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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

書評③・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第二章 モーリス・バレス

書評③・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第二章 モーリス・バレス

 

問題提起

我々の社会において文学者・音楽家・映画人らが反戦運動や反体制運動(石原慎太郎氏や安倍晋三氏に向けたものなど)などの政治活動をする光景は見慣れたものとなっている。それは主としてマルクス主義などの左翼思想や日本国憲法などの市民主義に基づいたものだ。我々はそれに慣らされており、文学や思想など自己の作品に基づく政治活動は左翼が本家本元で、保守派はこれらの行動を冷笑し、右翼は一部の思想右翼以外にそのようなことをする印象はない。だがそれは正しい捉え方なのだろうか?

アンガージュマン

第二章において福田氏は、「尊大な愛国的作家」、「反ドレイフュス派の指導者」として知られるモーリス・バレス(MAURICE BARRES)を取り上げる。バレスこそ、創作行為の絶対視から、テクスト外の政治活動の必然性を論じ、「探求としての小説」、「自我の自由を求めて行動する主人公の小説」を試み、近代における政治と文学の基本的なプロブレマティーク(問題群)の源流に位置し、アルゴンやマルローなど左右を問わない影響を与えた人物なのである。つまり「アンガージュマン」の元祖なのである。

アンガージュマンとは「知識人が自らの自由に基づいて選択したある特定の政治的立場から現実社会の様々な問題に対して積極的に関わること」(『岩波 哲学・思想事典』、p.51)

 

出発点:

『自我礼拝』三部作

バレスの出発点は、「自我のアプリオリな統一性の不在」という認識である。その問題意識が結実したのが、『自我礼拝』三部作なのである。だが、どのようにして内省的な自我から特定の政治的立場へコミットするアンガージュマンが生まれるのだろうか。

 

この三部作は「蛮族の眼の下」、「自由人」、「ベレニスの園」に分かれている。

『自我礼拝』のメインテーマ:「自我」「主体」の統一性の不在について。

「蛮族の眼の下に」:自我の即時的な存在の否定。

「自由人」:いかにして自我をつくられるか。自我の確立としての行動の必要性。

自我建設。特に美への感動を通じて、ヴェネツィアのような芸術都市を建設しようとする政治へ向かう。

「ベレニスの園」:アンガージュマンを通じての無意識との合一による自我の確立

(78頁)。この「無意識との合一」は、「死者と大地への合一」という民族主義的な愛国心となっていく。

考察

バレスにおいて「自我」とは「アプリオリかつ無条件に存在しうるものではない」(67頁)のだが、福田氏は「この認識はさらに進めば、近代西欧がその知性の前提にしてきた、主体としての人間、個性ある人間といった存在は、はたしてほんとうに存在しているのかという疑問へと結びつく」と指摘する(68頁)。

「近代的知と文化の前提である(「我思う、ゆえに我あり」という)統一性をもった、あらゆる認識の主体としての「自我」の実在と構造を直接問い直すことから一歩を踏み出したことは、極めて野心的であると同時に先鋭的な試みだった」(68頁)。

 

バレスにおいては自我の「アプリオリな」「統一性」が問題となっているという。「アプリオリ」なというのは分かりにくいが、経験に先立ってとか、あたかも超越した視点から眺めてという意味なのか、当たり前の前提とされている、自明なというぐらいの意味なのかは分からない。そしてそこで問題となっているのは自我の「統一性」だという。だたし、哲学的にその疑問の根拠がほとんど説明されていない。その点について私は、和辻哲郎デカルト批判に説得力を感じる。

 

デカルト自身は哲学の原理として「コギト・エルゴ・スム」で言い表された考察をしたのであり、その懐疑の対象から道徳を除外していた。したがって、社会革命を起こそうとした訳ではない。だが、その結論のインパクトは社会にまで及んだと考えてよい。

