家主義的権力思想との対立であると把握する。この両者が対立し、混合されつつ進行していったのが、明治の政治であると言う。

葦津は西洋列強との接触後の我が国の政治思想を二つの潮流に分ける。「東洋的王道インタナショナル」と「西欧近代の政治思想」である。前者の代表が西郷隆盛であり、後者の代表が大久保利通である。両者ともに薩摩藩の出身なのである。

その二人の間で争点となったのが、「征韓論」であり、「西南戦争」なのである。

 

西郷の継承者が頭山満であり、大久保の継承者が伊藤博文山県有朋であるとする。

 

第二章 反専制政府諸勢力の合流(p.45~)

この章では、西南の役前後の精神状況が明らかにされる。西南の役には、復古主義者から、急進的な民権主義者まで様々な思想潮流のものが集って来たのである。そこで葦津はこれら様々な思想が共同戦線を構築し得た理由を探ろうと「攘夷開明の思想、復古主義の思想、国権論‐民権論の思想等について、その由来と思想の論理」とを解明するのである。

 

第三章 西郷、決然と立つ(p.68~

 この章では、西郷が決起するまでの状況を扱っている。主役は鹿児島に帰った西郷だが、もう一方の主役は、東京にいる大久保利通及び川路利良である。

 大久保は、西郷と他の鹿児島人士を区別して、他を除こうとした。川路は西郷をも暗殺しようとして、私学校への挑発が繰り返された。

 葦津は川路利良が西郷以下桐野らの暗殺を命じたという前提で論を進めている。

「本文の筆者は、大久保が西郷その人の命じたとの説には疑念を残すものであるけれども、先学の諸資料を検討した結果として、川路大警視が西郷以下の暗殺をふくむ攪乱計画を命じたのは事実だと推した上で、以下の論を進めていく」(p.80)

  西郷は私学校の学生が、陸軍の火薬庫などから武器弾薬を掠奪したことについては嘆いたが、政府側が暗殺隊を送り込んできたことに対して、詰問するために決起したという(p.82)。

  西郷隆盛に「決起の名文」がないことについて、福澤諭吉、川崎紫山(黒竜会『西南記伝』の著者)、徳富蘇峰、渡辺盛衛らが残念であるとしているのに対して、葦津は反対意見を書いている。それが『永遠の維新者』を書いた大きな動機であるという。

「西郷が、一片の届書きを出しただけで、名文の反政府挙兵大宣言を書かなかったのを、たれもかれも拙かったとする点で、碩学史家の史論は一致しているといっていいようだ」(p.101)。

  

第四章 西南役所感

 この章では、西南の役の戦局についての葦津の感想が述べられる。

葦津は西郷らの同士的な戦闘精神を讃える。だが、西郷らには「近代国家内戦の法則」の下において負けるべくして、負けたとも言う。

「西郷は、遠謀深慮の英知の人ではあったけれども、参議下野後三年の間に充実した政府の、近代陸海軍の物力についての知識が欠けていたのではあるまいか」(p.111)。「かれは政治思想戦では政府に勝つだけの実力があったし、それを自信したのはいい。しかし本格的な近代武装権力との新しい軍事的内戦の戦術については、知識と準備を欠いていたとみとめざるをえない」(p.111~112)

特に海軍力を有していなかったことは、鹿児島の地理的な条件として、致命的なものがあったとも指摘している(p.110)。

フランスで軍事学を学んできた村田新八のような人物も味方にはいたのだが、それはあくまでも国軍対国軍との戦闘を扱ったものであった(p.112)。

 

  まとめ

西郷隆盛の思想と行動について

「西郷は、むしろ日本流漢学の仁政主義者と呼んだほうがいいだろう」(p.53)。

西洋文明への関心 

「西郷は、その藩主島津斉彬にもっとも深い思想的感化をうけた。斉彬は当時まれにみる洋学開明派である。西郷は決して西洋文明の長所を知らないのではなくて、非常につよい関心がある。安政時代に橋本左内と交わり、その後は佐久間象山、勝安房などの開明派の説をきいて、それを高く評価している。洋書は読まなかったが、幕末時代には北京、上海あたりで出版された洋学知識の漢訳書を愛読している。維新当時からは洋学者福澤諭吉の新刊書なども、みずから精読したばかりでなく、知友にも読むことをすすめている」(p.19)

 

西郷の文明観南洲神社社務所発行『西郷南洲先生遺芳』の口語訳より)

「文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたたえていう言葉であって、宮殿が大きくおごそかであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけが華やかでうわついていたりすることをいうのではない。世の中の人のいうところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮(文化の開けないこと)なのか少しもわからない。自分はかつてある人と議論したことがある。自分が西洋はやばんだと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。いや、やばんだとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでにやばんだと申されるのかと力をこめていうので、もし西洋がほんとうに文明であったら、未開国に対してはいつくしみ愛する心をもととして懇々と説きさとし、もって文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏しく道理に暗い国に対する程むごく残忍なことをして自分たちの利益のみをはかるのは晃間にやばんであると申したところ、その人もさすがに口をつぐんで返答できなかったよと笑って話された」(南洲神社社務所発行『西郷南洲先生遺芳』、p.26)。

