紹介 呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫、1987年) 連載④ 考察
この回では、連載③でまとめた批判について少し考察をはさむ。
- (1)宮崎市定氏の現代語訳に全面的に依拠している点への批判について。
- (2)「理想主義者、変革者としての孔子を見ておらず、卑小な現実哲学に支配された孔子像を提示している」という点について。
- (3)「古代人としての孔子も見ていない」という点について。
- 谷沢論語についての感想
- 補足
考察にあたっては、公平を期するために、谷沢永一氏の『古典の読み方』を購入し、批判されている箇所を参照した。私が手に入れたのは、1981年9月に祥伝社より刊行されて文庫化された『古典の読み方』(1992年、PHP文庫)である。加筆・修正があったのかどうかは「文庫版のためのまえがき」を読んでもよく分からなかったことを付記しておく。
(1)宮崎市定氏の現代語訳に全面的に依拠している点への批判について。
呉氏の批判
宮崎氏の『論語の新研究』は、学業と余技がくっついたクセのあるものであり、それに基づいて町人哲学を構築するのは問題である、というものが呉氏の批判であった(呉智英『読書家の新技術』朝日新聞社、1987年、67頁)。
それでは谷沢氏の主張を見てみよう。
宮崎論語を採用することについて
・谷沢氏の『古典の読み方』によると、谷沢氏が宮崎市定の『論語の新研究』を薦めたのは、吉川幸次郎氏、貝塚茂樹氏、金谷治氏らと比べて、現代語訳が良かったと谷沢氏が感じたからである。
「現在出版されている各文庫には、多くの碩学の現代語訳があるが、肝心かなめの訳文にメリハリがない。(中略)つまり読んでおもしろくない。文章として、訳文自体が独自に私たちの胸を打つ、という迫力がなかった」(谷沢、上掲書、52頁)。
「大抵の研究者は、現代語訳だけではどうしても内容、エッセンスを封入できないものだから、自分でも物足りなくて、後ろにガタガタと、その注釈をつけたがる。それを宮崎市定が、何箇所か例外中の例外はあっても、原則として外してしまった。これだけ読めば古典のおもしろい訳文というっものが、なるほど稀有な業績だということが実感できる。けだし名著である」(谷沢、上掲書、53頁)
要するに、英語で言うと、英文和訳ではなく翻訳になっており、日本語の作品として読めるということであろう。
・谷沢氏は、ある章句についての宮崎氏の訳文について、次のように言っている。
「この原文だけをいくら読み返してみても、私には宮崎市定のような訳文は出てこない。これは原文の言わんとするところ、一つひとつの言葉の指し示しているものを、よほど強い気迫でよくよく考えたらに違いなく、まことに見事なものすごい現代語訳だと言わざるを得ない」(谷沢、上掲書、55-56頁)。
とすると、呉氏のような批判は織り込み済みであり、それでも宮崎氏の現代語訳を選んだのではないか。
・また、私の持っている文庫版の論語を扱った章の終りには、桑原武夫氏の『論語』を薦めているから、宮崎論語の中和も図られている。
「宮崎市定の訳文では、武断的に割り切りすぎていてどうも気に食わんという感受性の持ち主には、桑原武夫の『論語』(筑摩書房刊)をお薦めしておこう」(谷沢、上掲書、79頁)。
こう見てくると、谷沢論語の性格を見た上で、読みたい人は読めばいいということだと思う。
(2)「理想主義者、変革者としての孔子を見ておらず、卑小な現実哲学に支配された孔子像を提示している」という点について。
実際に谷沢氏の本を見てみると、次のような箇所に出あう。
「要するに、『論語』全二十巻が指し示しているのは、人間が悪徳をなくして、すばらしい人間に生き返ることを望む立場なんかではない。そんなことは、一言も言っていない。その示すところは、人間社会に生きていくうえで、いろいろな考え方があるだろうが、最終的には、こうしたほうがお得になりますよ、という人間の生き方におけるもっとも有利な道の勧めなのである」(谷沢、上掲書、61頁)。
そもそもこの節のタイトルからして「『論語』ーもっとも有利な生き方のすすめ」であった(谷沢、上掲書、52頁)。
また「『論語』はいわば人生のハウツーを書いた実用書だから・・・」(73頁)とも言っている。
呉氏による谷沢論語のまとめ
呉氏は谷沢氏の論語理解を次のようにまとめていた。
