今日借りた本ーシェリル・ミサック『真理・政治・道徳~プラグマティズムと熟慮』令和4年12月11日(日)
今日借りた本ーシェリル・ミサック『真理・政治・道徳性~プラグマティズムと熟考』令和4年12月11日(日)
伊藤邦武氏の『プラグマティズム入門』(ちくま新書1165、2016年)を読んでシェリル・ミサックの著作を読んでみたくなった。
そもそも伊藤氏の『プラグマティズム入門』を購入した動機は、リチャード・ローティーのことを深く知るためのきっかけが欲しかったからである。
直近で挙げるべき理由としては、下記の過去記事において佐伯啓思氏の『経済学の方法』の中で「アメリカの哲学者リチャード・ローティーの指摘について言及し、シカゴ学派の勝利以後、「アメリカでも日本でも、左翼的なマルクス主義は、経済学部から文学部へ移籍していったのである。つまり階級闘争を放棄し、ジェンダーや文化的な多様性と差異をめぐる闘争へと足場を変えていった」(佐伯啓思『経済学の方法』142頁。太字引用者)というくだりが、「今週の踊るヒット賞」であった。」と書いていた。
伊藤氏の上掲書においては、「少し前のプラグマティズム」として、クワイン、ローティー、パトナムらの名が挙げられており、私が永井均氏の本を読み始めた1998年あたり、勁草書房の目録を読んでいたころの名前と一致するのである。なのではあるが、アメリカの分析哲学の著作(一次文献)に親しむことなく、この年になってしまった。
「これからのプラグマティズム」としてブランダム、マクベスとティエルスラン、ハークとミサックの名が挙げられていた。
Cheryl Misak, "Truth, Politics, Morality~Pragmatism and deliberation" Routledge, 2000
オックスフォード大学でデイビッド・ウィギンズとハークの下で博士号を取得し、カナダのトロント大学の教授であるシェリル・ミサックの業績としては、『新しいプラグマティズム』、『ケンブリッジコンパニオン・パース』、『オックスフォードハンドブック・現代アメリカ哲学』などの編集という啓蒙的業績にのみならず、下記の2点が独自の理論展開を行ったものであるという。
①『真理と探究の終わり』(1st edition 1991, 2nd edition 2004)
パース理解に新生面を拓いた著作。
②『真理・政治・道徳』(2000)
彼女の真理理解から、道徳哲学や政治哲学を論じたもの。
私が借りたのは、②にあたる。
私が本書を借りた動機は、現代の世界情勢の中で、アメリカやイギリス、カナダなど英語圏を中心とした哲学者らは、自己の哲学からどのような政治哲学を展開しているのか知りたかったからである。
このあたり伊藤氏は
「今日の道徳哲学や政治哲学の構想においては、真理概念に対する強い懐疑が浸透している。民主主義体制を他の政治体制に優先する立場と認める理論にあっても、その真理や正当性についてはとりあえず判断を停止し、あくまでも手続き的な公平性に訴えると同時に歴史的な有効性についても顧慮することで、十分にその優位性を確保できるとするのが、今日のこの分野での一般的傾向である。」(258頁)
『正義論』は別として、その後のロールズやローティーの立場もこれにあたるという。
ミサックはこれに飽き足らないものを感じ、独自の理論展開をするという。
ハードカバーは約2万円、ペーパーバックでも7000円するから、いますぐには買えない。だから大学図書館で借りた。
借り出したものの、私の英語力や時間的制約でどれだけモノにできるのか分からない。
第一論文「The problem of justification」(正当化という問題)の小見出しを拾って見ると、以下のようになる。*直後の日本語は拙訳。
Carl Schmitt and the aim of sbustantive homogeneity
カール・シュミットと実質的同一性(?)の目的
マイケル・イグナティエフの引用あり
Rorty and the abandonment of justification
ローティーと正当化の放棄
Rawls: political, not metaphysical
ロールズによる政治的な正当化。形而上学的ではなく・・・みたいな。
Harmony and the virtues of deliberation
熟慮の調和と美徳
Habermas, Apel, and the transcendental argument
ハーバーマス、アーペルと超越論的議論
第一論文からカール・シュミットを扱っている。
呉智英氏の諸著作でカール・シュミットを知り、大学時代カール・シュミットの翻訳をした人物の講義も受講したことがあるが、その後、呉智英に影響を受けた人物が、独自の真理論をベースに、ロールズやローティーを批判的に考察して、自身の社会哲学を展開した日本人を私は知らないのである。私自身も何もできていないのであるが・・・。その点が情けない。
でもハーバーマスやアーペルってドイツの法哲学で扱っているし、そこに戻ったのかなという印象もあり。
社会正義や実践哲学のように自分がメインテーマとしてきた事柄についても、何もなすことのないまま年老いていく恐怖、いらだち、ふがいなさ。最悪。
一方で、何故日本の大学で西洋の政治思想を学ぶのかという理由も見えてくるだろう。このような認識論的な哲学の考察の上に、実践哲学が構築されて、議論がなされるという素晴らしさがあるからなのである。