Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

夢の残骸 3 ー『生命の刑法学』- 令和元年6月2日(日)曇り

夢の残骸 3 ー『生命の刑法学』- 令和元年6月2日(日)くもり

 

もうやることを終えてしまったから、15時ごろだけどシャワーを浴び、KALDIで購入したアイスコーヒーを飲み、ブログを書きます。私の夢の残骸。敗戦日記。

 

ゼミに入った2回生の秋学期。私は上田健二氏『生命の刑法学ー中絶・安楽死自死の権利と法理論』ミネルヴァ書房、2002年)を読み進めて行った。刑法学のゼミではなく、法哲学のゼミだと書いていたが、最初読み進めたのは「刑法学」と書いてあるから、やっぱり刑法学のゼミと言ってもよいのだが、この記事を読んでいただければ分かると思うが、いま定まっている法律の解釈論や判例を研究する実定法の解釈論のゼミではなく、法治国家論・法哲学などから考えるのだから、刑法学のゼミはゼミだが、後に読み進めることになるアルトゥール・カウフマンの『法哲学』が示すように法哲学のゼミと理解している。

 

『生命の刑法学ー中絶・安楽死自死の権利と法理論』は、「人の生命の刑法的保護に関する個別問題を扱った諸論文」である。

本書を読み進めると読者は、大学で刑法学を専攻した人や、司法試験で刑法を勉強した人も含めて、我が国の通説や判例となっている見解に対して著者が根本的に考察しようとしているかを目の当たりにすることになる。

 

「いずれの論文も比較法的観点から、とくにドイツ法との比較からわが国における通説的見解および判例を根底的に批判するという形になっている」(ⅱ)。

 

私は特にわが国とナチスとのちがいを無視して、戦争・戦後責任の領域で「ドイツでは~」とドイツのことを権威として持ち出す「出羽守」(すぐに権威として「ドイツでは~」というので、江戸時代のエライさんの役職(今の秋田や山形あたり?)みたいな「でわのかみ」という)では全くないが、こと刑法学や法哲学に関してはドイツの刑法学・法哲学はわが国に比して優れているという実感を持っている。

 

「わが国の刑法解釈論においては、-自殺は違法であるとか、胎児性命はすでに生まれてきた人の生命に比べてその価値において一段と劣るというようなーまさに論証されなければならないことが単に前提として主張されるにすぎないということである」(ⅲ)。

 

著者の態度は研究者として、信頼でき、「確信もなしに伝統的な見解に追随するよりも、確信をもって、あるいは論駁されるかもしれない理論を提唱するほうが研究者としては正しいあり方であると思われる」(ⅶ)。

 

注意して欲しいのは、「伝統的な見解」というのは、思想上の「保守派」のことを指しているのではなく、論証なき教義(ドグマ)に安住して、その権威を振りかざしている限り著者の批判の対象なのである。

 

その証拠として、著者はその師たるA・カウフマンから学び「類推解釈の禁止」を一つのドグマであると主張するし、「わが国を代表するはずの法哲学者」(31頁)の小林直樹氏が翻訳した「実定法上の不法と実定法を超える法」(ラートブルフ『実定法と自然法』(1961年、東京大学出版会))も、そのタイトルからして「誤解」であるとしており(30-31頁)、政治的な帰結としては同じ陣営に属する人だったとしても、学者として批判の矢を放つのである。

 

この点は、素晴らしいではないか。もはやこのような知的環境の中を生きていない私。