Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

相容れない毎日by Yoheiー令和元年6月2日(日)

 相容れない毎日by Yoheiー令和元年6月2日(日)

 

相容れない毎日に

生年月日を比べて 意気消沈

 

若い人らの活躍に

同年代の地位の高さに

 

びっくりするほど孤独な俺

いつまで経っても大成しない

 

街を歩いている二人を見て 意気消沈

俺よりかっこいいとは思えないのに

 

どんなことでも相性だなと気づく俺

こんな歳になって気づいたのか

 

 

本屋で著者を見て 意気消沈

知ってる奴らが書いている

 

じゃあ お前は何なんだと

反論を予想して 血の気が失せる

 

嘲われる姿を想像して 申し訳なく思う

生まれてきて ごめん

 

長い夜だと思ってた 若い頃を切り抜けて

明日の予定を見て 切り上げる自分

 

もう少し残りたい あのファストフード店

でも一人で?

 

自分に自信があった頃 この時間は

星空を眺めていれば よかった

 

教えて神様 俺はあと何年生きるの

こんな自分を抱えて

 

何のために 彷徨っているの

いつも叶えられなかった夢とともに

 

醜態さらして どこまで行くの

 

血の気の失せる毎日に 死んでいく毎日に

くたばっていく毎日に 相容れない毎日に

 

光明を失ったこの世界で

他人の活躍だけ見て 腐っていく俺を

 

相容れない毎日に やりきれない毎日に

血を吐きたくなる毎日に 醜態だけさらして行く俺

 

 

 

夢の残骸 3 ー『生命の刑法学』- 令和元年6月2日(日)曇り

夢の残骸 3 ー『生命の刑法学』- 令和元年6月2日(日)くもり

 

もうやることを終えてしまったから、15時ごろだけどシャワーを浴び、KALDIで購入したアイスコーヒーを飲み、ブログを書きます。私の夢の残骸。敗戦日記。

 

ゼミに入った2回生の秋学期。私は上田健二氏『生命の刑法学ー中絶・安楽死自死の権利と法理論』ミネルヴァ書房、2002年)を読み進めて行った。刑法学のゼミではなく、法哲学のゼミだと書いていたが、最初読み進めたのは「刑法学」と書いてあるから、やっぱり刑法学のゼミと言ってもよいのだが、この記事を読んでいただければ分かると思うが、いま定まっている法律の解釈論や判例を研究する実定法の解釈論のゼミではなく、法治国家論・法哲学などから考えるのだから、刑法学のゼミはゼミだが、後に読み進めることになるアルトゥール・カウフマンの『法哲学』が示すように法哲学のゼミと理解している。

 

『生命の刑法学ー中絶・安楽死自死の権利と法理論』は、「人の生命の刑法的保護に関する個別問題を扱った諸論文」である。

本書を読み進めると読者は、大学で刑法学を専攻した人や、司法試験で刑法を勉強した人も含めて、我が国の通説や判例となっている見解に対して著者が根本的に考察しようとしているかを目の当たりにすることになる。

 

「いずれの論文も比較法的観点から、とくにドイツ法との比較からわが国における通説的見解および判例を根底的に批判するという形になっている」(ⅱ)。

 

私は特にわが国とナチスとのちがいを無視して、戦争・戦後責任の領域で「ドイツでは~」とドイツのことを権威として持ち出す「出羽守」(すぐに権威として「ドイツでは~」というので、江戸時代のエライさんの役職(今の秋田や山形あたり?)みたいな「でわのかみ」という)では全くないが、こと刑法学や法哲学に関してはドイツの刑法学・法哲学はわが国に比して優れているという実感を持っている。

 

「わが国の刑法解釈論においては、-自殺は違法であるとか、胎児性命はすでに生まれてきた人の生命に比べてその価値において一段と劣るというようなーまさに論証されなければならないことが単に前提として主張されるにすぎないということである」(ⅲ)。

 

著者の態度は研究者として、信頼でき、「確信もなしに伝統的な見解に追随するよりも、確信をもって、あるいは論駁されるかもしれない理論を提唱するほうが研究者としては正しいあり方であると思われる」(ⅶ)。

 

注意して欲しいのは、「伝統的な見解」というのは、思想上の「保守派」のことを指しているのではなく、論証なき教義(ドグマ)に安住して、その権威を振りかざしている限り著者の批判の対象なのである。

 

