吉村昭『白い航跡』薩摩藩士・海軍軍医の高木兼寛の物語ー令和4年9月10日(土) 暑さ少し和らぐ
吉村昭『白い航跡』ー令和4年9月10日(土) 暑さ少し和らぐ
本日届いた本について。
戦(いくさ)での負傷兵。
滅多に描かれないし、戦功を建てた人物に目が行きかち。
でも、圧倒的に負傷兵の方が多い。
江戸から明治にあたりの医師に関する物語は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』、森鷗外の『渋江抽裁』しか読んだことがなかった。
そうだ。森鷗外が関係していたのだった。
この物語は、ドイツ医学派の森鷗外と脚気論争で闘い、見事に勝利をおさめたイギリス医学派の高木兼寛(たかぎ かねひろ)の生涯を描いたものである。
物語は、彼が戊辰戦争で、負傷者の救護にあたった話から始まる。
刀による傷の治療法には知識があっても、銃創の治療法の知識はなかった兼寛。
佐倉の順天堂で蘭方を学んだ医師・関寛斎の洋式の治療法に目が奪われる。そして自らの無力を悟り、海軍からイギリス留学を経て、最新の医学を修めて帰国する。
いま会津落城のくだりを読んだところだが、集団自決や戦時性犯罪等いつ読んでも気分が悪くなる。
*私の愛用している『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、昭和五十六年)によると、高木兼寛は嘉永二年(1849)に生まれ、大正九年(1920)まで生きた人物である。
生まれは日向国諸国群穆佐村ということであるが、明治元年に京都の薩軍治療所に入所。付属医師として、東北に従軍したとのこと。その後、鹿児島に帰り、開成学校に入学して、オランダ語・英語を学んだとのこと。
明治二十一年には我が国最初の医学博士となり、東京病院および慈恵医科大学の前身である成医会講習所を創設した。(p.555)
続きはまた明日。