「位なきを患へず、立つ所以を患へよ」ー安岡正篤『朝の論語』より 令和三年四月五日(月)
「子曰く、位なきを患へず。立つ所以を患へよ。己を知らるること莫きを患へず。知らるべきを為すことを求めよ」(『論語』里仁第四)
5年ぶりの苦境に立たされている。人間の裏面も見せられた。嫌な態度も取られた。何よりそんなことに左右される自分の境遇が情けない。
自分が見た人々は、世界情勢や思想に興味がなく、全く自分の周りのことだけしか知らない。それでいて年功序列。そこに長くいるか、業務知識を知っているだけの人たち。敬意の念など湧いてくるわけがない。キャパの小さい人たち。
こんな人たちに人生左右されるのか?
なぜ自分はいまの苦境に立たされているのか。こんな状態が一生続くのか。
今まで考えてきたこと、努力してきたこと、出会ってきた人々を思い、今の自分の状態への嫌悪感が湧く。
朝に少し時間ができた訳だから、安岡正篤氏の『朝の論語』(明徳出版社、昭和三十七年)を読む。学生・修士時代以来、久しぶりに読める気分になった。実社会に出てからだから、社会の中に位置づけられた(位置づけられてしまった)等身大の自分で読まなければいけない。
まず、『論語』里仁第四から
「子曰く、富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其道を以てせざれば、是を得とも處らざるなり」。
*「處らざる」=「をらざる」
という語を紹介し、「貧乏と、しがない境遇は誰しもいやなことであるが、それが良心的に何ら恥づる所なくしてしかる以上、それも結構、別に逃げたり避けたりしないといふのであります」(55頁)と説き始める。。
李氏朝鮮の儒者・李退渓や備中岡山の儒者・山田方谷の言葉を紹介した後、論語に戻り、説いたのが冒頭の言葉。
「子曰く、位なきを患へず。立つ所以を患へよ。己を知らるること莫きを患へず。知らるべきを為すことを求めよ」(『論語』里仁第四)
私は地位が低いことを嘆いているが、自分の思想の根拠を掘り下げているだろうか、論敵から逃げていないだろうか、仕事を言い訳にして、思想の統一を怠っていないだろうか、現代に迎合し、その流れに乗ろうとしていないだろうか。
人に知られたいという気持ちを持ちながらも、大した業績もないじゃないか。
「己を知らるること莫きを患へず。知らるべきを為すことを求めよ」。
*「莫き」=「なき」
安岡正篤氏の『朝の論語』を読んで少し安心した。また明日から苦境を脱する試みが始まる。