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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

松浦光修氏『明治維新という大業』(平成三十年、明成社)

松浦光修氏『明治維新という大業』(平成三十年、明成社

 

 

松浦氏のこの本を待ち望んでいた!

 

昨年、明治維新から150年ということで、特にその「負の側面」を強調するような新聞広告(雑誌広告)がやけに目に着いた。原田伊織氏の「明治維新という過ち」論が代表的なものなのだろう(読んではいないが)。例えば、SAPIOは2017年9月号で「明治維新150年の過ち」という特集を組んだ。その目次には原田伊織氏の論をはじめ、亀井静香氏の西郷隆盛靖国神社論、小林よしのり氏の「明治憲法薩長閥押し付け論」などが並んでいる。「目次」と言ったのは、他でもない。私は未だに読んでいないからである。

 また近年、新聞などでみる断片的な発言を見る限り半藤一利氏、保坂正康氏らの「昭和史」などにも違和感があり、本を買って読むことはなかった。今の自分の貴重な時間とお金を費やしてまで読むべきものだとは思わなかったからである。論破するために時間をつかったり、好きでもない本を読んでいらだつよりも、自分の共感できる言葉を読みたい。今の自分は強くそう思っている。

 

とはいえ、明治維新150年の年がこれかと思うとなさけなく、忙しい日々の中にも、どこかやりきれなさを抱えていた。

 

ところが、どういう経緯だったか、松浦光修氏の『明治維新という大業』が出版されていることを知った。さすがは松浦光修氏と思い、早速購入しようと思ったが、なかなか在庫のあるサイトが見つからなかった。なんとか手に入れて、読み始めた。

 

松浦光修氏のこと

 松浦光修氏(昭和三十四年、熊本市生まれ)は、皇学館大学国史学の教授である。日本思想史が専門。著書に『大国隆正の研究』や『やまと心のシンフォニー』、『いいかげんにしろよ日教組』などがある。南洲翁遺訓や留魂録の現代語訳などの著作もある。

 

私はかつて皇学館大学オープンキャンパスに行ったことがあるが、模擬講義の一度目は国史学科の岡野友彦氏(中世史が専門で、『源氏と日本国王』などの著作がある)、二度目が松浦光修氏で、題目は「本居宣長が考えたこと」であった。

 

二度というのは、私は年を行ってから大学入学を考えて、中途半端な時期に思い立ったものだから、その年の受験ではなく、次年度の受験を計画したから、二度行ったのである。もうそれから10年以上が過ぎた。とはいえ、あの頃はまだ20代中ごろだったのであり、今に比べるとさすがに若かった。伊勢にある皇学館大学。夏のオープンキャンパスおかげ横丁なども行った。もちろん伊勢神宮も。まだ子供みたいなものだった。幼かった自分。

 

皇学館の売店で、『大国隆正の研究』、『いいかげんにしろよ日教組』など買ったと記憶している。でも、もしかしたら伊勢に旅行に行ったときにも売店に行ったのだったかも知れないから、合計3回ぐらい行ったのだろう。

 

入試には合格したが、諸事情あって別の大学の法学部に進学した。そして、文学系の大学院の修士課程を出て、社会人として低空飛行の人生を送っているのである。若い頃を思い出すと涙が出そうになる。頼りなかった自分。挫折や失敗だらけの自分。いつも低空飛行の自分。これから先もおそらく低空飛行の自分。

 

(以下、作成中。しばらくお待ちください。記事作成に時間がかかるかも知れないが自分に課題を設定するという意味でも、仮の章立てを書いておく。)

 

松浦光修氏『明治維新という大業』(平成三十年、明成社

副題は「大東亜四百年戦争のなかで」である。林房雄氏の「東亜百年戦争」論などは、断片的に聞いたことはあった。佐伯啓思氏の講演の記事でもそのことは書いた。今回松浦氏は、明治維新が大業であるという理由を、戦国時代のポルトガル・スペイン人 の来航から大東亜戦争までを視野に入れて論じるのである。

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はじめに

そもそも本書は、「なぜ、日本は一度も植民地にならなかったのか?」という問いに答えようとしたのものであり、その際「明治維新とは何か」という問いが避けて通れないものであり、その場合、我が国では明治維新という形で結実することになった十六世紀以降の世界史の流れをどう見るのかという問題に行きつくのだと言います(「はじめに」)。

 第一章 「維新の大業」を消そうとしているのは誰か?

この章で印象に残ったのは山川健次郎のことだろう。

「元白虎隊隊士で、維新後、アメリカのイェール大学で物理学を学び、帰国して日本人初の物理学教授となり、やがて東京帝国大学の総長になった」(47頁)

 

松浦氏は、新島八重原敬らを挙げた後、ある外来の「歴史観」が、明治維新を批判し始めたという。その「歴史観」こそが、共産主義の「歴史観」たる「唯物史観」である。

 

第二章 豊臣秀吉と”大東亜四百年戦争
第一節

ここではアメリカ大陸でのスペイン人の行為について、ラス・カサスの報告を紹介する。この点は特に目新しくない。出典は思いだせないが、既に知っていた。 

第三章 「尊王」とは何か?「攘夷」とは何か?

第一節 尊王とは何か?-楠木正成の「忠」と「革命」の克服(p.140)

後醍醐天皇の信任を得た者が数多くいた中で、何故、楠木正成が重要なのかを論じる。

 第四章 「五箇条の御誓文」への道
 第一節

 

・なぜシオランが選ばれたのか?(p.251)

この点は少し疑問だ。

第二節 「盛んに経綸を行うとは」

開明派ではあるが、欧化主義者ではない横井小楠(よこい しょうなん)の提言「国是三論」を引き合いに出し、「富国」や「強兵」を論じる。

*「富国」は私のいま最も関心のあるテーマである。これは私の人生とも重なるからである。日本経済と連動している社会の中で生計を立てて行く。

経済活動が大切であるのは、外国から侮りを受けないためである。

 

松浦氏の小楠評

「小楠の持ち味は、その「高調子」の考え方(勝海舟の評)と、あくまでも″時代の枠組み″のなかでの政治・経済の運営であったか、と思います。″時代の枠組み″そのものを組み直して、まだ誰も見たことがない未来を創造していく・・・・・・というタイプの仕事には、たぶん向いていたかったのでしょう」(265頁)

 

私なりに付け加えると、明治時代には松浦氏の故郷たる熊本の新鋭キリスト教徒らの集まりである「熊本バンド」の横井時雄や横井時敬ら小楠の子に加え、「早稲田の至宝」浮田和民や徳富蘇峰らが同志社大学を経て、それぞれの道を歩むこととなるがこれはまた別の機会に書いてみたい。

坂本龍馬暗殺について(p.278)

松浦氏は、磯田道史氏の『龍馬史』の「会津藩が見回組に命じて行った政治的暗殺」という見解を挙げた上で、よほどのことがない限りこの結論は動かないとしている。

 

 第五章「五箇条の御誓文」の発布(p.286~)

西田幾多郎昭和天皇への御進講(p.291)

松浦氏は「肇国の精神」に対する西田の見解を「わが国においては、原点に回帰すること、イコール新しい時代を創造すること」であると解釈し、「卓見」であると評価している。

 

私が見聞した限り、皇室や大日本帝国に関する現代日本の西田哲学の研究者の主流の評価の仕方は、

(1)たとえ当時の右翼・日本主義者らと同様の言葉を用いていても、使われていた言葉を別様に善導する「意味の争奪戦」をやっていた。

(2)そのように解釈しても、かばいきれない時は(ということは、つまり、「日本主義者」なるものを嫌悪の対象としている自分たちの価値に合わない時はということだが)、西田の汚点として批判する。

という二段構えで、読んでいるのである。もう西田幾多郎に関する書籍や論文のコピーをほとんど捨ててしまっているので、出典を明記できないから「私の見聞した限り」としておく。

 

松浦氏に限らず、佐伯啓思氏も西田幾多郎を高く評価している。私は佐伯氏の西田本を読んでいないから何とも言えないが、松浦氏や佐伯氏らの「日本に対する姿勢」は、現代の西田哲学研究者の主流とは逆の立場ではないかと私は思うのである(私は大歓迎であるが)。その場合、具体的なテキスト(論文・原典など研究の対象となる著作物を彼らは「テキスト」ないし「テクスト」と呼ぶ)を読解している主流派に較べて、西田哲学を持ち出すことについて説得力を欠くことになるだろう。