その証拠として、著者はその師たるA・カウフマンから学び「類推解釈の禁止」を一つのドグマであると主張するし、「わが国を代表するはずの法哲学者」(31頁)の小林直樹氏が翻訳した「実定法上の不法と実定法を超える法」(ラートブルフ『実定法と自然法』(1961年、東京大学出版会))も、そのタイトルからして「誤解」であるとしており(30-31頁)、政治的な帰結としては同じ陣営に属する人だったとしても、学者として批判の矢を放つのである。

 

この点は、素晴らしいではないか。もはやこのような知的環境の中を生きていない私。

 

KALDI & C言語10回目 令和元年6月1日(土)晴れ

KALDIC言語10回目 令和元年6月1日(土)晴れ

 

 

 C言語10回目

C言語10回目。最初は、組み込み技術者の初心者ぐらいになれるのかと思っていたが、とてもそんなレベルには到達していない。講座があと4回で終わるから、継続して学習していくしかない。その中で人生初のマイコンボードなど買って見るつもりだ。

 

まあ、明るい方を見ると、Cのコードはある程度理解できるようになったし、カーニハン&リッチーの『プログラミング言語C』も一通り目を通した。これは20年ほど前に買ったときには、全く読み進めることができなかったものだ。高い受講料を払ったが、私の人生で最も楽しみにしている知的好奇心を満たしてくれることにお金を使ったのだから、後悔はない。

 

今日学んだのは、構造体・共用体である。構造体とは、「変数の集まり」のことで、Pascalという言語では「レコード」と呼ばれる(カーニハン&リッチーの『プログラミング言語C共立出版、1989年)ものだという。典型例は「給与支払いレコード」というから、私はデータベースの「レコード」みたいなものだとイメージしている。

 

問題演習は、相変わらずできなかったが、概念は少しずつ習得しているから、2、3年後ぐらいにはちゃんとできるようにしたい。

 

他と比べたら大したことないけど、人生の積み残しを処分し、新しい世界に触れた。これでいい。いまやりたいことをやればいい。次もIT&プログラミング系学んでいくぞ!

 

 

KALDI

KALDIとは、コーヒーと海外輸入食品の店。おしゃれだけど高いものを売っているのかなと思い、これまで行かなかった。でも最近コーヒーを飲むようになったから、ちょっと立ち寄ってみたら、これが大正解。新しい世界に一歩足を踏み入れた。

 

コーヒーを飲むと利尿作用が強く、カフェインで眠れないことがイヤだったから、これまで紅茶は飲んでも、コーヒーを口にすることはほとんどなかった。だが、デスクワークになり(ありがとう)、眠気を覚ますために、どうしてもコーヒーを飲まないとやっていけなくなった。

 

 KALDIでは店頭で無料のコーヒーサービスがあるみたいで、「水だしコーヒー」(大阪では「冷コー」とい言います。)をいただいた。これがおいしかったので、真剣に「水だしコーヒー」セットの購入を検討。ボトルは家にあるから、水だしコーヒーのパックだけ買った。店内見て見ると、心配するほど高くなく、結構客が来ていた。

豆から挽くタイプも良さそうだけど、ドリップする時間がもったいないから、お湯で溶かせるタイプのコーヒー&ココアの砂糖が入っていないタイプも購入。

 

お店のパンフレットももらって、コーヒー豆の産地による味のちがいなど載っていて、勉強になる。コーヒーの産地は「第三世界」が多いから、歴史に対する興味も湧いてきて、貿易や輸入はおもしろい。

 

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KALDIで購入したコーヒー

 

 

<本日購入した本>

秋吉貴雄『入門 公共政策学ー社会問題を解決する「新しい知」』(中公新書2439、2017年)

シンクタンクの本を読んだ後だから、いまちょうど公共政策系の知識を欲している。電車の中で、一通り読んだが、そこまで魅了されない。でも、最初に読む本としてはいいのかも知れない。 

 

藤井聡『令和日本・再生計画ー前内閣官房参与の救国』(小学館新書、2019年)

呉智英氏といい藤井聡氏といい、最近の小学館新書はおもしろい。『表現者クライテリオン』を代表する藤井氏が令和の公共政策に向けてはなった一冊。

 

"MUSCLE &FITNESS"、JUNE,2019

*この間まで、日本語版を購入していたが、これぐらいなら、エンジンの回転数を上げなくても読めるので、こちらを購入。

俳優、スポーツ選手、フィットネススターなどのトレーニング、食事、マインドセットが載っていて楽しい。

 

津田出のことー令和元年5月29日(水)晴れ

津田出のことー令和元年5月29日(水)晴れ

 

 

