Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

現代の「聖人」ー呉智英と永井均のクロスオーバー 令和二年十一月二十八日(土)

現代の「聖人」ー呉智英永井均のクロスオーバー 令和二年十一月二十九日(日)

 

お気に入りの著者がクロスオーバーしてほしいと思ったことはないだろうか?

 

私にとって思想家・呉智英氏と哲学者・永井均氏とが、同じ論文について論じたことは、お互いの名前に言及していないから、「クロスオーバー」とまでは呼べないものの、色褪せない価値も持つ。

*最近では両者とも仏教(「仏教3.0」とか)への言及があるが、私はフォローしていない。また、呉氏は本格的なマンガ評論の大成者であるが、永井氏に「マンガは哲学する」という著書があるので、どこかで言及しているかも知れない。

 

その論文とは大江健三郎氏が1997年11月30日(日)の朝日新聞に載せた論文「21世紀への提言 誇り、ユーモア、想像力」の冒頭で、「なぜ人を殺してはいけないのか」について論じたことである。(以下、敬称略。)

 

1.呉智英の立場

『危険な思想家』(メディアワークス、1998年)

人権思想、民主主義などを批判的に論じた著作のあとがきで、大江健三郎の上記論文に言及している。呉が引用している箇所も含めて紹介する、

 

「一九九七年十一月三十日の朝日新聞に、ノーベル賞作家大江健三郎の長大な論文が載った。「21世紀の提言」と題されたこの大論文は、次のような恐るべき書き出しで始まる」(240頁)。

 

「恐るべき書き出し」とはどのようなものなのだろうか。呉が引用した大江論文は以下のようなものである。

 

「テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」)(大江論文より)。

 

「人を殺さないこと自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう」(大江論文より)。

 

大江論文を引用する前段で呉は、次のように述べていた。

「人権思想について、私たちは一度も徹底的に議論したことがない。民主主義について、私たちは一度も徹底的に議論したことがない。権力について、私たちは一度も徹底的に議論したことがない」(240頁)。

 

なぜか。呉は、世の中では「根本的なことについて議論しないことになっている」からだと言う。それを呉氏は一概に否定はしない。

 

「そのことは別段悪いことではない」「臭いものに蓋をしておくのは一種の知恵である」(241頁)。

 

では何が呉氏を憤慨させるのか。

 

「しかし、民主主義者や人権主義者はその智慧を拒否したのである、蓋を開けよ、議論をせよ、と言ったのである」(241頁)

 

根源的に世界の啓蒙を目指した立場の「子孫」が、自分たちのご本尊、個人という至上の価値、自分たちにとっての中心的な教義=セントラル・ドグマを論証できないでいる。それどころか、それを懐疑的に問うものに対して議論を抑えようとしている。

 

「先にも言った。議論を封殺するのは必ずしも悪いことではない。それは一つの智慧である。社会に対し歴史に対しさまざまな疑問をぶつける若者に対して、「まともな子供なら、そういう問いかけはしない」と威圧的に禁じ、「まとも」を基準にして異論を差別し排除するも、必ずしも悪いことではない。これも一つの智慧である。だが、大江健三郎はこの智慧に与する立場の人間だったのだろうか」(240-241頁。太字引用者)。

 

 

結局、戦前の天皇イデオロギーを批判しておきながら、ご本尊の価値の証明の不在、封殺という点で、「顕教密教」という構図を反復しているという点で、人権イデオロギーの側も同じことをしているのである(戦前の稀有な例外は、里見岸雄の国体学である)。

 

同書所収の「人権真理教の思考支配に抗して」も極めて重要な論文だが、そこで呉は問いかける。

 

顕教密教という二面構成を採るのは、戦前の天皇イデオロギーだけなのだろうか。広く一般民衆にはその耳に入りやすい神話を顕教として教え込み、社会の中枢たるエリート層には神話の実像を密教として密かに開示する、というイデオロギー体制は、天皇イデオロギーを最後に後を絶ったのだろうか」(163頁)。

 

天皇制のように民衆を愚昧なままにしておいて統括しようというイデオロギーならともかく、社会の主人公は民衆であるとし、民衆が目覚めることを推進する民主主義・人権思想は、その本質から言って、顕教密教という二面制を採ることはありえない」(163頁)。

 

だが「天皇イデオロギー」と「人権・民主主義思想」は、「論証不可能な中核概念を持つイデオロギー体系」という点では同一なのである(166頁)

 

ゆえに呉は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけに対する大江の対応をみて、「恐るべき」だというのである。

 

そう感じたのは、思想家の呉智英だけなのだろうか。呉が偏屈なだけなのだろうか。

次に論ずるのは、哲学者・永井均の反応である。

 

2.永井均氏の反応

永井均は「なぜ私は存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」を根源的に問う哲学者である。永井の諸著作を知る者なら、彼の感性には一目を置いているはずである。その永井は現代の「聖人」についてどう感じているのだろうか。

永井は「なぜ悪いことをしてはいけないのか」系の著作『これがニーチェだ』(講談社現代新書1401、1198年)で、大江健三郎の問題から始める

 

「一九九七年十一月三十日の朝日新聞の朝刊に、大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」という文章が載っていた。私はそれを読んでとても嫌な感じがした」(20頁)

 

なぜか。

 

「大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないのかという問いを立てることは悪いことだと主張している」。

 

(つづく)