 

佐伯氏は、西部邁氏直系の「保守思想」であるし、徳富蘇峰平泉澄を高く評価する松浦氏は戦時中に西田哲学や京都学派を攻撃対象とした日本主義者らに強い親和性を持っているように思われる。そうすると、いかに哲学研究からの関わりからとはいえ、マルクス主義系の出版社と関わりのある人たちもいる西田哲学研究の主流派やその周辺とは「日本に対する姿勢」の点で、相容れないのではないか。

 

研究室内の発表で「大東亜戦争」という呼称を私が使った際にも、「大東亜戦争という言葉は使ってはいけないのではないか」という若手の西田哲学研究者がいたぐらいである。「皇学館大学」だの「大東亜四百年戦争」だのと言った言葉が使われている本など、検討の対象外にされるのがオチである。

 

私が松浦氏を評価する最も深い理由は、氏の「日本に対する姿勢」の美しさにある。学識やテキスト読解力などであれば、他にもゴロゴロいるだろうが、「日本に対する姿勢」に共感できるのである。

 

 

 

松浦氏の本と直接の関係はないが、松浦氏の本を読んで呼び戻された/呼び起された関心を以下の著作と結び付けて行きたい。なんだったら著者らは反発しあう立場とも思われる。だが、私は自分の判断でおもしろいと思ったものについては、素直におもしろいと認める。

 

羽田正氏『興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海』(講談社、2007年)

*著者の立場は、松浦氏とは異なると思われることを先に断っておく。だからこそ合わせて読む面白さがあるのである。

2年ほど前にこの本を購入した動機は、東インド会社のことを知りたいと思ったからである。東インド会社のことを知りたいと思ったのは、満州鉄道株式会社の調査部に関する本を読んだからである。そんなものを読んだのは、社会に出て自分が本当にしたいと思ったのは、シンクタンクや研究所などでの調査やレポートや任務などであり、単なる経済レポートではなく、満鉄調査部のような梁山泊で政治・経済・思想などが入り混じったおもしろい職業がいいなと思ったからである。もう手遅れであるが。出典をメモしていないが、満鉄は東インド会社のような機能を持った存在として作られたと何かで読んだ。だから俄然、東インド会社のことが知りたくなったのである。

 

一読後、これは「当たり」本だと思った。著者とはおそらく政治・思想などの考えが異なるだろうが、それにしても一読に値する本なので、いつかレポートしたいと思っていた。だが、なにぶんこの本を再読しまとめるための時間がとれなくて、先の延ばしになっていた。松浦氏とは思想傾向などは異なるが、私としては是非とも紹介したい本だと思った。東インド会社の本というよりも、近代世界システムの本と言ってもよいのではないか(私はまだウォーラーステインの本を一冊も読んでいない。今まで何をしてきたのだろう。でも課題をあぶりだすためにも記事を書いているのだから、お金と時間に都合をつけてウォーラーステインも読んで行きたい)。

 

網野徹哉氏『興亡の世界史12 インカとスペイン帝国の交錯』講談社、2018年。元々は2008年刊行)

*著者の立場は、松浦氏とは異なると思われることを先に断っておく。。だからこそ合わせて読む面白さがあるのである。

  インカ帝国の歴史を詳しく知りたいと思ったことはないだろうか。我が国に鉄砲が伝来したとされる1543年より約10年前、南米のインカ帝国は滅亡した。戦国時代以後、我が国の歴史でもキリシタンをはじめとする外国人が多く登場するようになる。その時代、地球の反対側にあったインカ帝国はスペインからの征服者ピサロに滅亡させられていたのである。

 本書はインカ帝国を含むそのあたりの歴史を教えてくれる本であり、インカを征服するに至ったスペイン内部の宗教政策などにも言及があるので有益である。

 最初、図書館で借りて読み、新刊本を探したが、出版から時間が経過していたのかして、手に入らなかった。この度、講談社学術文庫に収録されることになったので、多くのひとが手に取りやすくなった。

 本書を含め「興亡の世界史」シリーズは、私にとって「当たり」であった。知的好奇心を満たしてくれる。

 

(令和元年5月5日 追記)

日本史にも出て来るザビエルを送り込んできたイエズス会創始者イグラティウス・デ・ロヨラの甥の子マルティン・ガルシア・デ・ロヨラは、インカ王サイリ・トゥパックの子ドニャ・ベアトリス・クララ・コヤと結婚していることを本書で初めて知った(269頁参照)。

国友一貫斎は平田篤胤の門人!ー『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』を読んで

『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』を読んで

 

 日経新聞で読み、興味を持った国友一貫斎。すぐさま現地を訪ねた。いまできる精一杯、感動する方向へ踏み出した。現地で手に入れた論文集兼展示図録『江戸時代の科学技術』を読み、考え、今後の自分自身の勉強や研究に活かすべく、レポートを書きます。

 

はじめに

大学で学んでいて感じる疑問のひとつに、そこで学ぶ学問のほとんどが西洋近代由来のものであるということだ。なぜなのか。一体西洋の学問を取り入れる前には、どのような学があったのだろうか。どの程度まで「発達」していたのだろうか。こういう疑問を感じたことはないだろうか。

 

・清水幾多郎氏は、『論文の書き方』岩波書店、1959年)の中で、興味深い体験を述べている。自国の言語で大学などの高等教育が営まれ得るか否かという問題に触れた後で、経済学について以下のように述べている。

 

「かつて、私は徳川時代経済書数篇をまとめて読んだことがある。私が読んだものを年代順に挙げると、太宰春台(一六八〇年ー一七四七年)の『経済録』(一七二九年)、三浦梅園(一七二三年ー一七八九年)の『価原』(一七七三年)、海保青陵(一七七五年ー一八二七年)の『升小談』(一七八九年より稍稍後)、中井履軒(一七三二年ー一八一六年)の『均田茅議』(?)、佐藤信淵(一七六九年ー一八五〇年)の『物価余論』(一八三八年)、神田孝平(一八三〇年ー一八九八年)の『農商辯』(一八六一年)。」(162頁)

 

「最初の太宰春台の『経済録』から最後の神田孝平の『農商辯』までの間には約百三十年の時間がある。そして、この期間は、西洋で古典派経済学が成立し、発展し、完成するのに必要であった九十年という時間を含んでいる」(同頁)。

 

「ところが、古典派経済学が成立し、発展し、完成した期間を軽く包み込む百三十年ではあるが『経済録』から『農商辯』まで読んで行く私にしてみると、終始同じ濃い液体の中で呼吸しているような感じがする。」(162頁‐163頁)。

 

「それが提出している特殊な諸問題の実践的解決法であるからである。何処まで行っても、現実的、具体的、特殊的、個別的、実践的である。(中略)現実の所与を突き抜けるというか、とにかく、抽象という乾いた世界へ向かって冒険を企てていない。」(163頁)。

 

「乾いた観念のシステムは、日本の経済論の内部からでなく、やがて、西洋から輸入された経済学説によって提供された」(163頁)。

 

グローバル・レベルで話題となる最先端の本を翻訳している翻訳家であり、評論家でもある山形浩生『新教養主義宣言』晶文社、1999年)にも、「Ⅲ.ぼくたちの文化のあり方を考える」の中に「日本文化のローカル性を超えるためにー青空文庫から読み取れるもの」という一文があって、これに関係した箇所がある。

「2.ぼくたちの文化的な根っこということについて」

デカルトくんの文はいまだにいろんな人に直接影響を持っている」(163頁)。

アダム・スミスくんを読んで見ると、まあちょっと古びてはいるけれど、でもいまも十分そのまま通用する」。

「ファラデーくんの『ろうそくの科学』は、いまそのまま小中学生の自由研究にできるだろう。そこにはある科学的な手続きのベースがあるし、それはいまの世界を動かす考え方にも直結している」(164頁)。

「ところが日本の場合だとどうだろう。「方丈記」はすばらしいとか、「枕草子」が、諸行無常のなんとか、というのはある。でもそれは思考への影響というより、もっと感性として日本チックねー、というものじゃないか」(同頁)