小林道夫氏はデカルトが『方法序説』で、人間精神の生まれつきの「平等」に触れて

「これはフランス革命のスローガン、自由・平等・友愛を構成することになる。実際に、二十世紀のあるフランスの政治家は、フランス革命の原理はデカルトにおいてはじめてみいだされるといっている。」(小林道夫デカルト入門』ちくま新書、2006年、75頁)と言っているし、「彼が示した思想上の革新が結果的に社会体制上の革命の源にもなったともいえるのである」(小林・同頁)とも言っているのを挙げておく。

 

和辻哲郎倫理学

デカルトの哲学を「近世哲学の出発点たる孤立的自我の立場」として批判する和辻はどのようにその主張を展開しているのだろうか。そのさわりだけ見てみよう。(引用は岩波書店和辻哲郎全集』1962年、第十巻より)

倫理学を「人間」の学として規定しようとする第一の意義は、倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである。この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。」(11頁)。

「この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。」(11頁)。

「個人の把握はそれ自身としては近代精神の功績であり、また我々が忘れ去ってはならない重大な意義を帯びているのであるが、しかし個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤謬のもととなるのである。」(11頁)。

「近世哲学の出発点たる孤立的自我の立場もまさにその一つの例にほかならない。」(11頁)。これはデカルトのことと考えてよい。

「いかに極端な孤立的自我の主張といえども、それが友人に向かって、あるいは教場において、共通の言語によって主張せられる限りはすでに人々の間に置かれた人間の問いである」(32頁)。

哲学史上の自我の問題のごときは、場所と時代のとの制約を超えた人間共同の問題であって、決して孤立的な我れのみの問題はあり得ない」(32頁)。

「たとえ人は己れの問いを心に秘めて絶対に他と語り合わない場合でも、その問いがすでに言葉や記号によって形成されている限りにおいては、本質的にはすでに共同の問いである。そうして人は言葉や記号によらずして考えることができず、したがって問いを持つこともできない」(33頁)。

「だから人はただ孤りで考えることはできるが、しかしそれは共同の問題をひとりで考えているのである。己れの問題を「心に秘める」という現象がすでにそのことを語っている」(33頁)。

 

和辻は言語の本質的社会性や確実なものを問う以前に存在する「間柄」から、「デカルト的自我」「孤立的自我」を迎え撃とうとする。

 

 まとめ

この後バレスはブーランジェ将軍支持の政治活動や、反ドレイフュス運動へと行動を続けていく。アンガージュマンしながらも、第三共和政を描き出した作品として評価の高い『国民的エネルギーの小説』三部作を生み出していく姿は圧巻である。

格闘家の前田明日氏は、福田氏との対談で、「新しいスイッチを入れてくれる人がいい」「相手を否定し、批判だけの人はダメ」という趣旨のことを述べていたが、バレスについての福田氏の叙述はまさに私にとって「新しいスイッチ」だった。

 

仏文の魅力

バレスの進めた作業の意義

「近代ヒューマニズムの前提と近代的知の統一性を問い直すことであると同時に、サンボリズムや文献学・言語学がひそかに進めていた作業を、表層にみちびきとりだし主題にすることで、ヴァレリー、ジイドからプルーストにいたる二十世紀文学の門戸を開け放つことになった」(68頁)。

 

このあたり丸山圭三郎氏のソシュール本や、橋爪大三郎氏らの構造主義の入門書など高校あたりから読んできたが、いまいち自分の中で興味が湧かなかったスポット。オッサンになって興味が湧くなんて悲しすぎるよ。意味ないよ。

 

その文学形式について

「「自我」の非連続性という認識を作品構造に直接反映させるという文学形式に対する意識は「骰子一擲」より十年も早い当時はもとより、J・ジョイスの文学的試みを知っている現在でも新鮮なものである。」(68頁)

マラルメの「骰子一擲」(「とうしいってき」)あるいは「双賽一擲」(「そうさいいってき」だったと思う。間違ってたらゴメン。)とも訳される作品なんて、もう金輪際縁がないものだと思っていたが、人生でまた浮上してきた。

