Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

ギロチン送りー呉智英『賢者の誘惑』ー令和二年十月三日(土)くもり

ギロチン送りー呉智英『賢者の誘惑』ー令和二年十月三日(土)くもり

パラダイムそのものが問われている質問なのに、パラダイム内の回答しか許されないようなとき、これは始末に悪いんです」(呉智英『賢者の誘惑』双葉文庫、1998年(原著は1995年刊)p.70)。

 

誰かの発言が吊るしあげられる。

 

それについてどう思うかと尋ねられても、「誘導尋問の答えは決まってます」(p.72)。

 

だって「差別=悪」だし、自分が差別されたらイヤに決まっているから。

 

そう。だから「差別用語狩りは行き過ぎる」に決まってる(p.75)。

 

呉氏は、結論部分で、

 

「人権思想・民主主義、これがほんとうに正しいのか、矛盾を露呈させている人権思想・民主主義に代わりうるものは何か、こういう根源的な議論なのです」(p.76-77)

 

と述べる。だが、そんなこと思想系の大学院でもほとんど話題にならなかった。むしろ、それを強化する方向で、いかにアクロバットなことが言えるか、その教員が共感できるかが評価の対象なのである。そして「類は友を呼ぶ」。「学術」なんてそんなものなのである。

 

私が呉氏の読者となった1996年頃と比べても、フランス革命に端を発する人権思想を内面化した心象風景は、アイデンティティをめぐって、ますます拡大する一方だ。

 

もちろん具体的な場面で言われたなら、私も抗議するだろう。単なる偏見だと。でも、そういった発言に免疫がある人もいるし、割り引いて聞いている人もいる。別に統計学をやっているわけではないし、出された批判なんて先刻承知のことばかりだ。そう思っているから騒がない人もいる。なのに、自己の信奉する思想に懐疑の心を持たず、違和を感じると相手を批判し、血祭りにあげる。相手の言葉が許せないんだ。

 

 

神々は渇く。私のような遅れた人間は、ギロチン送りだ。いや、その前に窒息するかも知れない。前代未聞の正義様に。

 

次は漢字が血祭りにあげられるのだろうか。硬直しきった高度PC国家。嗚呼。

 

 

 

 

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)

 

 

 

「子供」時代の終焉ー令和二年九月二十七日(日)晴れ

「子供」時代の終焉ー令和二年九月二十七日(日)晴れ

 

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永井均氏の本

永井均氏の本を初めて買ったのは、高校時代だった。

ウィトゲンシュタイン入門』で独我論に触れられていて、新鮮だった。

国語の時間、教科書に隠して、この新書本を読んでいた。

 

こういった世界に進んでみたいと思った。ジャンルは違ったけど、その近くには行ったのかも知れない。それが良かったのか悪かったのか、神ならぬ身の分かることではない。

 

でも、もう私の「子供」時代も終わり。純粋なままで興味を持続することはできなかった。変わらないと思っていたけど、いつか変わる。

 

どこか寂しいけど、その分新たなものを受け入れる余白ができる。

 

しばらく読み返すこともないから、ダンボールに入れて、しまっておこう。

 

幸せそうに見える芸能人がお亡くなりになっている中、まだ生きている我。

 

鹿島茂氏の回想記事ー令和二年九月二十六日(土)

 鹿島茂氏の回想記事ー令和二年九月二十六日(土)

日経の夕刊文化欄、「こころの玉手箱」はフランス文学者の鹿島茂氏の回想だった。

仏文好きになりかかっている私にとって、時宜にかなった記事だった。

内容は本好きにとって、役に立つ話しだ。

  

会員記事だと思うが、雰囲気だけでも。

www.nikkei.com

 内容

①9/14

パリを研究対象として選んだ話。

1984年頃、大学専任講師で年収は約450万円だったという。1年間の在外研究期間が過ぎれば、フランスの国立図書館が利用できなくなる。バブル時代だったから、銀行からお金を借りて、パリに関する古書や古文書を買い漁ったという。

 

②9/15(火)

パリという都市を研究対象にした鹿島氏は、古書は古文書を購うために、借金までしたという。稀覯本やイラスト本などを集め始めたという。

 

③9/16(水)

ペーパーナイフの必要性

活版印刷によるフランスの古書は、フォリオ(大判の紙)を8分割して印刷したもので、それを3回折るだけで製本したものがある。読者は、袋上になった部分を自分で切る必要があるから、ペーパーナイフが必要だ。高価なものではなくてもよいという。

 

*私も、読めないデカルトの『省察』の原書を購入したことがある。そんなに古い本ではないが、袋上になっていたので、パニックになった。何となくは知っていたが、そういうことだったのか。カッターで切ってしまって、大切な本をガサガサにしてしまった。

 

