『内村鑑三所感集』よりー令和元年9月28日(土)
『内村鑑三所感集』よりー令和元年9月28日(土)
*ラグビー日本代表が世界ランク2位のアイルランドに勝利した。こんな時代にも自分の持ち場を守って、打ち込んで、大きく飛躍するその姿に感動した。いつか俺も輝く日が来るのだろうか。いや、来ない。
「余は思想を得んと欲して数巻の書を渉猟せり、しかして何の得る所なかりき。(中略)思想は行為なり。(中略)吾人は思想を探らんと欲して書籍にいたらんよりはむしろ労働につくべきなり」(『内村鑑三所感集』岩波文庫、1973年、135頁)
内村鑑三の言う「労働」とはどのようなものか。DIYみたいのものも含めて、作務みたいなものか。私がしている賃労働みたいなものも含まれるのか。
確かに社会で働くことで人間としての幅が広がったし、お金でできることが広がった。でも芯を失ったという喪失感が否定できない。
内にこもったような「思想研究」、パッとしないようなの人々が集う言論雑誌などの世界にはもう戻りたくない。かといって、実用性だけを求めるのも嫌だ。いまは音楽に気が向いてきているが、やはり内村のような信仰をもちたい。そんな要求に答える言葉が随所に収録されているのが『内村鑑三所感集』である。
『内村鑑三所感集』は、内村鑑三が主筆であった『聖書之研究』に「所感」として発表したものの編集物である。
私は内村の教えの紹介を意図していない。いまの自分に響く言葉だけを拾う。
「人の補助を仰ぐにあらざれば成り立たない事業は神の命じ給うた事業ではない」(82)
*いっそ自分で事業を起こそうかと思うが、そもそも事業化までこぎつけるプランがない。でも、アメリカなんかでも有名無名の人がこの経済社会の中で、信仰を保ちつつ生きている。自分は一つの事業も起こせないでいる。
「純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない。心に多くの辛い実験を経て、すべての乞食根性を去って、多くを祈って、多く戦って、しかる後に神より与えられるものである」(83)
「われらの見んことを欲するものはロンドンでもパリーでもない、われらは天国を観んことを欲する」(85)
*でも生きている間にパリもロンドンも行ってみたい。働いて得たお金で外国に行ってみたい。
(読書の目的について)「人生の秘儀に通じ、罵られるも祝し、くるしめらるるも忍び、そしらるるも勧むるの神のごとき心の状態に達せんがためである」(97、一部漢字をひらがなへ)
以上、何ともまとまりがないが、いまの自分に響く言葉を糧にへばりついて生きていくしかない。