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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

我が貧弱な読書経験、蔵書環境を嘆くー佐和隆光氏の『経済学のすすめー人文知と批判精神の復権』ー令和元年5月3日(金)晴れ

我が貧弱な読書経験、蔵書環境を嘆くー令和元年5月3日(金)晴れ

 

いま何冊か平行して本を読んでいる。佐和隆光『経済学のすすめー人文知と批判精神の復権』(岩波新書、)について扱っているテーマ(STEM教育への違和感、大学教育の実学化を提唱するコンサルタントへの批判、そして人文知の重要性)を興味深く読んでいるが、所々氏の好みというか「党派性」が出てくる箇所には共感できないものがある。例えば、安保法制の「論じ方」、「西欧近代の思想である自由主義・民主主義・個人主義を普遍的かつ不可侵な価値だと考える」(21頁)とだけ言う価値観。

 

自分の本なのだから、自分の趣味や「党派性」を出しても何も悪くはないし、政権批判が悪いと言っているのでは全くない。ただ、人文知と言っている割には「西欧近代の思想である自由主義・民主主義・個人主義を普遍的かつ不可侵な価値」だと言っている点で、自己の依拠する価値観、西欧近代の思想に対する懐疑がないのではないかと思う。こうなってくると佐和氏の言う「批判精神」などは、結局、時の政権を批判(「安倍政治を許さないぞ!」的な)するぐらいのものとなって、共感できないのである。呉智英氏や佐伯啓思氏らと比べて著述家としての魅力に乏しい。

 

・佐和氏が経済学の古典を読むことで、数式混じりの経済学テキストを読まなくとも「基本的な枠組み」を取り入れることができると論じた箇所で、次のような記述に違和感を持った。

フリードマンの『選択の自由』とガルブレイスの『不確実性の時代』を読み比べてもらいたい。偉大な経済学者2人のいずれに共感するかによって、あなたの思想信条の所在が明らかになる」(46-47頁)

このように述べて、経済学による「性格診断」のようなことをし始める。

 

「前者に共感するのなら、あなたは新古典派経済学にくみする、「市場の力」にすべてをゆだねることをよしとする市場原理主義者である」(47頁)。

「後者に共感するならば、あなたはケインズ派であり、「市場の力」に限界のあることを認め、不均衡や不安定を避けるために政府が市場介入することを望ましいとし、弱者に優しい公正な社会を目指すリベラリストである」(同頁。太字引用者)。

 

これでは、誘導尋問である。後者の方には「弱者に優しい公正な社会を目指すリベラリストである」とそのプラスの価値観の性格まで付与した記述をしておきながら、前者については何も書かれていない。

 

これでは不公平な記述であり、「公正な社会を目指すリベラリスト」がその正義感により相手を公正に扱っていないのではないか。佐和氏はしきりに人文知を欠くところに「全体主義」が発生するというが、『神々は渇く』(A・フランス)で描写された世界のようにフランス革命で謳われた理念を疑わず、自己の正義感をもって相手を断罪していくところにも「全体主義」の芽があるのではないのか。

 

誤解しないでいただきたいのは、私はM・フリードマンや「市場原理主義」を信奉しているものではない。私がその言論活動を参照し、一目を置いている藤井聡氏も、その著作や『表現者クライテリオン』誌などを見れば分かるが、M・フリードマンや「シカゴ学派」、「新自由主義」に対して批判的なのである。西部邁氏の弟子筋にあたる「保守」は、アメリカ流の「新保守主義」と異なり、佐伯啓思氏や柴山桂太氏なども「市場原理主義者」では全くない。だから、M・フリードマンが好きと言っている訳ではない(佐和氏は昔、亀井静香氏(と記憶するが)の公共事業のやり方を「悪しきケインズ主義」と呼んでいた新聞記事を見た記憶(間違っていたら訂正します)があるが、その分類で言えば私は現時点で「悪しきケインズ主義」者なのかも知れない。まあ私の場合、そんな大したものでもないけどね。)。

 

というより、そもそもフリードマンの『選択の自由』とガルブレイスの『不確実性の時代』も読んだことがないのである。だから、この記事のタイトルも「我が貧弱な読書経験、蔵書環境を嘆く」なのである。

 