高価じゃなくてもよいということだから、手に入れよう。そして、残りの部分はペーパーナイフできれいに切ろう。

 

④8/17(木)

コレクションを収めた書斎を、撮影スタジオにして貸し出し、古書代の対価を得た話。

⑤8/18(金)

革装丁の古書のためのクリームが必要で、それは靴のクリームではダメ。それは脂分が多いから。サフィール・レノヴァトゥールやサフィール・デリカなどが必要だという。

 

感想

いくら本好きでも、借金してまで、本は買えないな。マネできないし、マネしたくない話だ。大学の専任講師が何を担保にして、お金を借りたのかは謎だ。

でも、書斎をスタジオにしたのは、利殖の才があるな。普通、自分の巣には入られたくないものだが。

 

フォリオ判の意味がはっきり分かった。国会図書館のサイトに下のようなものもある。

 

www.ndl.go.jp 

また、稀覯本については荒俣宏氏も負けていないと思うので、リンクを貼っておく。

www.1101.com

 

藤原書店ブッククラブ入ると得なのか?ー令和2年9月13日(日)

藤原書店ブッククラブ入ると得なのか?ー令和2年9月13日(日)

 

藤原書店と言えば、1989年に創立ながらも、フランスの歴史家ブローデルや、その影響を受けた社会科学者のウォーラーステイン(「世界史システム論」で有名)、我が国で言えば、後藤新平関連の著作を筆頭に、E・トッド、アナール学派レギュラシオン学派などの作品も加え、文明論的な価値のある著作を出版している。

 

その藤原書店には藤原書店ブッククラブというものがあり、年会費2,000円を支払えば、PR誌の送付や、送料無料での商品購入、さらに購入した商品の10パーセントのFBC藤原書店ブッククラブ)のポイントが還元されるという。

 

準会員というものもあり、これは年会費不要で、5パーセントの還元が受けられるという。

 

本を置くスペースと購入するお金があれば、ブローデルの著作などたくさん購入したいと思っているから、少し考えて見た。

 

まず、会員になるのは年会費2,000円必要だから、10パーセント還元だとして、20,000円分の購入をしないと本代のもとが取れないことになる。ブローデルらの著作は1冊1冊高いから、本格的に読み始めたらそれぐらいすぐ行くだろう。準会員でもよい。

 

ただし、一番の問題は、購入後にポイントが還元されるということだ。

購入時に5~10パーセント割引ではない。それだったら一番良い。

 

楽天ポイントなどとちがって、FBCのポイントは藤原書店の本以外に使い道がないので、最後の購入の後に還元されたポイントの使い道がない。これがネックだ。

まあ最後は少額に抑えて購入すればいいか。

 

 

本を置くスペースと購入するお金があれば、入って見よう。

書評③・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第二章 モーリス・バレス

書評③・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第二章 モーリス・バレス

 

問題提起

我々の社会において文学者・音楽家・映画人らが反戦運動や反体制運動(石原慎太郎氏や安倍晋三氏に向けたものなど)などの政治活動をする光景は見慣れたものとなっている。それは主としてマルクス主義などの左翼思想や日本国憲法などの市民主義に基づいたものだ。我々はそれに慣らされており、文学や思想など自己の作品に基づく政治活動は左翼が本家本元で、保守派はこれらの行動を冷笑し、右翼は一部の思想右翼以外にそのようなことをする印象はない。だがそれは正しい捉え方なのだろうか?

アンガージュマン

第二章において福田氏は、「尊大な愛国的作家」、「反ドレイフュス派の指導者」として知られるモーリス・バレス(MAURICE BARRES)を取り上げる。バレスこそ、創作行為の絶対視から、テクスト外の政治活動の必然性を論じ、「探求としての小説」、「自我の自由を求めて行動する主人公の小説」を試み、近代における政治と文学の基本的なプロブレマティーク(問題群)の源流に位置し、アルゴンやマルローなど左右を問わない影響を与えた人物なのである。つまり「アンガージュマン」の元祖なのである。

アンガージュマンとは「知識人が自らの自由に基づいて選択したある特定の政治的立場から現実社会の様々な問題に対して積極的に関わること」(『岩波 哲学・思想事典』、p.51)

 

出発点:

『自我礼拝』三部作

バレスの出発点は、「自我のアプリオリな統一性の不在」という認識である。その問題意識が結実したのが、『自我礼拝』三部作なのである。だが、どのようにして内省的な自我から特定の政治的立場へコミットするアンガージュマンが生まれるのだろうか。

 