本居宣長くんの本を読んで、現代にそれが影響していると思えるだろうか。絶対ないね。もちろん、じじいが本居宣長を読んでなんのかのと理屈をこねることはある。『現代に生きる宣長』とかいう本を書いちゃったりも、できなかないだろう。でもそれは、重箱の隅をつつけば似たところもあるなあ、という話だ」(同頁)。

「あるいは安藤昌益くんが書いたものを読んでも、こういう変なことを考えていた人もいたんだなあ、というくらい。それが現代的な意義をもっているだろうか。くやしいけど、いない。いまかれの本をよんで、「土活真」とかいってなにかエコロジスト的な思想の萌芽を見る、というのはあるだろう。でも、それが現代の(ぼくのきらいな)エコロジスト的なお題目に影響を与えているとは絶対にいえない」(165頁)

 

「日本の青空文庫に入れるような文章で、いまデカルトくんやニュートンくんなんとかとためをはるような現代的な意義をもった文章って、あるか?ないだろう。一つも」(165頁)。

 

「これは結局は、ぼくたちの文化がやっぱりローカル文化だ、ということでもある。支那文化のローカル文化だったり、欧州文化のローカル文化だったり。それはとてもくやしいといえばくやしいんだけれど、でも、そこを無視して話は進まない。それを脱することができるか?」(167頁)

 

山形氏は、デカルトニュートンらと異なり、日本では現代の思想にインパクトを与える思想家がいなかったと指摘し、結局日本は「ローカル文化」に過ぎないと嘆いている。

「日本の当時の気分を描いたようなものはあっても、いまに至るものの考え方を決定的に変えたと思えるものがないこと」(166頁)。

 

 

中江兆民 「わが日本、古より今にいたるまで哲学なし」

結局 、我々は中江兆民が言った「わが日本、古より今にいたるまで哲学なし」という問題にいまも直面しているのである(河野健二編『日本の名著36 中江兆民』(中央公論社1984年)、364頁)。 

 

ここで兆民は「純然たる哲学」(同書、365頁)を想定しているのだろうが、私は今日、科学・哲学・数学などと呼ばれている領域における問題だと拡大解釈した上で、捉えたい。

 

もう長いことそのような事を疑問に感じ、多少は研究のまねごともしてきた人生であったが、すっかり生活に追われて、みじめな中年になってしまった。その分、人生に幅と深みが出たと思いたいのだが、学問探求が止まったままになっている自分を省みて、忸怩たる思いがある。

 

でも自分の生活を軌道に乗せるためにも、経済情報にアンテナを張っていないといけないから、日経を購読していた。良くも悪くも、お金があるところに文化やその情報も集まってくるみたいで、日経新聞の文化欄は結構充実している。ある日、特に上記の問題を意識せず新聞記事を読んでいたら、ピンと来た。これは何かあるなと。直接足を運んで正解だった。点と点とが結ばれて線となり、一つの方向を指している。その点についての記事を書きたい。

 

1.新聞記事「宇宙を眺めた近江の奇才」

記事では一貫斎について、「1世紀先の発想」、「江戸で才能開花」、「江戸の発明家として著名な平賀源内より功績は大」、「国学者平田篤胤ら多彩な専門家と親交を結び」、「空気に重さがあることに日本で初めて気付いた」、「月のクレーターや木星の2つの衛星などを観察し、詳細なスケッチを描き残した」、「伊能忠敬のように、その功績が広く知られるようになってほしい」などと表現し、私にとって興味を引かれるものであった。

特に科学的な功績と平田篤胤とのつながり。ここを知りたい。

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日経新聞で読んだのが2月6日。その週末三連休の真ん中の10日すぐさま現地を訪ねた。今できる精一杯、感動できる方向へと足を踏み出したかったからである。このまま立ち腐れたたくなかったからである。長浜はいい所であったが、それは1つ前の記事に写真とともに紹介してある。

 

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以下で私は、現地で手に入れた論文集(展示図録も含む)『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』を読み、考え、これからの自分の研究の方向性を考えたいと思う。

2.『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』について

長浜市長浜城歴史博物館編『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』(サンライズ出版、平成十五年)は、論文集と図録がセットになった書物である。鉄砲の里資料館の売店でまず立ち読みして、いくつかの疑問に答えてくれているこの本を一読するに値すると思い、購入した。

*なぜこんなことを書くのかというと、この年になると十数年にわたり記念館等で購入した図録の類があふれていて、しかも有効に活用できていなかったという反省があるからだ。だから、図録類については原則買わない。ただし、自分の将来に役に立つものは買うという基準を自分に課していたからである。

 

3.太田浩司氏の論文「平田篤胤と国友一貫斎」

この論文があることを確認して、本書を購入した。太田氏は市立長浜城歴史博物館の学芸担当主幹であるとのこと。

 読んでびっくり。一貫斎は平田篤胤の門人だったのである。しかもおもしろいことに、あの高山寅吉の隣に名前が載っているのである。寅吉というのは『仙境異聞』に出てくる「異界」に出入りしたことがあると称する子なのである(笑)。

 

同論文の小見出しを拾っていくと

平田篤胤のサークル(p.151~)

平田を神道国学の偏狭な国粋主義者と捉えるのではなく、古史・古伝説・文学・民俗学キリスト教・仏教・儒学・神仙道、さらには天文・歴数・地理・医学・蘭学・窮理(物理学)・兵学・易学にも造詣が深かった総合的知識人としてのイメージで捉えている。

この時点で兆民が「本居宣長平田篤胤などは、古い御陵をさぐり、古いことばを研究した一種の考古学者にすぎない。天地性命の原理にいたっては、およそわかっていない」(兆民・上掲書、364頁)と言っていることには捉われず、平田篤胤を多面的な思想家と捉えている点で評価でき、学ぶ点がある。

 

そんな平田篤胤が「好事家」から「科学者」とも言える人々との交流を持ったサークルがあった。一貫斎はそんなサークルの一員として、ある会合に加わった。それがかの有名な(私は未読だが、)『仙境異聞』なのである。

 

『仙境異聞』での一貫斎(p,152~)

・「仙境異聞」とは、文政三年(1820年)に、江戸に現れた天狗小僧こと高山寅吉との問答集である(152頁)。この問答集に一貫斎は、あの佐藤信淵と並んで「国友能当」という名前で登場する。わおっ!

*私は「異界」に出入りしたと称する寅吉に対して平田が非常に興味を持っていたことは、『古神道の本』(学研、1994年)の武田崇元氏の記述で知ってはいたが、なにぶん「異界」に興味がなかったので、おもしろい話だぐらいに思っていた。だが、今回は一貫斎を通じて、この本に触れるべき時が来たので、子安宣邦氏校注の岩波文庫版を購入した。

 

話を元に戻すが、太田氏は『仙境異聞』における一貫斎の科学的好奇心を高く評価している。一貫斎は、この「異界」から帰ってきたと称する寅吉に対して、雷、ハンセン氏病のことも含む伝染病、武器、異国襲来のことなどを尋ねている。

 

この点について太田氏は、「その多岐にわたる興味が、一貫斎の科学技術の根底にあったことを知るべきである」(153頁) 

宇宙も知る天狗寅吉(p.154~)

 一貫斎の本業は、銃の製作であった。寅吉が「空気銃」などについて触れたことに触発されたらしく、仙界の鉄弓からヒントを得たと考えられる弩弓を考案しているという。

いまで言うと、スタートレックドラえもんのアイデアを実現するようなものだろうか。

また、篤胤の方は、西洋の天文学の知識などを引き合いにだし、寅吉と議論しているが、寅吉は「あんたは本で見たんやろうが、ワイの方は近くで見てきたんやで」という感じで平田篤胤をいなしているのだから、笑える。

 

神鏡への賛文と書状(p.155~)

神鏡とは、光を当てると、その反射した先に文字や像などの模様が浮かび上がる鏡のことだそうだ(101頁参照)。一貫斎はこれを製作し、篤胤に報告し、賛文「真金の鏡に添ふるふみ」をもらっている。ここから篤胤と一貫斎の親しさが分かるとしている。

また、篤胤の方では、加賀前田家への取次ぎを一貫斎に頼んだり、神鏡の模様について梵字ではなく、御幣や榊などの神道的なものにするようにアドバイスしている。

 

篤胤と一貫斎の苦悶(p.157~)

篤胤から一貫斎への書状の中で、篤胤は自分たちは奇人・変人としか思われておらず、高く評価されていないとこぼしている。

 

