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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

旧長岡藩士の末裔としての山本五十六ー早坂茂三氏『田中角栄と河井継之助、山本五十六-怨念の系譜』(東洋経済新報社、2016年) その2

旧長岡藩士の末裔としての山本五十六早坂茂三氏『田中角栄河井継之助山本五十六-怨念の系譜』(東洋経済新報社、2016年) その2

私にとって、河井継之助は、歴史上の人物だが、山本五十六氏はぎりぎり生きていた感じがする生身の人物である。といってもぎりぎりだが・・・。その山本五十六に幕末の流れが注ぎ込まれているというのは、興味深い。

 

山本五十六

河井継之助の次に登場するのが、山本五十六である。山本五十六(やまもと いそろく)といっても今の若い人たちがどれだけ知っているのか分からない(私も詳しくはないが)。大東亜戦争で戦死した連合艦隊司令長官である。

 

薩長への怨念

山本は新潟・長岡の高野家に生まれた。代々儒官の家柄である。奨学金を得て長岡中学校に進学し、卒業後は広島県江田島にある海軍兵学校に入学した。海軍兵学校に進んだ動機は、本書によると、薩摩主導の海軍をやっつけたかったからだという(105頁。とはいえ106頁には彼の叔父野村貞が海軍の兵隊だったとも書いてある。さらに学費が無料の兵学校を選んだということも理由だろうと書かれてある。)。山本は朝敵とされた汚名を雪ぎ、薩摩に対する無念を晴らしたいという気持ちを持っていたという。

 

明治維新後、長らく家名が断絶していた長岡藩家老の山本家の名を継いで、我々の知る山本五十六となったのである。山本家は、北越戦争当時の当主・山本帯刀(河井継之助の片腕)が会津まで転戦し、最後まで抵抗したので、斬首されたという過去を持つ家柄なのである。

 

皇室崇拝

 山本五十六は、皇室崇拝者である。その理由として、朝敵の汚名を着せられたことが影響しているのではないかと早坂氏は見ている。

「彼は強い皇室崇拝の心を持っていた。これは旧長岡藩が負った"朝敵"という汚名に対する心の傷の裏返しであったろう。大日本帝国への深い帰属意識と、天皇に捧げた忠誠心は、戦後世代の心情と理解を超える」(110頁)

大東亜戦争の中枢人材が奥羽越列藩同盟系の人物について)「共通していたのは幕末期の勤皇思想を引き継いだ天皇崇拝のボルテージの高さである。河井継之助が指摘したように、官軍の名を僭称した薩長を憎み、意趣返しを胸に秘めた敗者の屈折した勤皇競争は尋常一様なものではない」(177頁)

軍政家

真珠湾攻撃奇襲成功のイメージが強い山本だが、早坂氏によると、軍略家というより軍政家タイプであったという。

「彼は真珠湾作戦の成功で傑出した軍略家と記憶される面が強い」(111頁)

 

勉強になる箇所なので、長くなるが引用する。

 

軍略家とは

「陸軍の参謀本部に当たる軍令部では、常に戦争を想定した作戦計画を研究しシュミレートする。海軍としては最大の仮想敵国・アメリカ艦隊と互角に戦い、西太平洋の艦隊決戦で競り勝つ。そのため戦艦中心の大鑑巨砲主義を軍略の土台として、航空機や潜水艦の補助勢力との連携作戦をどうリンクさせるか。夜戦の勝機をいかに求めるか。こうした実戦の机上プランを綿密に練り上げ、有事に備えるのが軍令部の任務であった」(112頁)

軍政家とは

「軍政家の役割は、 米英両国の国力や生産力、技術力を重層的に分析し、多面的に対応できる軍備計画を立案して、必要な予算を確保する。そのためには犬猿の仲の陸軍と折り合いをつけ、国防計画の整合性を図り、大蔵省や外務省と親戚づきあいをして、天皇側近の重臣たちを自家薬籠中に置く配慮も欠かせない」(112頁)。