「またこのような「自我」の分裂、即自的な主体の不在というテーマの文学的な追究とその形式・文体への反映という課題は、ジイドはもちろん、「テスト氏」や眠りから目覚めによる自我の発生のテーマに憑かれた詩人であり、晩年にはデカルトに取り組んだヴァレリー、そして自我の重層性とその記憶や資格との関係に、『失われた時を求めて』の大部分をあてたプルーストにまで引き継がれ、現代フランス小説の主流を形作った」(73頁)。

 

プルーストの『失われた時を求めて』のタイトルを見はするが、何が描かれているのか分からなかった世界に通路ができた印象だ。仏文への興味がふつふつと湧いてきて、今大学に通うなら仏文科に進むだろう(笑)。今度大学に入るなら、コンピューターサイエンスや経営学などもっと金になる学部を選ぶべきなのだが、自分の問題意識はこのあたりにあるようで、何度考えても、思想・哲学・文学系に行きついてしまう。 この領域の業績もないし、いま社会的に恵まれないのは、そのせいだと分かっているけれども・・・。

 

福田氏が浅田彰氏など、主としてフランスの現代思想に依拠した論者と対談するなど一目を置かれている理由が分かった。石原慎太郎氏への接近も本節で描かれていたような世界に理由があるのだろうか。また逆に高橋哲哉氏や鵜飼哲氏らの石原慎太郎氏に対する反発の背景にも文学的な理由がありそうだ。さらにまた大学では仏文を学んだ小林よしのり氏(確かサルトルの『嘔吐』を愛読していたと思う)らの活動に端を発する「歴史問題」への反体運動の主力が高橋・鵜飼氏ペアあたりから発生してきたのも本書を読んで理由があることだなと思うようになった(何年遅れで読んでるのだよ、ということだが・・)。また西尾幹二氏と福田氏との対決も見直してみたいなと思ってきた(そんなに思っていないが・・)。

そう考えると、現代日本の政治状況であっても、仏文の影響力はもの凄いということに気が付いた。

ビバ仏文!ビバ結婚(分かる?(笑))

 

ラートブルフに対する反証

フランス第三共和制に対する国家主義者の闘争の物語『国民的エネルギーの小説』(「デラシネ」「召集」「かれらの面影」の三部作)はきわめて高く評価されている作品であることは前述した。

この点私はモーリス・バレスの作品群は、大学時代に違和感を持ちながらも学んだ法哲学で、ラートブルフが言った「意識的な「郷土芸術」や「祖国文学」は芸術的にはつねに二流に止まっている」への反証になっていると思い、痛快だった。

*ラートブルフ(田中耕太郎訳)『法哲学東京大学出版会、1961年、184頁参照。

 

こういった文学に比肩しうるのは『一つの戦史』を著わした影山正治氏の著作群だろうか。その意味でこの後、福田氏が保田與重郎に加え、影山正治氏を論じていたら読んでみたいものである。

 

また、今回不完全ながらも「デカルト的自我」に触れたことで、久ぶりに興味がわいてきた。「近代的知と文化の前提」を問いなおす試みは、我が国にも存在した。仏文も大事だが、私としてはそのことの方がもっと大切なのである。

 

ただ、モーリス・バレスの文学作品は、ほとんど翻訳されていないので、フランス語で彼の作品を読めるようになることを、生きるの目標にしたい(本当?)。

『自我礼拝』の第二部、第三部や、『国民的エネルギーの小説』の三部作を読んでみたい。

 

フィヒテの著作は読んだことがないが、和辻が『倫理学』においてフィヒテの壁の問題を考察しているし、バレスの『自我礼拝』三部作はフィヒテの影響があったと考えられているようだから、そこは残された課題だ。

 

でも、文学、法哲学、思想、政治状況などを織り交ぜて記事を書いたよ。