岡崎久彦北岡伸一坂本多加雄氏らの鼎談『日本人の歴史観ー黒船来航から集団的自衛権まで』(文春新書1043、2015年)を読んでいたら、代表的な新英米派の外交官・岡崎久彦氏が自分を反薩長史観の持ち主であると規定したうえで、明治維新後の徴兵制は、紀州藩の津田出(つだ いずる)によって発案されたものであると指摘している。

 

明治維新の代表的な政策である徴兵制は薩長による新政府のイニシアティブではなく、陸奥宗光開明的な蘭学者、津田出を用いて紀州和歌山藩で行った平成改革がきっかけになってできたものと思います」(15頁)。

 

岡崎氏は、陸奥宗光のいとこの岡崎邦輔(貴族院議員)の子孫であるという。津田も元老院議官や貴族院議員を務めた人物だ。

 

私は特に薩長に反感を抱いていないし、いだく必要もないと思う。純粋な薩長史観の持ち主などは、そう多くないはず。別に明治維新以後の施策がすべて薩長から出てきたは思っていなかったし、薩長土以外の人物史に特別詳しくなくても「薩長史観」なるものを強固に持っている人がどれぐらいいるのか、そもそも分からない。紀州に限らず、会津藩のことだって、歴史小説や評論、歴史ドラマなどで既に描かれている以上、薩長史観なるものが今日、どれだけ純粋な形で勢力を保っているのか分からない。

 

その証拠に、私は安岡正篤人間学のすすめ』(福村出版、1987年)によって、明治維新前後の紀州藩、中でも岡崎邦輔、津田出の重要性を知っていた。

 

「日本の徴兵制度はこの人(津田)がつくったのであります。とくに当時は派手なフランスの陸軍を模倣しておったのでありますが、これに質実なドイツ風を導きいれたのは、この津田さんであります」(199頁)

 

西郷南洲(隆盛)も大久保東甲(利通)も木戸松菊(孝允)も、この津田さんには大いに敬意を表しております」(199頁)

 

 

安岡正篤氏の『人間学のすすめ』は、「郷学」の重要性、江戸時代にそれぞれの藩で神・儒・仏の中で鍛えられた学徳兼備の人物が描かれており、我々の祖先のことを知りたい人におすすめできる講演集である。

 

 

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散歩♪散歩♪散歩♪

仕事帰りに公園を散歩。子供の頃から、散歩した公園。思い出がいくつも重なって脳裏をよぎる。夕陽を眺めながら、灰になるその日まで、俺の心を癒してくれ。 

「超ド級」についてー令和元年5月28日(火)雨

「超ド級」についてー令和元年5月28日(火)雨

 

呉智英氏には政治評論やマンガ評論以外にも、言葉に関するエッセイが数冊ある。その中の一冊に『ロゴスの名はロゴス』(双葉文庫、2001年)がある。言葉や事象そのものへの興味の他に、「言葉の乱れ」なるものを叱る硬直した自称「知識人」をわらうタイプのコラムもある。

 

「「超」だの「ド」だのがついても由緒正しい言葉がある」(23頁~)

「超ド級」という言葉について、「超」は女子高生が使いそうで無教養と顰蹙を買いそうだし、「ド」というのは「ど助平」などと卑語としても使われる。そんな言葉の組み合わせだが、これは「今世紀初め英国海軍が造った大型戦艦ドレッドノートを基準にして、それを超える巨大戦艦を「超ド級」と呼んだ。これをものごとの大きさの譬えに転用したのである」(25頁~26頁)

 

これを読んで「へー」と思ったが、それ以上何もなかった。

しかし最近岡崎久彦『戦略的思考とは何か』中公新書700、1983年)を再購入し、読んでいたら、中ソ対立を論じた箇所、旧式の武器をどうするかという文脈で、「英国が開発したドレッドノート型戦艦があまりにも優れているために、日露戦争で活躍したようなそれまでの戦艦が一挙に旧式になって、海軍戦力がドレッドノート型戦艦の数だけで測られるようになり、ドイツがその工業力をフルに使ってドレッドノートをつくり、急速に英海軍の優位を脅かしていた時代です。このときに、マハンは何も心配することはない、ドレッドノート型戦艦同士が戦争してお互いにつぶし合えば、その後は英国の旧式の艦隊が海上を制しうると言っています」(156頁)と書いている一節があった(文中の時代とは中ソ対立の時代を指すのではなく、マハンが「海軍戦略」を書いた時代を指す)。

 

ちなみに戦略家のマハンは、旧式の武器は予備だと考えれば良い言ったという。

 

だからどうという話でもないが、読書がつながったので、参考までに書いておきます。おやすみ。