この三部作は「蛮族の眼の下」、「自由人」、「ベレニスの園」に分かれている。

『自我礼拝』のメインテーマ:「自我」「主体」の統一性の不在について。

「蛮族の眼の下に」:自我の即時的な存在の否定。

「自由人」:いかにして自我をつくられるか。自我の確立としての行動の必要性。

自我建設。特に美への感動を通じて、ヴェネツィアのような芸術都市を建設しようとする政治へ向かう。

「ベレニスの園」:アンガージュマンを通じての無意識との合一による自我の確立

(78頁)。この「無意識との合一」は、「死者と大地への合一」という民族主義的な愛国心となっていく。

考察

バレスにおいて「自我」とは「アプリオリかつ無条件に存在しうるものではない」(67頁)のだが、福田氏は「この認識はさらに進めば、近代西欧がその知性の前提にしてきた、主体としての人間、個性ある人間といった存在は、はたしてほんとうに存在しているのかという疑問へと結びつく」と指摘する(68頁)。

「近代的知と文化の前提である(「我思う、ゆえに我あり」という)統一性をもった、あらゆる認識の主体としての「自我」の実在と構造を直接問い直すことから一歩を踏み出したことは、極めて野心的であると同時に先鋭的な試みだった」(68頁)。

 

バレスにおいては自我の「アプリオリな」「統一性」が問題となっているという。「アプリオリ」なというのは分かりにくいが、経験に先立ってとか、あたかも超越した視点から眺めてという意味なのか、当たり前の前提とされている、自明なというぐらいの意味なのかは分からない。そしてそこで問題となっているのは自我の「統一性」だという。だたし、哲学的にその疑問の根拠がほとんど説明されていない。その点について私は、和辻哲郎デカルト批判に説得力を感じる。

 

デカルト自身は哲学の原理として「コギト・エルゴ・スム」で言い表された考察をしたのであり、その懐疑の対象から道徳を除外していた。したがって、社会革命を起こそうとした訳ではない。だが、その結論のインパクトは社会にまで及んだと考えてよい。

小林道夫氏はデカルトが『方法序説』で、人間精神の生まれつきの「平等」に触れて

「これはフランス革命のスローガン、自由・平等・友愛を構成することになる。実際に、二十世紀のあるフランスの政治家は、フランス革命の原理はデカルトにおいてはじめてみいだされるといっている。」(小林道夫デカルト入門』ちくま新書、2006年、75頁)と言っているし、「彼が示した思想上の革新が結果的に社会体制上の革命の源にもなったともいえるのである」(小林・同頁)とも言っているのを挙げておく。

 

和辻哲郎倫理学

デカルトの哲学を「近世哲学の出発点たる孤立的自我の立場」として批判する和辻はどのようにその主張を展開しているのだろうか。そのさわりだけ見てみよう。(引用は岩波書店和辻哲郎全集』1962年、第十巻より)

倫理学を「人間」の学として規定しようとする第一の意義は、倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである。この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。」(11頁)。

「この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。」(11頁)。

「個人の把握はそれ自身としては近代精神の功績であり、また我々が忘れ去ってはならない重大な意義を帯びているのであるが、しかし個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤謬のもととなるのである。」(11頁)。

「近世哲学の出発点たる孤立的自我の立場もまさにその一つの例にほかならない。」(11頁)。これはデカルトのことと考えてよい。

「いかに極端な孤立的自我の主張といえども、それが友人に向かって、あるいは教場において、共通の言語によって主張せられる限りはすでに人々の間に置かれた人間の問いである」(32頁)。

哲学史上の自我の問題のごときは、場所と時代のとの制約を超えた人間共同の問題であって、決して孤立的な我れのみの問題はあり得ない」(32頁)。

「たとえ人は己れの問いを心に秘めて絶対に他と語り合わない場合でも、その問いがすでに言葉や記号によって形成されている限りにおいては、本質的にはすでに共同の問いである。そうして人は言葉や記号によらずして考えることができず、したがって問いを持つこともできない」(33頁)。

「だから人はただ孤りで考えることはできるが、しかしそれは共同の問題をひとりで考えているのである。己れの問題を「心に秘める」という現象がすでにそのことを語っている」(33頁)。

 

和辻は言語の本質的社会性や確実なものを問う以前に存在する「間柄」から、「デカルト的自我」「孤立的自我」を迎え撃とうとする。

 

 まとめ

この後バレスはブーランジェ将軍支持の政治活動や、反ドレイフュス運動へと行動を続けていく。アンガージュマンしながらも、第三共和政を描き出した作品として評価の高い『国民的エネルギーの小説』三部作を生み出していく姿は圧巻である。

格闘家の前田明日氏は、福田氏との対談で、「新しいスイッチを入れてくれる人がいい」「相手を否定し、批判だけの人はダメ」という趣旨のことを述べていたが、バレスについての福田氏の叙述はまさに私にとって「新しいスイッチ」だった。

 