太田氏は結びとして、「一貫斎の生涯を考えた場合、平田篤胤の影響は、今まで以上に大きいと言わざるを得ない」(p.157)。

「篤胤の科学・技術面の評価が高まれば高まるだけ、一貫斎への影響は大きいと考えた方がよいであろう」(同頁)

と述べている。

 

そうすると、一貫斎のことを調べるには平行して篤胤のことを調べて行かなければいけないことが理解できる。偏狭な人物としての平田篤胤ではなく、私の言葉で言えば、「ルネサンス的人物」「万学の才」としての平田篤胤を理解することが必要なのである。

 

巻末に付いている参考文献表には、荒俣宏・米田勝安氏『よみがえるカリスマ平田篤胤』(論創社、2000年)や子安宣邦氏の『平田篤胤の世界』(ぺりかん社、2001年)、平田篤胤著、子安宣邦校注『仙境異聞勝五郎再生記聞』(岩波書店、2000年)などが掲載されている。

 

今回上げられている本とはやや異なるが、数年前に別冊太陽で見たことがあった荒俣氏と米田氏の本を思い出した。荒俣宏・米田勝安編『別冊太陽 知のネットワークの先覚者 平田篤胤』(平凡社、2004年)。別冊太陽というのは、雑誌ぐらい大きい体裁で、主として日本の文化を紹介したグラフ誌のようなものである。竹久夢二とか白州正子とかそのあたりの雰囲気である。残念ながら、これは新刊で見つからなかったので、図書館で借りだした。

 

4.荒俣宏・米田勝安編『別冊太陽 知のネットワークの先覚者 平田篤胤』(平凡社、2004年)

荒俣宏は単なる物知りコメンテーターなどではなく、博物学的な興味を持った幻想文学などを物す作家である。米田勝安(まいた かつやす)氏は、平田神道家の第六代の宗家ということだ。母方の血筋が平田家であるとのこと。この2人の対談が冒頭に載っている。

 

対談:荒俣宏・米田勝安氏「いまよみがえる平田篤胤

 冒頭の荒俣氏の問題提起に私の言いたいことが書かれている。長くなるが引用させてもらいたい。

 

まず、荒俣氏の現状認識が語られる。

 

「日本は、江戸末期から、西洋に追いつけ追い越せということで、物質文明や科学的合理性を吸収し、ここまで良くやってきたと思います。ところがここに至り、経済、政治システムから精神的なことまで行き詰ってしまいました」(4頁)。

 

そのことが篤胤にどんな関係があるのだろうか。

 

「江戸末期からのこうした時代の流れの中で、西洋のものを受け入れてもいずれ行き詰まりがくるから、そのときに日本的なものを付け加えることで、新しい人類の思想を生み出そうということを考えた人物が、いままでの歴史の中にもいたのじゃないか。その代表的な人物が平田篤胤なんです」(同頁)。

 

このような目的を考えた場合に、他に適当な人物がいるのかもしれない。特に篤胤に言及すると独特の拒絶反応に出会うことがあるという。

 

「ところが、そういうお話をすると「えっ」というような反応が返ってくるんですね。というのも、明治期以降、平田篤胤というのは国家神道の総本山とされ、国学=超保守、あるいは民族主義的な思想の頭目のように見られていて、平田篤胤のことを手本にするのは時代遅れであり、アンタッチャブルだというふうに考えられてきたんです。」(同頁)。

 

そうではないと考える荒俣氏は、篤胤の学問の意義を説く。

「篤胤が関心をもった学問の広がりをもう一度訪ね、その目的を正しく継承すれば、もっと別の未来が開けたのです」(5頁-6頁)

 

対談の中で語られている内容で驚いた点を挙げる。

平田篤胤は、医学の観点から、人体解剖を行っていた。

*米田氏によると篤胤は、『西説医範提綱釈義』『解体新書』などの蘭学医書を読破していた。 人体解剖をしたとこともあるという(『志都能石屋』)。

『古今妖魅考』は、今日の精神病理学が対象とするような問題を扱っていたとして、呉秀三博士が注目していた。

*単に天狗や狐などを扱った研究ではなく、精神病理学的な研究だと思えば、篤胤の先見の明に感動する。なるほど、そういうことだったのか。これまで何故妖怪など研究する人がいるのかと思い、全く共感できなかった。それこそローカルな知で、民俗学的なものだと思い込んでいた。なるほど、確かに精神病理学的なものを対象とした研究だと思えば、篤胤が持っていた知的好奇心や物事に対する畏敬の念が自分なりに見えてきた。

 

宮地正人氏(当時・国立歴史民族博物館館長)「伊吹迺舎と四千の門人たち」(p.100~)

著者の名前は書店や目録などで知ってはいたが、私の目指す方向とは異なる方だと思い、これまで気に留めていなかった。とはいえ、今回このムックに論文が載っていて、次のような問題提起には興味を持った。

 

「戦時中に教育を受けた世代においては、平田国学と聞くと、非合理主義、排外主義といったマイナス・イメージと条件反射的に結合して意識され、生理的嫌悪感は覆うべくもなく強烈である。また常識化された理解では、戦前の国家神道そのものを創り出した張本人として、祭政一致廃仏毀釈も含め平田国学が非難されつづけている」(100頁)。

 

私は宮地氏がそういう方なのかという先入観を持っていたが違っていたようである。そして、とりわけ私の興味関心からすれば次の一節が大事である。

 

平田国学を自己の正統性主張の中にきちんと位置付けて然るべき神社界自身も、現実には「敬して遠ざけ」ており、学術的には本居宣長を強く押し出し、明治期では津和野国学を前面に据え、問題を糊塗している印象を私は強く受けている」(同頁)。

 

私自身の好みからすれば、神社界から知的好奇心と学術的方法論に裏打ちされた堂々たる作品が誕生して欲しい。でも、今回宮地氏の論文を読んでおもしろかったので、今後少し追跡して読んでみようと思った。

 

国立歴史民族博物館の展示「明治維新平田国学」についての読み物がある。

外部リンク:歴博・ほっとひと息・展示の裏話紹介

 

 森岡恭彦氏「平田篤胤と医学」(p.121~)

 本居宣長が医業で生計を立てていた事は知っていたが、平田篤胤に医道の心得があったことは知らなかった。篤胤についていいかがんな本は読みたくなかったので、この年齢までそんな基本的な事実さえ知らなかった。そこで森岡氏のこの論文を見てみよう。

 

論旨

医師たる森岡氏が篤胤の医学について書いている。結論から言うと、「平田篤胤の医学・医療における業績は医学史に残るようなものではない」(123頁)ということになろうが、国学・皇国思想を根底に持ちながらも、役に立つことは取り入れるという点があり、その後の我が国の文明開化につながったとしている。

 

<見出し>

一.篤胤の活躍した時代

二.篤胤の医学

三.医道大意

弟子たちに行った講義『志都の岩屋』(俗称、医道大意)について、「当時としてはかなり高度の医学知識を持っていたことが分かる」(122頁)

四.人体解剖について

『志都の岩屋』は1811年に刊行された。1774年には杉田玄白らの『解体新書』、1805年には宇田川玄真の『医範提綱』などが出版され、多くの医師が読んでいただろう。篤胤はオランダ語を少し知っていたようであるが、直接原書を読んでいたのか分からない。また、篤胤は宇田川玄随が訳した『西説内科撰要』や楢橋鎮山が書いた『紅夷外科宗伝』を読んでおり、オランダ医学に大層興味を持っていた。

五.医師の心得について

六.平田篤胤の残したもの

 

 私はもちろん篤胤が医学の分野で業績を挙げたなどと主張したい訳ではないから、篤胤に医学分野の業績がなくてもよいのだが、それにしても篤胤の知的好奇心は素晴らしい。

 

森岡氏が参考文献として挙げているのは、

石田真「平田篤胤の医学」研究所報 六:17-19、 彌高神社

ということだ(一部略)。

 

このページから研究所報をダウンロードできるようである。

平田篤胤・佐藤信淵研究所 | 厄年祓 還暦年祝祭 彌高神社=公式ホームページ

 その他気になった話題 

中村士「日本の天文学と一貫斎」(『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』所収、p.119~)

中村士(なかむら つこう)氏は、執筆当時国立天文台助教授だった人物である。本論文にも、一貫斎の製作した望遠鏡に関する興味深い解答があった。

 

