体とは病気の容れものー山田無門『愛語』(禅文化研究所、平成26年)より
「体とは病気の容れもの」(山田無門『愛語』禅文化研究所、平成26年、80頁)。
子供の時は、ほとんどの人が元気。いつまでも人生が続くような感じがする。それに耐えられなかった自分がいる。でも大人になったら気がつく。それは。
「体とは病気の容れもの」。
山田無門氏が『維摩経』の維摩居士の言葉を借りて、説いている。居士(こじ)とは、在家で仏教の修行をする者のこと。
「体とは病気の容れもの」。
「あてにはならんものですぞ」。
「いつ仆(たお)れるかわからんもろいものですぞ」。
「ついには朽ち果てるもの、信頼できんものですぞ」。
年齢を重ねると、分かってくる。小学校の教室に、あんなに元気な子ばかりいたことの奇跡を。私もあと20年ぐらいで死ぬだろう。この世に跡形もなくなる。
「この身は池に映る月影のようなもので、因縁によってしばらく現れるだけ」(82頁)。
「この身は山彦のようなもので、実際にあるわけではない」。
「この体は浮雲のようなもので、見ているうちに形が崩れて、なくなってしまいます」。
それまでにひと財産築いたとしても、所詮は朽ち果てる、病気の容器。
たとえ高級外車に乗ったとしても、運転手の方が動かなくなる。
いつかはこの魂の乗り物が朽ち果てる。それが人間。
平家物語の冒頭みたいなもの。昔生きてた人は、みな死んでる。平凡な事実にたいするこの驚き。この戦慄。
「体とは病気の容れもの」
その通り。我々はいつか死ぬ。