Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

大森曹玄翁の大河 三

 

鉄舟会編『大森曹玄翁夜話』(鳥影社、2004年)には、昭和40年(1965)、41年(1966)、43年(1968)に翁がベトナムに行ったと記載されている。翁はすでに60代になっている。

 

同書には、それ以上詳しく記載されていなかったので、どういうことなのか知りたかった。

 

翁が遷化(せんげ。亡くなること)した平成6年(1994)は、私はまだ10代前半であり、当然翁のことは知らなかった。知っていたとしても、まだ共鳴できなかっただろう。そのころからピストルズNIRVANAを聴き始め、エレキギターを始めたのだから。

 

翌年の『大乗禅』(1995年3月号、中央仏教社)の特集は、「追悼 大森曹玄師」であり、生前翁と交流のあった人々が文を寄せている。

 

大学図書館などにそう頻繁に通うことはできないから、2~3年前(?)この冊子をサイト「日本の古本屋」で見つけて購入した。それぐらい翁のことについて知りたかったのである。

 

 同号には、大変貴重な証言や文章があるのだが、その中でも目を惹かれたのは西川寛生氏の「日誌『大森曹玄師 ヴェトナム訪問記』」である。なんと、そこには昭和41年(1966)7月のヴェトナム訪問の西川氏による日誌が掲載されていたのだ。

 

 記事によると、1966年翁は、北部邦雄・元陸軍大佐とヴェトナムに訪れたという。その目的は「かねてから大森師と交流のある「ヴェトナム統一仏教会」の急進派を率いる傑僧ティック・チ・クァン(智知光)師が七月初旬から、軍部独裁政権に講義して”百日断食”に入っているのに対して、その断食闘争を止めて日本を訪問するように説得すること」だという(46頁)。

同行した北部邦雄氏は、「ヴェトナム戦争の実態、特に共産ゲリラ活動と政府側の帰順工作の状況を見聞するため」に訪問したという(同頁)。

 

そもそもこの西川寛生氏とは、どのような人物なのだろうか。何の手掛かりもなく、調査ができる環境及び境遇になかった私は、ネット検索して見た。すると、いくつか情報がヒットした。

 

まず目に付いたのは、内房司・宮沢千尋編『西川寛生「サイゴン日記」』(風響社、2015年)であった。奥付には「学習院大学東洋文化研究叢書」とある。武内氏は、学習院大学の教授であり、宮沢氏は南山大学の准教授であり、どちらもベトナム関係の論文があるようである。また編集協力された二名の方も大学関係者であり、ベトナム関係の論文がある。アカデミックな手続きを経ているだろうから、このあたりから始めるのが良さそうだと思った。

 

まず、同書は1955年9月から1957年6月までの日誌である。

同書によると、西川氏は西川捨三郎氏といい、西川寛生がペンネームであるとのこと。松下光廣氏が創設した企業「大南公司」の社員であったという。

 

そこまでならば、まあ商社に務めて、外国に駐在した人物かなと思うぐらいだが、何と西川氏は大川周明が開設した「東亜経済調査局付属研究所」の第一期生だったという。戦前、仏印進駐とともに、ベトナムに渡り、大東亜戦争敗戦まで滞在していたという。

 

大森曹玄翁のヴェトナム訪問には、このような人物関係があったのである。(つづく)

 

 

大森曹玄翁夜話―一禅僧の昭和史

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