研究者情報が載っているこのサイトから論文がダウンロードできるようである。

外部サイト:中村 士 - 研究者 - researchmap

*「佐藤一斎の時計研究と幕府天文方との交流」という面白そうな主題の論文もあるということだが、こちらは残念ながらダウンロード対象ではなかった。

 

一貫斎の望遠鏡はなぜ評価されなかったのかという問題に対して、中村氏は「一貫斎の望遠鏡は非常に高倍率(数十倍)」だったからだという(119頁)。

 

えっ?逆ではないのかと思われるかもしれないが、幕府天文方の目的から説明がつくという。

 

渋川春海に始まる幕府天文学は、中国の歴算天文学をそのまま引き継いだもので、当時使われた太陰太陽歴の日月食と惑星位置の予報精度を高めることのみに主な関心を持っていた」(120頁)

 

だから一貫斎の製作した望遠鏡は、高倍率過ぎて視野が狭く、天文方には評価されなかったのだという。なるほど。目的・関心が異なっていても評価されないのだなー。自動車でいうと、スピードがめちゃくちゃ速い車と、歩行者や対向車などを認識しつつ進む自動運転車みたいなちがいかな(???)。

 

「(略)一貫斎が観測した太陽黒点、月の表面、惑星の満ち欠けや表面模様についても、天文方は中国から輸入された漢訳の西洋天文書とヨーロッパからもたらされたオランダ語天文書からの知識としては知っていた。しかし、幕府天文方の業務としての天文学は、そのような暦の改良に寄与しない天文学に興味を持つことを許さなかったし、天文学者としてのプロ意識は太陽黒点や月面模様を正統的な天文学とは見なさなかったのだろう」(120頁)。

 

 

太田浩司氏のコラム「三浦梅園と麻田剛立」(『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』所収、p.142~

国友一貫斎や平田篤胤の天文観や宇宙観を論じるにあたって、比較したくなるのは、三浦梅園であろう。私は二次文献のそのまた二次文献ぐらいでしか知らないが、これがきっかけで、後には引けないと思った。

このコラム自体にそれほど目新しいことが書かれている訳ではないし、梅園の原典などなかなか読めるものではないが、国友一貫斎や平田篤胤の並びに三浦梅園を置いてみたことが読者に対する刺激になるだろう。

私は早速、大学図書館で山田慶児氏の著作などを借り出してきたが、まだ時間がなく読めていない。でもこれがきっかけ。読むぞ。

 

吉田一郎氏「自転車もつくった鉄砲鍛冶」(『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』所収、p.84~)

勝海舟が書いた『陸軍歴史』の中に、「国友勘左衛門や国友大三郎ら十人方の名が多く登場している。十人方のリーダーと目される国友勘左衛門は、幕府の軍事の中枢だった「工部所」にいた。工部所は後に陸軍所になっていく」(88頁)との記述がある。

 

「十人方」というのは、江戸中期以降、江戸に置かれた国友の会所(出張事務所みたいなもの?)の「南鍛冶」つまり「国友の江戸常駐集団」のことだという(88頁)。

 

山岡鉄舟との関係で勝海舟の本を少し読んだが、軍事の歴史系は読んでいなかったので、これをきっかけにつながった。良かった。ありがとう。

 

 

まとめと課題

新聞記事で見たことがきっかけとなり、休日に滋賀県長浜市まで行って、国友一貫斎や国友鉄砲について知ることができた(ついでにフェリーで琵琶湖を走った)。新聞記事に触れてあった一貫斎と平田篤胤との関係をより詳しく知ることもできた。これまで山田孝雄氏『平田篤胤』以外読むことはなかった平田篤胤について、深めていくきっかけとなった。私は自分流の言葉で言うと、ルネッサンス的人物としての平田篤胤に強く興味を持った。国友一貫斎を知ることで、平田篤胤についての知識を深めることができたのである。

 

決して恵まれた環境ではなかった中で、これだけの学問業績がある平田篤胤。現代みたいにきっちりとしたカリキュラムで子供の時から教育を受けられた訳でもなかったのに。自分も大学の研究室や研究機関に所属していないからといって、めげるのではなく、自分のやりたいこと、本当に価値のあること、自分の信じる者を追求する気持ちが、再び湧いて来た気がする。

それだけでも一連の行動に意味があったわけだ。そして、少数ながら読んでくれている方もいる。これは励みになる。

 

 

 <これからの課題>

「科学」と「科学技術」とのちがい。

ビジネス書の棚で、政経に関する本がよく置いてある副島隆彦氏などは『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房、1998年)の中で、アメリカの社会科学について述べた後で、我が国の産業技術(1980年代後半から1990年代あたりを念頭においているのか?)について次のように述べている。

「だから、本来ならばヨーロッパやアメリカで築かれた本物の学問(=科学)の前にはいつくばって、ひれ伏していなければならなかったはずの、この日本と言う東アジアの島国が、テクノロジー(これは「科学を生産に応用したもの」という意味でアプライド・サイエンスと呼ばれ、本当は科学よりもずっと下の方にある応用学問だ、と欧米社会では伝統的に考えられている。このテクノロジーを司る人々がエンジニア」)」(99頁)

文脈をすっ飛ばして引用しているから、何のことか分からないと思うが、要するに「テクノロジー」は「サイエンス」よりも劣っており、日本にあるのは「テクノロジー」であって、神やこの世界に対する考えといった世界観を伴った「サイエンス」ではないということだと私は理解している。

 

このような考えを前提とした時、果たして国友一貫斎を「サイエンティスト」と呼べるか否かが問われるだろう。篤胤についてはどうだろうか。「サイエンス」とは異なるが、世界観の持ち主であったことはたしかだろう。だから、国友一貫斎を「サイエンティスト」と言うためには、平行して平田篤胤を研究すると有益だろう(人に言う前に、自分でやればいいのだが・・・)。

 

日本にあったのは「技術」なのか、「科学」なのか。このあたりは村上陽一郎氏などの科学哲学者らの著作を参照して、考えて行きたい。

 

科学哲学者の村上陽一郎は最近講談社学術文庫に入った若き日の本『日本近代科学史講談社、2018年)で「アジアには「技術」だけがあって、「科学」は存在しなかった、という言い方は、誤解を招きやすいし、それが正しいかどうかを容易に判断できるほど、アジアの思想の歴史的解析が進んでいるわけではない」(26頁)と言っているのだから、昔からこのような見解が主張されたのであろう。どう考えれば良いのか。「哲学」にも言われうる問いだろう

 

・軍事技術の果たした役割と現代の社会

 ・司馬遼太郎街道をゆく』シリーズへの導入

勝海舟『陸軍歴史』:国友の十人方の記述

勝海舟全集への導入

・西洋列強との出会い(戦国時代と幕末)

長篠の合戦などの戦国時代

⇒既に始まっていた西洋との接触キリシタンなどとの接触

野口武彦氏『江戸の兵学思想』の再読への誘い

荻生徂徠新井白石兵学と銃

 ・三浦梅園をしっかりと読む。せめて、解説本でもいいから。

 

さまざまな課題が浮かび上がってくるよい勉強になった。(完)

 

 

 

I want to say thank you, anyone who read the article, especially from oversea.