・「『論語』には、進化論的発想=形而上学=当為の法則がない。つまり、歴史・社会はこう進化するという発想がなく、ゆえに、人間は歴史・社会に、かくあるべき・かくなすべきだという当為の法則もない。それは、宇宙論とか性命論とかいう形而上学がないからだ。『論語』にあるのは、人生の対策なのだ」(呉、上掲書、72頁)。
・「普遍的な思考である形而上学がない、それを求めない、ということは、人間の理性や論理が及び得ない「運」というものを認めることである。形而上学的な考え方では、「運」というものを、偶然性という言葉で置き換え、本来ありえないものだと無視する。が、孔子は「運」というものが人間世界に厳としてあることを認め、その中で、人間は生きていくのだ、としている」(呉、上掲書、72‐73頁)
進化論的発想について
「なぜ、孔子は進化論的発想をしなかったか」という節で谷沢氏は次のように述べている。
谷沢氏:「『論語』を読む上で重要な観点は、進化論がないということである。社会がいろいろな社会形態を順番に破壊して進化していく、あるいは人間というものがどんどん立派になっていく、といった進化論思想が、絶無なのである」(谷沢・上掲書、73頁)。
これに対して呉氏は、「進化論的発想だが、『論語』にあるにきまっているではないか。但、それは、キリスト教の終末思想に影響された過去→未来という進化論ではなく、理想的政治の行われていた周公の時代を規範とする“復活的進化論”である」(呉、上掲書、73頁)と言っている。
谷沢氏において「進化論」とはあくまでも、社会がいろいろな社会形態を順番に破壊して進化していくことを意味している。それに対して、呉氏は「復活的進化論」という言葉を持ち出して批判している。だとしたら、『論語』に進化論(的発想)があるかないかという争いに入る前に、両者の言うところの「進化論」が何であるかを明らかにした上で、そのような規定の仕方に妥当性があるのかないのかということが前提問題として解決されていないといけない。
この点に関する呉氏の批判はやや強引だと思われ、孔子には古代を理想とした理想社会のイメージがあったと言えても、それを「進化論」という言葉の内に入れて谷沢氏を批判すべきだったのか分らない。
形而上学について
谷沢氏:「孔子の考え、『論語』には、形而上学はない。人間というのは、必ずあるところ、ある時代に生まれ、いつか死ぬ。『論語』は、その短い間に、その条件の下でどう対応するかという、ひとつの地についた対策を説いた書なのである」(72頁)。
・呉氏は「形而上学」という語の出典が、伝統的な儒教の立場では、孔子が著したとまで言われる『易経』にあり、論語に形而上学がないという主張は成り立たないという(74-75頁)。
「孔子が形而上学の元祖だということなら言えなくもないが、形而上学がないなどということは言えるはずがない」(呉、上掲書、74頁以下参照)。
と、語源を根拠として批判をしている。
呉氏によれば形而上学とは、「形ある物の背後にある原理を考察する学問」(呉、上掲書、74頁)という意味であり、後の著作に出てくる規定を参照すれば「論証されていない命題を中心に据えた思想体系、つまりイデオロギー」(呉智英『ホントの話』小学館、2001年、13頁)である。
『岩波 哲学思想事典』の「形而上学」の項の冒頭で、「自然の全体の本性もしくは本質への問い、またわれわれの感覚や近くにとらえられる世界を越えた超越的存在への問い」としている(411頁)。
『広辞苑 第五版』
・「形而上」:「〔哲〕時間・空間の感性形式をとる感覚的現象として存在することなく、それ自身超自然的な、ただ理性的思惟によってとらえられるとされる存在」
・「形而下」:「〔哲〕自然一般・感性的現象、すなわし時間・空間のうちに形をとって現れるもの」
・「形而上学」:「現象を超越し、その背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、存在そのものを純粋思惟により或いは直観によって探究しようとする学問。神・世界・霊魂などがその主要問題」
つまり、形而上学とは、神・世界のはじまり、おわり、霊魂などを探究する学問であるとひとまず言えるであろう。
私なりに考えれば、『論語』に出てくる「天」は形而上学的な概念ではないだろうか。だから形而上学的な概念は『論語』には出現すると思うが、谷沢氏の意図としては、孔子、特に『論語』は、そのことの詮索を教えの中心にしていないということなのだろう。