 

西郷南洲遺訓』のこの一節について葦津は、「この有名な西郷の文明論は、ふかく銘記されねばならない。それは東洋の王道文明を高くかかげて、滔々たる欧米帝国主義に対決する維新攘夷の精神の大道を示している」(p.20)と語る。それが頭山満孫文の思想の源流にあると主張するのである。

ここでも葦津は、我が国近現代の歴史を「東洋王道」と「西欧の覇道」の対決であると見ていることが分かる。

 

「決起の名文」がないことについて

「文書には残さないで、ただ黙示したことが、人生には非常に多い」(p.102)「西郷の『黙』には千鈞の重みを感ずるものである」(同頁)。

 

明治時代の国際政治

「明治時代がすすむとともに、日本人の政治思想も、東洋的王道よりも西欧近代政治学の影響がつよくなっていく。この二つの異質の精神が、鋭く相対決したり、時によっては混合されたりして、微妙複雑に進展していったところに、明治日本の国際政治があり、軍事外交があった」「西南の役こそは、この二つの精神の大潮流が最初に相対決した壮大な内乱であった」(p.42)

 

 大久保利通(p.31)

 

副島種臣

「西郷が、当時の政府要人のなかで高く評価した人物に、副島種臣がある」(p.35)。

「副島という人は開国日本の外相として、新しい国際法も国際儀礼も大いに勉強したが、重厚な君子であって、洋風開明派のような軽薄さがまったくない」(p.37)。

 

論点

維新と革命について(p.14

今日でも、「大阪維新の会」などが存在していることからわかるように、「維新」という語は、たまに見ることがある。そもそも「維新」とは、どのような意味なのだろうか。 

「同じ変革といっても、『維新』と『革命』の語の概念については、私は現代思想を論ずる場合に、きびしく区別区分している」(p.14)

 

 

*「列島強靭化」の提唱で有名な藤井聡氏は、「平成の日本人はとかく『維新』や『改革』が大好きだ。一部の政治家は「維新」だの「改革」だのという勇ましい言葉を口にさえすれば、票が入ると思っているのか、選挙の度にとにかく「改革だ!」「維新だ!」と言い放つが、それは詰まる所、日本人が「維新」や「改革」が大好きだから」(藤井聡『維新改革の正体』産経新聞出版平成24年、p.3)

と述べて、規制緩和新自由主義的傾向のある政策などを批判的に取り上げる。橋本内閣の「行政改革」、小泉内閣の「構造改革」、大前研一氏の「平成維新」、橋本徹氏の「大阪維新の会」などが挙げられている。

葦津を参考にして主張してみれば、それらの動きは明治維新の中でも、大久保・伊藤らの西洋列強風の路線を今風に置き換えたものなのである。東洋王道的な「維新」とはそもそも異なると考える。

 

「東洋的王道インタナショナル」について(p.19)

再読して特に気になった点は、ここである。

1.葦津は「西郷に端的にみられるような、東洋王道の国家と言う思想を理解するためには、民族や主権にたいする考え方の、今日とはよほど異なることを知らねばならないのである」(p.37)と主張する。

 

1´.「中国民族革命の孫文が『三民主義講話』のなかで語っているように、もともと東洋の政治思想(孔孟の思想)というものは「天下の仁政」(世界の人民のための良い政治)を重んじたのであった、民族・政府の独立・主権について、二十世紀人のような思想はなく、むしろインタナショナルである」と指摘する(p.37)。

 

1´´.さらに「異民族の仁政」よりも、同じ民族の統治でさえあれば苛烈専制の暴君の政治のほうがよい、などという思想は、まったくない」(p.38)とも主張している。

 

2.上記のような考え方の源流を領土的野心による侵略と仁政のために暴政の国を放伐すること区別し、後者を義とした孟子に求めている。

 

3. そして西郷亡き後の継承者たる頭山満の名を挙げ「救国救民の革命戦士にたいしては、その人格を重んじ、その自主性を毫もおかすことなく、礼をもって相対したけれども、清韓王朝の専制政府にたいしては、その独立主権の不可侵を重んじたわけではない」(p.40)と例示している。

 

4.素朴に考えて、このような論理を肯定することは、両刃の剣となるのではないだろうか。日韓併合をある角度から正当化できるのみならず、逆にこの論理によってアメリカの占領や日本国憲法の制定を補強できることにもなるのではないか。近くはイラク戦争時のアメリカのネオコンに共通性のある論理が見られた。主権侵害、先制攻撃をいとわない「民主主義体制への変革」(レジーム・チェンジ)である。とはいえ私の指摘など、葦津は百も承知なのである。

 