仏文の魅力

バレスの進めた作業の意義

「近代ヒューマニズムの前提と近代的知の統一性を問い直すことであると同時に、サンボリズムや文献学・言語学がひそかに進めていた作業を、表層にみちびきとりだし主題にすることで、ヴァレリー、ジイドからプルーストにいたる二十世紀文学の門戸を開け放つことになった」(68頁)。

 

このあたり丸山圭三郎氏のソシュール本や、橋爪大三郎氏らの構造主義の入門書など高校あたりから読んできたが、いまいち自分の中で興味が湧かなかったスポット。オッサンになって興味が湧くなんて悲しすぎるよ。意味ないよ。

 

その文学形式について

「「自我」の非連続性という認識を作品構造に直接反映させるという文学形式に対する意識は「骰子一擲」より十年も早い当時はもとより、J・ジョイスの文学的試みを知っている現在でも新鮮なものである。」(68頁)

マラルメの「骰子一擲」(「とうしいってき」)あるいは「双賽一擲」(「そうさいいってき」だったと思う。間違ってたらゴメン。)とも訳される作品なんて、もう金輪際縁がないものだと思っていたが、人生でまた浮上してきた。

「またこのような「自我」の分裂、即自的な主体の不在というテーマの文学的な追究とその形式・文体への反映という課題は、ジイドはもちろん、「テスト氏」や眠りから目覚めによる自我の発生のテーマに憑かれた詩人であり、晩年にはデカルトに取り組んだヴァレリー、そして自我の重層性とその記憶や資格との関係に、『失われた時を求めて』の大部分をあてたプルーストにまで引き継がれ、現代フランス小説の主流を形作った」(73頁)。

 

プルーストの『失われた時を求めて』のタイトルを見はするが、何が描かれているのか分からなかった世界に通路ができた印象だ。仏文への興味がふつふつと湧いてきて、今大学に通うなら仏文科に進むだろう(笑)。今度大学に入るなら、コンピューターサイエンスや経営学などもっと金になる学部を選ぶべきなのだが、自分の問題意識はこのあたりにあるようで、何度考えても、思想・哲学・文学系に行きついてしまう。 この領域の業績もないし、いま社会的に恵まれないのは、そのせいだと分かっているけれども・・・。

 

福田氏が浅田彰氏など、主としてフランスの現代思想に依拠した論者と対談するなど一目を置かれている理由が分かった。石原慎太郎氏への接近も本節で描かれていたような世界に理由があるのだろうか。また逆に高橋哲哉氏や鵜飼哲氏らの石原慎太郎氏に対する反発の背景にも文学的な理由がありそうだ。さらにまた大学では仏文を学んだ小林よしのり氏(確かサルトルの『嘔吐』を愛読していたと思う)らの活動に端を発する「歴史問題」への反体運動の主力が高橋・鵜飼氏ペアあたりから発生してきたのも本書を読んで理由があることだなと思うようになった(何年遅れで読んでるのだよ、ということだが・・)。また西尾幹二氏と福田氏との対決も見直してみたいなと思ってきた(そんなに思っていないが・・)。

そう考えると、現代日本の政治状況であっても、仏文の影響力はもの凄いということに気が付いた。

ビバ仏文!ビバ結婚(分かる?(笑))

 

ラートブルフに対する反証

フランス第三共和制に対する国家主義者の闘争の物語『国民的エネルギーの小説』(「デラシネ」「召集」「かれらの面影」の三部作)はきわめて高く評価されている作品であることは前述した。

この点私はモーリス・バレスの作品群は、大学時代に違和感を持ちながらも学んだ法哲学で、ラートブルフが言った「意識的な「郷土芸術」や「祖国文学」は芸術的にはつねに二流に止まっている」への反証になっていると思い、痛快だった。

*ラートブルフ(田中耕太郎訳)『法哲学東京大学出版会、1961年、184頁参照。

 

こういった文学に比肩しうるのは『一つの戦史』を著わした影山正治氏の著作群だろうか。その意味でこの後、福田氏が保田與重郎に加え、影山正治氏を論じていたら読んでみたいものである。

 

また、今回不完全ながらも「デカルト的自我」に触れたことで、久ぶりに興味がわいてきた。「近代的知と文化の前提」を問いなおす試みは、我が国にも存在した。仏文も大事だが、私としてはそのことの方がもっと大切なのである。

 

ただ、モーリス・バレスの文学作品は、ほとんど翻訳されていないので、フランス語で彼の作品を読めるようになることを、生きるの目標にしたい(本当?)。

『自我礼拝』の第二部、第三部や、『国民的エネルギーの小説』の三部作を読んでみたい。

 

フィヒテの著作は読んだことがないが、和辻が『倫理学』においてフィヒテの壁の問題を考察しているし、バレスの『自我礼拝』三部作はフィヒテの影響があったと考えられているようだから、そこは残された課題だ。

 

でも、文学、法哲学、思想、政治状況などを織り交ぜて記事を書いたよ。