「当為の法則」について
谷沢氏:論語について、「そこには、近年流行りの、こう考えるべきだという理念や、かくあるべき、かくなすべきだという、いわば「当為の法則」というものはまったくない」(谷沢、前掲書、72頁)
と、言っている。
これに対して、呉氏は次の論語の章句を挙げて、『論語』に「当為の法則」があったと主張する。
・(孔先生がおっしゃった。「私も老いぼれたものだなあ。青年の頃は、夢の中でまで、理想の治者周公の姿を見たものだが。最近は、周公の夢も見なくなった」と(述而・第五)。
・孔先生がおっしゃるのに、「伝統ある”觚”という盃まで堕落して形が変わってしまった。こんなものが盃か。こんなものが盃か」と(雍也・第二十五)。)
「孔子が盃にまで「当為の法則」を貫徹させようとしていることを物語っている」(呉、上掲書、74頁)。
論語の章句以前に、「当為」とは「まさになすべきこと」という意味なのだから、その程度のことは道徳や倫理に少しでも触れられていれば、盛り込まれているに決まっている。しかし、谷沢氏は「近年流行の」、「当為の法則」と言っているから、独特の意味を持たせているのかも知れない。それならばそれで、もう少し説明してから用いるべきであろう。
(3)「古代人としての孔子も見ていない」という点について。
この点については、にわか勉強中なのでコメントできない。
谷沢論語についての感想
とはいえ、今回谷沢氏の本を読んだことで、谷沢氏の論語解説には共感できる点もあった。たとえば次の章句についての解説だ。
・「子曰く、惟だ仁者のみ、能く人を好む、能く人を悪む」(里仁・第三)
谷沢氏:「これは、見せかけだけのしょうもないヒューマニズムのお説教に対する、たいへんきつい反駁だろう」(60頁)
「戦後の日本社会は、いかなる人をも憎んではならないという建前になっている」
「”悪むべき人””はっきり退けなければならない人間”というのは必ずいる。そして、そういう者にけじめをつけない、本当に誠心誠意憎むということを知らない、あるいははっきりと決断力を持って排斥することを知らないといった人間に、人間社会のさまざまな問題を解決し、ことを有効に前へ進めて行く能力があると、期待することができるだろうか。あるいは、誰も憎まず、誰にも正当な批判の眼を向けないという人間を、われわれは、本当に信用することができるだろうか」(61頁)。
谷沢氏は「誰も憎まず、誰にも正当な批判の眼を向けないという人間」と言っているが、それは相手を褒めすぎであって、私は「誰も憎んではいけない」と主張する者は、実は自分の考えに反論する人間を憎んでいると邪推している。私は、そういう感覚で人間を見ている。
一方で、次のような疑問点も私にはある。
谷沢氏
「いろいろな修養書、宗教書、あるいはモラリストの言葉が陥る最大の危険性は、透視することのできない人間の気持ち、精神の持ち方、その純粋なる奥底に対して、このように考えよ、あのようにせよと説くことにある」と述べた上で、
「しかし『論語』は、誰の目にも見えず、どんなことをしても確かめようもないことについては、いっさい語ろうとしない」。また「孔子は外面に表れないもの、すなわち、抽象的なものとしての人間の内面をまるで問題にしていない」(71頁)
しかしどうだろうか。『論語』為政篇に
「子遊が孝のことをおたずねした。先生はいわれた、「近ごろの孝というのは〔ただ物質的に〕十分に養うことをさしているが、犬や馬でさえみな養うということは十分ある。尊敬するのでなければどこに区別があろう。」(金谷治『論語』38頁)
「敬」はもちろん外面に表現もされるだろうが、内面のあり方をも含むのではないか。だから人間の内面も問題にしているのではないか。
補足
・前回の記事では触れなかったが、呉氏は次のような指摘もしていた。
①谷沢氏は『論語の新研究』第一部を歴史・考証篇、第二部が現代語訳としているが、正しくは第一部が歴史篇、第二部が考証篇、第三部が現代語訳であると指摘している(呉、67頁)。
⇒この点は呉氏が正しい。私が古本屋で購入した『論語の新研究』(岩波書店、昭和四十九年)を見ると、「第一部 歴史篇」、「第二部 考證篇」、「第三部 譯解篇」となっている。
②谷沢氏が「宮崎さんは初めて『論語』に通し番号をふった」というが、それは間違いであると指摘していた(68頁)。
⇒私の持っている谷沢氏『古典の読み方』には、上記の記述を発見できなかった。