国友鉄砲の里資料館ー滋賀県長浜市観光 平成31年2月10日(日)晴れ時々雪

国友鉄砲の里資料館ー滋賀県長浜市観光 平成31年2月10日(日)晴れ時々雪☃

 

 

平成31年2月10日(日)晴れ時々雪

 

2月6日の新聞記事に載っていた国友一貫斎が気になって、三連休の日曜日を利用して、滋賀県長浜市に行ってきました。長浜市は琵琶湖の東側にあります。琵琶湖周辺には、小さい頃にバス釣り堅田方面に2度ほど、合宿などで2~3度ほど行き、瀬田川なども2度ほど行ったことがあります。また、成人してからは安曇川にある中江藤樹記念館に2度足を運んだことがありますが、これは琵琶湖の西側でした。その他は、東京へ行く通過点として、米原のあたりを通っただけで観光や調査目的で行ったことはありません。これが初めてです。

 

お金が気になることや、三連休をゆっくり自宅で過ごしたいという気持ちもありましたが、感動する方向に一歩踏み出すことをしていかないと、どんどん立ち腐れて行くという気持ちから、なんとか動きました。

 

休日でもジムに行くのに早起きしているので、早朝に起きること自体は苦にならなくなってきました。これはいい兆候だ。

 

1.京都駅 

まず京都駅から米原まで行きます。朝ですが、さすが京都駅それなりに人がいます。(こんな写真しかなくてすみません。)

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京都駅の案内

2.米原駅

米原で乗換えしないといけない。ホームにおいしそうな立ち食いうどん屋がありました。食べたいなと思い、見て見ると、なぜかやっていなかった。というか、もうすでに長浜方面の電車が来ていました。車両の長さがちがったので、気がつかなかったです。

 

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米原駅のホーム

 3.長浜駅到着

着きました。長浜駅です。気温は5度ぐらいということで、刺すような寒さです。駅前は整備されていて、レトロかつモダンな感じでいいです。でも、どこ行きのバスに乗ればいいのか分かりにくです。

 

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長浜駅

 

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駅前の空中遊歩道(?)みたいな所

駅前にある平和堂は、たしか滋賀県のが発祥地。滋賀県が発祥であれば、「近江商人」というのか分かりませんが、電車の中から見ていても、産業が根付いている印象を受けました。単なる地方ではありません。むしろ京都が雅な産業が「10」ぐらいあるとすれば、滋賀は江戸時代から続く地味な産業が「50」ぐらいあるのではないでしょうか。まあ、勝手な印象に過ぎないので、無視して下さい。とにかく滋賀の地場産業をなめてはいかんと言いたいです。

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バスターミナルの案内

バスターミナルに降りて、コンパクトサイズのバスに乗りました。 

一応運転手にも尋ねましたが、何となく目的地に着くかどうか不安の中を過ごし、スマホで調べまくりました。なんとか目的地に向かっているようです。バスはコミュニティバスらしいコンパクトさで、私を含めて3人です。駅から340円と料金が高め。採算を合わせるためなのでしょう。人が生活している結構狭い路地までぐいぐい進んで行きます。

 

ここらへんの町並みを見ている限り、なかなか造りが立派なお家が多いです。町中に立っていた司馬遼太郎氏の記念碑にも町並みの立派さについて触れられてありました(後掲の写真を見て下さい。)。やはり精密産業が富をもたらしたのでしょうか。それも成金的ではなく、質実剛健であるが、一族を富ませる金銭のことも忘れないという今の私に必要な要素が詰まっているような町並みでした。湖西の藤樹記念館まわりには、文教的な雰囲気が漂っているのに対して、同じ琵琶湖まわりの町並みとして似たような雰囲気を持ちつつも、もう少し「歴史的な富裕さ」(浅薄な現代風のものではなく)を感じさせる国友の町並み。まだまだ知らないことがたくさんあるな。当たり前か。用事がなければ、人の生活している町に立ちいることもないもんなー、などと思いつつ、窓から外を眺めていました。

 

やっと着きました。でも時刻はまだ9時30分ごろ。誰もいません。

 

4.国友鉄砲の里資料館

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国友鉄砲の里資料館

 

入場料は300円。中に入ると、10分ほどの説明ビデオを上映してくれました。 

 座席の周りには、火縄銃や花火などが展示してありました。1階と2階があります。

まず1階は、日経に載っていた展示と地元の医師が撮影した琵琶湖の生き物や自然の写真。琵琶湖の自然にも興味がありますが、今日はあくまでも国友鉄砲鍛冶とその代表格・一貫斎にフォーカスします。

2階は、国友鉄砲の展示とその作り方が紹介されています。大きめの鉄砲と資料集で見たことがあるような火縄銃の展示。金属の部分の作り方や木の部分の作り方など、展示だけでおおむね理解できた。工房の説明音声も役に立った。

また、機構の部分を取り外した火縄銃を実際に持つことが出来た。それなりに重い。エレキギターぐらいだろうか。

 

小規模な資料館であるが、良質な展示で勉強になりました。これぐらいがちょうどいいと思います。維持しているだけでもすごいと思いました。この時の勉強の成果は、資料館で購入した長浜市長浜城歴史博物館編『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』サンライズ出版、平成十五年)別の記事にまとめる予定です。明治以前の「科学技術」のあり方、平田篤胤との関係、一貫斎の制作した反射望遠鏡の位置づけなど、興味深いので、別の記事としてまとめます。

 

私はこれまでに近畿、九州、東京など、いくつかの資料館や記念館などに足を運んできましたが、そのたびに購入していた図録などが活用できずにたまっていたので、原則こういう本は買わないことにしていました。ですが、今回の本はいくつかの疑問に答えてくれており、またこれからの勉強につながっていくと思ったので、2000円ぐらいでしたが、購入しました。浪費を慎まなければならない立場で、本の置き場にも困るのですが、これはあくまでも投資になると考え、買いました。

 

館内の写真は、明示的に禁止のある場所を除き、一応撮影してよいかと確認した上で、掲載しております。2階の鉄砲がいっぱい展示してある部屋は訪れる時のお楽しみにしてください。

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1階展示室 日経に載っていた内容が展示してありました。

 

館内には渋沢栄一翁や渋沢敬三氏に関係する出版物が置かれていましたが、職員の方に尋ねると、特別な関係はなく、資料館つながりで送っていただいているものだとか。

民俗学的なつながりがあるのかと思った。

 

職員の方は「いつもはこのぐらいには雪がつもっているので、よかったですね」という趣旨のことも言っていました。私も一番寒い季節に来ることについて迷いはあったのですが、勉強になったことを思うと、来た甲斐がありました。

 

バスの本数が少ないので気をつけてください。

バスが来るまで少し町を散策。至るところに碑が建っており、感心した。

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国友にある碑

 

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国友の自治会館?

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上述の司馬遼太郎の碑文

 

街道をゆく』からの一節だそうだ。国友の家並みを褒めている。私もこれを見る前に家並みが良いと感じた。教化が行きとどいたような町並みであると感じた。

藤樹記念館ともまたちがう印象だ。

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資料館の前の側溝の蓋。

こういうものを作るのは、資金も必要だし、技術者も必要なはずなのに、手が込んでいる。さすが国友である。

 

 

5.昼食:モンデクール長浜2F「かごや」

11時過ぎ、バスが来たので一度、長浜市駅の方に帰る。さてお昼をどうするか。寒い中歩いたので、いつもより疲れた。もう近場で済ませようと思い、駅前の平和堂(?。モンデクール長浜2F)のフードコートに入った。

 

ここには中華系の店と、和風のうどん・丼もの系の店があり、私は後者の「かごや」という店で「かき玉うどん(580円)」を選んだ。なぜかといと、外がめちゃくちゃ寒かったから、あんかけでたまごがといてあるうどんを食べると温まると思ったからだ。

中華系の店も長く続いているようなので、帰りに食べようかなと思った。

 

30人ぐらいが座れるフードコートには、地元のサッカー少年がスーパーで買ったペットボトルやカップラーメンを食べて、だべっており、私も小さい頃こんなことをやっていたなーと思いだした。ここらへんの子供は中流家庭の子といった感じだろうか。やはり経済が回っているという印象を受けた。

 

残念ながら、写真は取らなかった。彼らにあほな大人だと思われたくなかったからだ。マナーの悪い人と思われたくなかったので、文字だけです。まあ、普通においしかったです。

 

このあと竹生島に行く予定ですが、フェリーに乗るまでにまだ1時間ほどあります。そこで町歩きに繰り出しました。

バスで通った時に行列のできていた店をチェックしに行きます。

「鳥喜多」という店で30人ぐらい並んでいました。写真は取りませんでしたが、親子丼が有名な店のようです。隣の金物屋もいい雰囲気を出していました。

 

近江牛を使ったカレーパンの看板が出ていて、食べて見ようと入店。でも、売り切れ。代わりにくるみパンを買った。

 

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商店街のあたり

 

 

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黒壁ガラス館 元々は百三十銀行長浜支店の建物だったとのこと

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鯖そうめんのお店?ここもすごい行列でした。

そうか。このあたりは鯖で有名だったのか。食べたかったなー。本を買っちゃったからなー。

 

6.竹生島クルーズ

町歩きが楽しくて、結構時間が経ってしまった。竹生島に行く予定だから、駅の反対側(琵琶湖側)にある長浜港まで、徒歩で向かう。歩いて10分ぐらい。結構大きいテニスのコートがあり、学生の大会が開かれていた。いいな、活気があって。大人になって気が付くこと。