「軍事政権中枢に求められるのは、軍令部系統の単線運転ではなく、世界情勢全般にわたるバランスのとれた情報量と見識、政治・経済両面の知識と複眼思考である」(112頁)。

「今日の評価で見れば、彼の真価は実践面の作成行動よりも、海軍を航空兵力主体に再編成し、日米和戦に対応できるよう国を動かす軍政家の業績が突出している」(112頁)。

 

世界情勢を見る目を、旧長岡藩士の末裔たる山本はどのように養ったのであろうか。

それは海外滞在経験を重ねることによって得られたものであると説かれる。

 山本の海外経験

早坂氏によると、山本は語学研修目的でハーバード大学に二年間留学している。

その際の別の任務があり、それはアメリカの国力の研究、特に石油事情の調査であったという。(ちなみに、山本の出身地新潟は日本でも数少ない石油の産地である、長岡の東山地帯でも採れたのだと早坂は言う(114頁))。

「彼はハーバードで本場の英語を身につけ、毎日、四十紙からの新聞を読み、石油の文献や資料を渉猟し、油田と製油施設を視察して回った」(114頁)

 

軍人というと特殊部隊のような訓練をしているのだと想像しがちだが、物産会社や商社のような活動をしていたのか。だとしたら、私の現在の経験も今後活きてくる可能性がある。

 

また、海外勤務が8年1か月にも及んでおり、海外情勢を視察できる立場であった。

海外経験から航空機の重要性を悟り、日露戦争における日本海海戦ような大艦巨砲主義から方向転換する。

アメリカ観

山本は日米の国力差を実感していた。彼我の差は、資源、生産力、それに民主主義である。

 

三国同盟

早坂氏が記述する山本五十六像は、新英米派である。したがって、山本は日独伊の三国同盟に批判的であった。

この時、右翼から連日威圧を受け、山本五十六は「誰か至誠一貫俗論を排して斃れて後已むの難きを知らむ」という一文を含む遺書「述志」を書き、身辺整理をしていたという(137頁以下)。

 

「源氏、陸軍、民族派と、平家、海軍、国際派の対決は、前者の勝利に終わった。こうして日本は、山本が命がけで阻もうとした対英米戦争への道に大きく踏み出すのである」(142頁)。

 

 長岡(新潟県

河井継之助のあの時代、長岡城から77年経った昭和20年(1945)の8月、アメリカの爆撃機B29の空爆を受けて、長岡の町が燃えた。

河井継之助山本五十六が陣頭指揮に立った戦争で、結果的にだが、戦火に包まれた。

「当時は戊辰北越戦争の」つらい記憶が生々しく伝承されており、郷土の英雄と悲惨な火炎地獄をリンクさせるのは、自然な思考回路だったろう」(173頁)。

 

 

ここで早坂氏は、旧同盟軍の武士階級が明治から大東亜戦争までどのように過ごしたのか説明する。

明治維新いらい、旧同盟軍の武士階級は権力から疎外され、失意と貧窮にさいなまれた。彼らの一部は泰西のデモクラシー思想に光明を求め、自由民権運動に走るが、その多くは軍人や官吏となって、立身出世の上昇志向を行動の基軸に据える。西欧列強による植民地化を恐れた明治新政府は、日本を急速に西洋化するために、当時の知識層=急武士階級を国家の藩屏に仕立て上げ、旧同盟軍の武士たちも薩長藩閥政権の近代化装置に組み込まれた」(177-178頁)

 

河井継之助が「民は国の本」と唱えたにもかかわらず、富国強兵策は、強兵の方に重心が置かれ、民衆生活の向上や政治参加は棚上げにされて、それが大東亜戦争後まで持ち越してしまったと早坂氏は言う。

 

その総決算のために登場したのが田中角栄なのである。

 

山本五十六連合艦隊司令に興味のある方は、この動画を見てください。

 


決断 第15話 ラバウル航空隊(その1)

 


決断 第15話 ラバウル航空隊(その2)


決断 第15話 ラバウル航空隊(その3)

(その3につづく)