5.葦津は言う。「東洋インタナショナルともいうべき東洋王道主義にもとづく、このような中国人や韓国人に対する仁政、連帯の精神が、一歩を誤ると内政干渉ともなり、侵略、征服ともなる」(p.40)。

 

そう認めつつも葦津は、明治の東洋インタナショナルが西欧の植民地帝国主義と同罪と言えないという。「その思想の心理と論理とをあきらかにしなくては、明治の思想の歴史は、わからないであろう」(p.41)

そして、征韓論が植民地征服とは異なるという『代表的日本人』での内村鑑三を引き合いに出し、自己の論を補強している。

もちろん葦津はその後我が国の対韓政策が、東洋的王道よりも西欧近代政治学の影響が強くなっていったことは認める。だが、明治時代の我が国の国際政治は、これらの対立や混合から生まれたものであると主張する(p.42)。

 

 (作成中)

 

 

徳富蘇峰の主張との関係 

文中、葦津は二度にわたって徳富蘇峰の西郷評を批判している。 

 (1)「決起の名文」がないことについて(p.100)

(2)「西郷の絶筆」たる軍令について(p.118)

 

(以下、作成中)

 

 復古主義について

 復古思想は、明治維新を推進した重要な思想である。

 

「復古派には、詩人的な直感の鋭さと情ねつ的な行動力とがあった。だがかれらが、西欧的近代化の道を真に克服するためには、みずからが開明派に劣らないだけの洋学知識をもち、その洋学の強みと弱みとを知りつくす必要があった。知らずしては、相手を克服することはできない。復古派は近代西欧と洋学派の弱点を「直感した」ーその直感は決して誤っていたというのではなく、一世紀の実験ののち、今日にいたって、その直感の存外に正しかったことが現代の一部の識者にみとめられてきたーけれども、当時のかれらには洋学についての知的理解がなく、まったく無知に近かったといっていい。すくなくとも開明派の洋学知識には遠く及ばなかった」(p.51) 

 

「復古派の弱みは、精神や思想の上ではきびしい抵抗を示しても、新しく国際社会のなかに投げ入れられた日本国が、もとっも緊急とする「政策」についての有能さを示しえなかったことだ」(p.52)

 「復古派は、決して有能な国家建設者ではなかった」(p.53)。

 

「西郷とはいかなる人物か。明治維新政府の重大な進歩改革は、藩〔ママ〕籍奉還でも徴兵令の施工でもすべて西郷の同意によって、西郷の実力的支援によって可能であったといいうる。それは、かれは進歩的であったといいうるのだろうか。これは問題である。かれはこれらの進歩的改革について、進歩派の提案を慎重に聞き、これを理解して同意し、支援した。かれには進歩を理解する見識があった。しかしかれは決して進歩の先駆的提案者ではなかった。かれは心情的には、むしろ復古主義者に共感する素質をもっていた」(「明治新政権にたいする抵抗の思想と潮流」p.151)

頭山満について(p.40)

「西郷亡きのちに、多くの人からその精神的継承者と評せられたのが頭山満である」(p.40)

 

 

 

永遠の維新者 (「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ (2))

永遠の維新者 (「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズ (2))

 

 

 

永遠の維新者 (1981年)

永遠の維新者 (1981年)

 

 

 

附録

今村均・元陸軍大将の岳父・千田登文、西郷の首級を見つけた

『日本人の自伝』(平凡社、1981年)より

今村均・元陸軍大将は私が旧軍人の中でも私が一番敬意を抱いている軍人である。明治十九年の生まれであり、大東亜戦争時には、陸軍中将から陸軍大将の職責を担った。インドネシアからラバウル方面での司令官であり、ラバウルで敗戦を迎えた。オランダからは無罪判決を受けたが、オーストラリア軍事裁判によって禁固10年の判決を受ける。祖国・巣鴨で服役する予定であったが、自ら志願してマヌス島(ニューギニア付近の島)に赴き、3年5カ月服役し、我が国に帰国し、残りの刑期を巣鴨で終えた。

 

その今村均氏の妻の父親が、西南戦争の際に、部下の前田一等兵が見つけた西郷の首級を山県有朋らに差し上げた人物なのである。山県は「運命とは申せ、変わりはてたお姿にお会い申します・・・」と涙を流したという(上掲書、p.415)。

千田登文氏は石川県民、金沢市民として県民代表のような存在だったとのこと(p.411)。

 

未読であるが、歴史小説家の伊東潤氏が『西郷の首』(KADOKAWA、2017年)という本で西郷の首級を山県らに差し上げた千田氏と大久保利通を殺害した石川一郎氏らを描いているようだ。現代の小説は普段ほとんど読まないが、一度読んで見たいと思う。

 

西郷の首

西郷の首

 

 

 

イエローハットの創業者・鍵山秀三郎氏は『人生の作法』(PHP研究所、2009年)「第七章 教養の作法」で、最も尊敬している歴史上の人物として西郷隆盛を挙げている。その理由として、西郷隆盛が生涯修行を貫き通したからであるとしている。

 

人生の作法

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