琵琶湖汽船フェリー乗り場に到着。えー、結構人がいる。売り切れにならないかな。心配だ。ここに人がいっぱいいたのか。

並んで往復チケットを購入。3,070円。結構高い(泣)。でも、長浜に来ることなどこの先10年ないと思うから、買います。普段とちがう体験をしにきた訳だし。

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琵琶湖の波しぶき

竹生島(ちくぶしま)。西国三十三霊場の第三十番、竹生島宝厳寺行基が辯財天を安置したという。

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本堂

拝観後、御朱印帳に印を受けます。
 

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石塔

 

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廊下

この廊下はどことなく、船の造りに似ている感じがしますが、秀吉が朝鮮出兵したときの船を解体した木材でできているそうです。えっ!すごいこんな所にそんなものが。確かに、消えてなくなる訳ではないから、どこかにあるのだろうけど・・。へー。

見どころが少ないなーと思っていたら、改修中の拝観場所があったようで、垂れ幕の中を進む。おみくじやってみたら「凶」。嫌気がさしてきました。そういえば、渡す人もどことなくよそよそしかった(笑)。

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ずっと上にある塔です。

率直に言って、期待していたより、見どころが少なかったです。トイレも手を洗いにくいし。チケットを渡す近くのベンチでタバコを吸えるようにしていたりと決して良くなかったというのが私の感想です。もっと良い所かと思っていました。休憩所に入るところも、タバコの煙だらけで最悪でした。

 

見どころも少なく、みな早めにフェリーに並ぶ。フェリーに乗っている方がよっぽど楽しいです。

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フェリーのデッキ。

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午後3時ごろの琵琶湖。サイコー!

フェリーは片道約30分。竹生島には約1時間20分の滞在。

15時過ぎに長浜港に帰ってきました。冬なので、もう夕方のような気分。これから少しまたさっき行った大手門通りに行きます。昼には食べられなかったものを食べたいと思います。
 

7.大手門通り界隈

 戻ってきました。

 

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フィギュア系の店

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焼き鯖寿司の店。

戻ってきたけど、どこもかしも「売り切れ」。結局、何も食べられずじまい。トホホ。

寒くて疲れたので、何か食べて帰りたい。カレーラーメンの店を見つけたので、入ったけど、それも売り切れ!うえー。いいです。何か食べて帰ります。

 

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ラーメン屋。

これを食べて、予定より早く帰りました。

帰りの電車で、スポーツ系の団体と乗り合わせて、乗車の順序を守らないわ、席を大量に占めているわ、うるさいわで最悪でした。

 

結局この人の収穫は、国友鉄砲の里資料館だけでした。

その反省を踏まえて、長浜市へ行く人へのアドバイスです。

 8.長浜観光のポイント

振り返ってこうしたら良かったと思うことをまとめます。

①名店で御飯を食べること。

このあたりで言えば、近江牛を使ったものや、鯖寿司(さばずし。ふなずしじゃないよ。)のあたりが人気のようです。

もう一度行くなら、昼ご飯に鳥喜多の親子丼を、パン屋で近江牛入りのカレーパンを店内で飲み物と一緒に飲み、焼き鯖寿司を帰りの電車で、お酒と一緒に食べます。もし混み過ぎていて無理ならば、やはり駅前の平和堂で何か食べます。

ちなみに、鳥喜多は11時30分ごろには20人ぐらい並んでいました。

②大手町通りあたりをゆっくり散策。(「長浜まち歩きMAP」が便利)

歩き疲れ防止のために、1時間に1度くらい店でゆっくりすることをおすすめします。

普段財布のひもが固い人も、その分のお金を使う心の準備を事前にしておけばいいいでしょう。

「長浜まち歩きMAP」が便利なので、駅や観光案内所で手に入れましょう。

大手町から長浜城あたりまでは徒歩で十分回れます。駅からそれぞれ約10分ぐらいの距離です。

③お城の方に行き、琵琶湖を眺める。

御朱印集めをしている人は別ですが、竹生島まで行く必要はないと思います。フェリーは楽しいですが、別の琵琶湖クルージングの方が満足度が高いと思います。

④国友鉄砲の里資料館

私のように日本の思想、歴史に興味のある方は、是非訪れて下さい。小規模ですが、歴史的なものがぎっしり詰まっています。分かる人には分かる良質な資料館です。

  

これで私の長浜観光の体験記は終わりです。Fitbitのスマートウォッチで2万3000歩ぐらいでした。

 

お付き合いありがとうございました。

 

この後は国友鉄砲の里資料館で購入した論文集・図録について記事を作成する予定です。

 

 

日経整理ー国友一貫斎の顕彰記事(2月6日) 平成31年2月9日(土)

日経整理ー国友一貫斎の顕彰記事(2月6日) 平成31年2月9日(土)

いつものように朝ジムに行き、少し食事。そして日経整理と言いたいところだが、

十字軍のシュミレーションゲーム「Stronghold Crusader HD」をしてしまった。

 

日経は経済や企業の記事が充実しているのかと思われるかも知れないが、意外と郷土関係の良質な記事が出ることがある。やはり文化はお金のあるところに集まってくるのかして、文化を取り扱った記事にも多く学ぶ点がある。今回紹介するのはそんな記事の中のひとつである。

 

平成31年2月6日(水)夕刊 11面 もっと関西欄

「国友一貫斎関連資料 滋賀県長浜市」「宇宙眺めた近江の奇才」

 

国友一貫斎(1778~1840)という人物を御存知だろうか。私は知らなかった。以下、記事をもとに紹介する。

 

記事によると、江戸後期の近江国滋賀県)の人物で、国産初の反射望遠鏡をはじめ様々な科学製品を作製した人物であるという。上記記事は一貫斎を再評価しようとする気運が高まっていることを紹介するものである。

 

一貫斎は、堺と並ぶ鉄砲の生産地の滋賀県長浜市国友市に生まれた。彼の家は幕府御用の国友鉄砲鍛冶を束ねる年寄の補佐役であったとのこと。そこで腕を磨いていったようなのだが、一貫斎が三十九歳の時、彼の評判を聞いた彦根藩が年寄を通さず、一貫斎に直接鉄砲を発注したことがきっかけとなり、争いが起こったという。そこで江戸に呼び出しをくらった。

 

ところが記事にもある通り、6年滞在した江戸で見聞を大いに広め、発明に没頭するようになった。なんとあの平田篤胤とも交流があったという。このあたりもう少し調べて見たい。

 

 

天保四年(1833年)、一貫斎はオランダからの輸入品を参考にして、初の国産反射望遠鏡を完成させた。それを用いて、月のクレーターや木星の衛星をスケッチしているという(!)。

 

ただ、かれの業績は珍しがられただけで、広まっていくことはなかったという。このあたり「和算」との共通点があるのかどうか。いわゆる教養を基盤とした「市民社会」なるものが形成されていない場合の探求者のひとつの運命を示すものだろうか。もう少し考えてみたい。

 

一貫斎の業績が広く知られるようにと、再評価委員会が組織されたという。伊能忠敬のように広まって欲しいそうだ。たしかに、今の科学技術も含めた日本思想史のラインナップなどは、固定的なものではなく、まだ知られていない郷土の偉人がいるはずだ。お国びいきではなく。今知られている人物も、後世に誰かによる何らかの取り上げ方がなければ今日にまで知られていなかったはずである。

 

一貫斎。クロスボウや筆ペン、飛行機の図面まで引いていたというから、面白いではないか。学芸員の人は「平賀源内より功績は大」と言っている。私は大人になってから子供向けのの歴史漫画で平賀源内を読んで、興味を持ったぐらいだが、一貫斎もこの記事で興味を持てた。

 

私が自分の持っている事典の中で、一番好きで、座右に置いている『科学史技術史事典』(弘文堂、平成六年、縮刷版)にもあらためて見てみると「国友藤兵衛」として掲載されていた。この事典は伊東俊太郎氏、村上陽一郎氏、山田慶児氏、坂本賢三氏らが編集委員であり、科学史を西欧だけに限定するのではなく、イスラム、インド、中国、朝鮮、日本、中世のヨーロッパのことなどがちゃんと載っており、世界の中の多様な文化で発生した「科学」「技術」を知ることができる。薮内清氏や、平川祐弘氏ら(他多数)が執筆陣に加わっていることからも良い事典であることが分かるだろう。

