保田と折口ー幡掛正浩氏「わが呻吟語」ー令和元年8月31日(土)晴れ
神道と京都学派の接点という題で、幡掛正浩氏について書いてから、氏のことが気になってきた。いま手の届く範囲で氏の著作を徐々に読み進めたい。
まずは『私の保田與重郎』所収の幡掛正浩氏「わが呻吟語」という小文を取り上げて見たい。
保田與重郎というのは奈良県桜井に明治四十三年に生まれた昭和の文士であり、『日本の橋』、『後鳥羽院』、『和泉式部抄』、『芭蕉』、『萬葉集の精神』、『南山踏雲録』、『日本に祈る』、『祖国正論』、『述史新論』、『近畿御巡幸記』、『絶対平和論/明治維新とアジアの革命』などの著作をものした。
私が保田のことを知ったのは、坪内祐三氏や福田和也氏らの文章や本のタイトルなど断片的な情報からだったと思う。さすがに私の子供時代に、福田恆存のシェイクスピアの翻訳(新潮文庫)と異なり、新刊書店に保田の本が出回っているということはなかった。
戦後のコラム『祖国正論』や、新撰組と同じ時代に大和で義兵を挙げた天忠組を扱った『南山踏雲録』などを主として大学時代に自分で読んだ。佐伯啓思氏も講演で保田の『絶対平和論/明治維新とアジアの革命』の年表を利用していた。
さて、そういう思い出のある保田與重郎を、「操持を神社界に置く」幡掛氏は、保田の著作集の月報を集めた『私の保田與重郎』(新学社、平成二十二年)の中で保田についてどのように論じているのだろうか。
幡掛正浩氏「わが呻吟語」
話の発端は氏が所属する神社界の機関紙たる神社新報社創立四十周年記念出版物『神道人名辞典』収録人名数四〇〇〇人の内に保田の名が入っていないことへの疑問から始まる。
幡掛氏がここで問うのは、神社界や神道人にとっての保田與重郎の重要性である。
氏によると、保田は紛れもなく神道人なのだが、戦前・戦後を通じて神社界は保田を「忌避」してきたという。古典論を書き、私家版の『祝詞』を出陣する学徒に贈った戦前、「戦争責任」なるものを問う声のあった戦後においてもそうなのだったという。
「人も知るごとく、戦前の神社界で保田が受け入れられたといふ形迹は全く見当たらない」(131頁)。
「では戦後の状況はどうか。これまた不思議、いはゆる神社界(学界をふくむ)での保田処遇は、或いは戦前にも増して冷然たるものがあった」(132頁)。
敗戦で狼狽し「民族教から世界教へ」「天皇非現人神論」などを発表した折口信夫などと比べたら保田の態度には、胸を打たれるものがある。
「変わり身といふものを全く見せぬ保田が、何故神社界のオーソドクシーから忌避されてきたかといふことは、殆ど解し難い」(132頁)。
「彼が戦前に書いた数々の古典論、戦中の作「鳥見のひかり」「としごひとにひなめ」にはじまる戦後の諸論策を読めば、彼が神道人でないなど、どの秤で量れば出てくる目盛りかと言ひたくなる。彼ほどの神道的著作をものした者が、近か昔、同世代を通じてあるかと反問してもみよ」(133頁)。
このような保田が『神道人名辞典』にも名が載せられぬというのは、彼の見ていた世界の深さやその叙述に秘密があると幡掛氏は考える。
「かつて淡交社から出版された彼の『長谷寺』を読んだ某批評家が、「ここには、長谷寺の説明が何もない」と言ったと聞いた彼が破顔して洩らした言葉がある。『あれ程詳しく長谷寺のことを書いた本はほかに無い筈だがな』と。この『長谷寺』を、彼の諸々の「著作」と読み替へ、その批評家を戦前戦後の神社人に擬すれば、彼が何故に『神道人名辞典』にその名を現はさぬかの謎はほぼ解けようといふものか」(133頁。念のため、ここにいう「長谷寺」とは奈良のもので、鎌倉ではない。)
幡掛氏は同じ神社人をも批判して、保田のスケールを讃えている。神社界が保田の真価を見抜けないのであれば、「ヘーゲルからマルクスへ」行ったような京都学派研究者の主流派などにはもっと期待できないのである。「テキスト」を読むだけなら知らんが。
京都学派の宗教学系の人間に学んで、京都学派に連ならなかった人物としての幡掛正浩氏。私は氏を讃える。
こうい課題を発見し、研究し、深めて、その考察を知らせることが私の研究の目標、初志だった。だが今はもうその立場にない。
毎日、時間だけが過ぎていく。このまま人生を終えるのだろうか。
長谷寺・山ノ辺の道・京あない・奈良てびき (保田与重郎文庫)
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さらに自分の課題として、やはり折口信夫の問題が三度浮上してきている。大して掘り下げていないが、関連記事として以下のものがある。
ちなみに「呻吟」とは、うめくことで、「呻吟語」というのは明の儒者・呂坤の著作であり、筆者は未読だが、昭和の陽明学者・安岡正篤氏が、これについての著作をあらわしている。