この争いは、「弱者に優しい」などという心の問題なのではなく、「政府が市場に介入」するという点がポイントなのではないか。つまり「政府からの自由」をどう見るのかについての問題ではないのか。佐和氏は感情移入して「弱者に優しい公正な社会を目指すリベラリスト」という言葉を使っているが、アメリカにはもう一つ大きな思想及び生活信条として「リバータリアニズム」というものがある。これは「自由至上主義」などと訳されるだろう。「リバタリアニズム」には種々のバリエーションがあるだろうが、「最小限国家」「最小限政府」への志向性を有し、政治・経済・倫理の領域で個人の自由を最大限重視した思想なのである。

 

弱者に優しい公正な社会」といってもそれが政府介入、税金で行われるのであれば、政府が個人から税を徴収するという仕組みが採られるだろう。そこに個人と政府との摩擦があるだろう。軍隊や警察だけが権力組織なのではなく、税金を徴収するということが権力的行為なのである。

 

そのような政府を最小限に抑え、個人やチャリティーの領域を最大限にしようとするのが「リバータリアン」であろうから、(政府、そして税を通じた)社会福祉を重視する「リベラリズム」ならば、この思想をその経済論だけでなく、政治や倫理の面まで含めて批判に成功しないと、「一人よがり」の議論をいつものメンバーに向けて書いているだけにしか見えないのである。

 

だが、悲しいかな法哲学を専攻していた割に方面違いで、R・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』などの重要な著作を読んでいないのである。それがM・フリードマンらの経済思想とどのように関係するのか、典拠と共に論じることができない。だからこの記事のタイトルは「我が貧弱な読書経験、蔵書環境を嘆く」なのである。

 

今すぐ買いたいが、お金と置き場所に不安があるのである。でもこれを書くことによって自分の貧弱さに気付き、残りの人生を意義のあるものとしたいのである。他の人たちは、ちゃんと読んでいるのだろうか。学者・研究者でもどのくらいの人がちゃんと読んでいるのだろうか。私が喉から手が出るほど欲しい研究・蔵書環境にある人でも・・。

 

・「反知性主義もしくは無教養」(p.37)と並べているが、昨今「ポピュリズム」と関連して「反知性主義」なる言葉が、「ポピュリズム」を支持する側に投げつけられるのだが、「反知性主義」というのは文字通りの意味なのか?

⇒リチャード・ホフスタッターの本を読んでいないし、持ってもいない。だから、「我が貧弱な読書経験、蔵書環境を嘆く」なのである。それにしても、古い人なのにリチャード・ホフスタッターがよく私の問題関心に入ってくるな。何か縁があるのかな。まさかホフスタッターもいま日本でこんな関心をもっている人物がいるとは思いもしなかっただろう。ダグラス・ホフスタッターなら哲学・科学・コンピューターだから時宜にもかなっているのだが・・。

 

憲法審査会でなされた憲法学者の発言について、安倍政権は聞く耳を持たなかったと嘆いているが(32頁)、法学部出身者を論じた箇所では「法律を学ぶことにより、何であれ正当化してみせる能力が身につくことは確かだろう」(40頁)とも述べている。

⇒今回の憲法問題については佐和氏の意見を覆すことは難しいかも知れないが、自分の支持する意見と同じことを主張する憲法学者であっても、「何ごとであれ正当化」することがあるのではないのかと疑ってみる姿勢も必要ではないのか。

 また、法学部出身者について、「何ごとであれ」正当化できるのなら、大したもので、そんな能力なんてない。せいぜい「論証パターン」が確立されていて、これまで生きてきた戦後の常識の範囲内(仮に「常識」に反したとしても、想定内ぐらい)で、物事を不完全に正当化しているにすぎない。買いかぶりすぎである。ありがとう。

 

 

GWもあと4日。恐れていたように、何も前に進んでいない。旅行に行ったら良かったかな。でもお金が気になる。とはいえ、ムダにお金も減っていく。工事の音もうるさく、家にいてもしんどいこともある。

 

とはいえ、お金を稼ぎ早期引退したら、こんな生活になるのだろうかというイメージはできた。ジムに行って、読書して、ブログを書いて・・。でも、死ぬまで安月給で働き通しになるのだろうか。早期リタイアし、悠々自適に過ごしたい。貧乏人にはかなわぬ夢。