 

この事典によると

「1818年ごろ出府中成瀬隼人正の邸で英国製グレゴリー式望遠鏡を見て、これが動機となり1832年55歳で本邦最初のグレゴリー式望遠鏡の製作にとりかかった」(291頁)。

「望遠鏡は蘭製に勝るものと、天文観測の第一人者間重新(1786-1838)は賞賛している」(291頁)。

 

「成瀬隼人正」は「なるせはやとのしょう」と読むらしい(ネット調べ)。記事では「オランダからの輸入品」を参考にしたとあったが、事典では「英国製グレゴリー式望遠鏡」と書いている。まあ、それを輸入したのかも知れない。

望遠鏡を賞賛したのは、事典によると、間重新であることが分かり、「はざまじゅうしん」あるいは「はざましげよし」と読むらしい。

あんまり調べきれていないが、少しでも手元に事典があると助かる。

 

参考文献としては、日経には山本兼一氏の歴史小説『夢まことに』、『江戸時代の科学技術』(サンライズ出版)、事典には有馬成甫『国友藤兵衛』(武蔵野書院、1932年)が挙げられている。

 

平田篤胤との関係、そもそも平田の「科学」関係の思想などももっと調べたい。

 

自己の思想が受け入れられる世の中に生まれなかった時代を生きた一貫斎。埋もれた業績。少しばかり感動した。

 

www.nikkei.com

 

 

日経整理 法務関連 平成31年2月4日(月)

日経整理 法務関連 平成31年2月4日(月)

 

仕事のピークが過ぎたのか、始業前に新聞を読む余裕が出来てきた。

週刊ダイヤモンド2019年2月9日号「特集 文系でも怖くない ビジネス数学」をコンビニで購入し、デスクで少し読むこともできた。

以前の仕事ではデスクすらなかったし、嫌気が差してぎりぎりに行って、すぐ帰るスタイルだったから、こんなことはできなかった。そう考えると少しだが前に進んでいるのだろうか。

 

いつもは、土曜日に整理するのだが、今日は月曜日。もう眠たいのだが、記憶が鮮明なうちに、書いておこう。

 

日経新聞 平成31年2月4日(月)朝刊

11面 法務欄 「法争力を問う (下)」

 

私が日経をまとめるのは金融経済欄が多い。学生時代には、それほど興味がなかったが、社会人になって特に興味が出てきたのである。

とはいえ、元々は法学を学んでいたのだ。司法試験には落ち続けたが、行政書士は取った。活用できずにこのざまだが。だからもう関係ないものとして、あまり興味がわかなかった。

とはいえ、今日の法務欄は興味深かった。「法争力を問う (下)」と題して((上)は読んでいなかったかな)、我が国の法的インフラの国際競争力について、経営法友会代表幹事時の小幡忍氏(NEC執行役員)と日弁連会長の菊池裕太郎氏の二名の見解を載せている。経営法友会とは、1200社超の法務担当者でつくる会のことらしい。日弁連は、弁護士の連合会みたいなものだろう。このうち、特に興味をもったのは、小幡氏の方なので、寝る前にまとめさせてもらう。(凡例:「・」は見解の要約。*はこのブログ筆者のコメント)

 

経営法友会代表幹事時の小幡忍氏の見解

国境を越えた企業間の法的紛争の解決には、シンガポールや香港の専門機関が多いとのリードを受けて、答えたのが以下の内容である。

海外案件で準拠法を日本法にすることはほとんどない。

*準拠法とは、どこの国の法律に従って、事件を裁くかということ。

日本の法律事務所がアジア進出しても、すぐに法務サービスを任せられない。現地の法曹資格を持っておらず、人脈も乏しいからだ。

*ふーん。

だから、費用負担が大きくても、海外企業の絡むM&Aの法務アドバイザーにはネットワーク力のある米欧の事務所を使う。NECの先輩も、彼らに対応してもらっているだけでもありがたいと思えと言っていた。

*何か悲しいなー(笑)。日本にこれだけ法学部があり、法律関係資格の持ち主がいるのに。何か悲しいなー。

「日本の法曹養成課程は裁判実務を前提にしているが、そのノウハウと企業法務で求められる能力は異なるところもある」

*「社会人」となった私には、この点こそ興味深い。法学部にいた時、人気があったゼミは、企業法と労働法のゼミであった。私の通った大学には国際私法のゼミもあり、(多分)帰国子女(と思われる人)などもいて、華やかというか人気があったと記憶している。その経験からすると、本当に人材が不足しているだろうかという疑問がある。こういう環境で育った人たちは、いまどうしているのだろうか。もちろん大学で学んだことが職業になっているとは限らない。仕事以外の要因で嫌気がさすこともあるだろう。時間が経ってから大学入学した私などは、低空飛行を続けている。だが、彼らは若く将来もあったはずなのに、このような状況をどう見ているのだろうか。それとも帰国子女や成績のいい人は、海外の事務所に就職しているのだろうか。それが賢いのかも知れない。

 もう一つ思うことは、法学部に進学してくる人々の興味・関心のことだ。法学部の名物と言えば、企業法務よりも、刑法や犯罪学であろう。小説や映画の影響から、人間精神の探求を求めている人いるだろうし、冤罪を救いたいという気持ちで、法曹資格を目指す人もいるだろうし、ユニセフやUNHCRのような国際機関に憧れがあり、就職したいという人も多いと思う。

そうすると新入社員研修や下積みから始める企業文化に憧れをもてず、企業法務を想定しなかった法学部生もそこそこいると思う。社会人になってから、重要性に気がつくのではないだろうか。

英国にはソリシター(事務弁護士)とバリスター(法廷弁護士)があるように、裁判所立つか立たないかで法曹資格を区別して、ビジネスに詳しい弁護士を増やせばどうか。

*イギリスには、ソリシター(事務弁護士)とバリスター(法廷弁護士)という職業の違いがあるということは聞いたことがあったが、詳しく調べなかったし、その事を久しぶりに意識した。(ちなみに私の持っている行政書士(資格)を事務弁護士風に捉えるような見解を、どこかで聞いたのか見たのかしたことがあるとあやふやに記憶しているが所詮法曹三者(裁判官・検察館・弁護士)のようにみっちり試験を受けてきた訳でないから、「能力担保」の面で疑問が呈せられるだろう)。

 現在の法制度でも、弁護士は何にでもなれるのだから、私は法曹資格の区分だけの問題ではなく、何に憧れて法曹になったのかという問題があるように思う。

 実際記事において日弁連の菊池氏は「日本の弁護士の今後の課題は」との問いに対し、「ビジネスと人権に関する視点は欠かせない。海外のサプライチェーンの労働環境の改善などに取り組む必要性は増している。人権団体も日本企業の対応に関心を持っている。弁護士が対策を助言しなければならない」と述べているように、その関心は先進的な企業法務やそれを支える法的インフラの国際競争力強化などではなく、「人権問題」や「社会的正義」なのである。

 その点、経営法友会の小幡氏が「望む弁護士像は」と訊ねられたことに対し「自分たちの考え方と合うか、ものの見方はどうかなど注視している」と答えているのと対照的である。企業、ビジネスの推進力としての法務と企業に「社会的正義」などの観点から歯止めをかける法務との間には、精神的なちがいが存在するのである。

 経営側に立って採用する側の視点と、「正義」「人権」に視点に立って、企業を「善導」する視点がまじわっていない点で、生活者として生きて行かざるを得ない私としては、朝からおもしろい記事であった。

 

私の感想

日弁連の菊池氏「海外のサプライチェーンの労働環境の改善などに取り組む必要性」と言っている点は、フェアトレードや児童労働などの問題にも発展していく視点を提供している点で重要なのだが、一方で先進的な企業や稼ぎ頭となる企業が存在しなければサプライチェーンがそもそも存在しないのではないかとも指摘できるのである。そもそも富の産出がなければ、分配的な正義も労働者の待遇改善もなく、みなが貧しくなるという側面をもった問題ではないかとい思われ、競争に勝ち富を生み出す企業がなければ、社会的公正を訴える相手先企業もいなくなるのではないかという問題もあるのである。

こういう問題は社会がある限りせめぎ合いを続けて行く問題なのだろう。

以上。もう寝ます。

 

 

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