Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

紹介 呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫、1987年) 連載③ 谷沢永一氏の『古典の読み方』批判

4.谷沢永一『古典の読み方』の読み方ー

「常識の奴隷」をあげつらう常識の奴隷(57頁~)

この節で呉氏は、呉氏が「俗流教養主義」の代表とする谷沢永一氏の読書論たる『古典の読み方』を批判する。

*個人的には、本節が第3部ブックガイドと並んで重要な箇所であると考える。

 

まず全体は以下の四つに分かれている。

谷沢永一の読書観(57頁~)

・谷沢氏の略歴から、著者像を描写する。それによると、谷沢氏は単に大阪出身であるのみならず、「大阪的なるもの」に価値を置く人物であるということになる(58頁)。

・谷沢氏は、小泉氏の『読書論』がうまく機能しなくなった現状をよく理解している(61頁)。

・谷沢は、「青年の読書」に対して「オトナ=生活者=社会人の読書」を主張しているように見える。しかし、それは大衆社会が成立する以前の近代社会や、前近代社会には当てはまらない。だから谷沢氏こそ「常識の奴隷」ではないのか(62-63頁)。

谷沢永一の“大阪性”(63頁~)

・谷沢氏は読書の「実用性」をしつこいほど主張している(63頁)。

・崩れかけている近代教養に対して、内藤湖南を援用して「大阪性」を主張している(64頁)。

・谷沢氏は「大阪性ー町人的な伝統的実利文化ー食い倒れー下品ではあるが実用的ー実用的な読書・教養」という論理を採っている。だが、「大阪の食い倒れ」などは、存外歴史の浅い通念でしかないし、大阪の実用的な文化を考えるにあたって、「近代日本の帝国主義的なアジア侵略」の結果、住み着いた朝鮮人支那人の文化が混じっているのである(66頁)。それを言わないことこそ「常識の奴隷」なのである。

少し後の文章でも「”食い倒れの大阪”という、わずかこの数十年間に、それも元来は在日朝鮮人の風習だったものが屈折した形で市民権をうけるようになった風俗を、良き日本町人の哲学であるかのように」言っていると批判している(75-76頁)。

 

谷沢永一のウケウリ『論語』(66頁~)

・谷沢論語には、俗流教養主義の古典論・読書論が集約されている(66頁)。

・谷沢論語は「自分の目で確かめ、納得できるものにのみ判断を下す」人のものとは思えない(同頁)。

宮崎市定論語の新研究』に全面的に依拠することはおかしい(67頁)。

 

谷沢永一に見えなかった孔子(71頁~)

谷沢氏が描く孔子像は「矮小な現実哲学に支配」されているとして、谷沢氏の描いた孔子像の検討している。

 

*呉氏による谷沢氏への批判

呉氏による谷沢氏への批判は、以下の三点に要約される。

 

(1)宮崎市定氏の現代語訳に全面的に依拠している点への批判について

呉氏は、宮崎市定氏が独創的な東洋史の学者である点は評価しているが、『論語の新研究』に基づいて、ビジネスマンや初学者に論語を説くことに苦言を呈している。

「独創的な東洋史学者の、いわば余技ともいうべき『論語の新研究』にこうも全面的に依拠して、その上に奇怪な町人哲学を築き上げていいのかどうか」を問題にしている(67頁)。

 

どのような点が問題であるのか呉氏は、次の二点を挙げている(なお、以下で論語の章句の出典は金谷治訳注『論語』(岩波文庫、1999年)により私が調べて付記した)。 

 

例1)「子曰く、群居すること終日、言、義に及ばず、好んで小慧を行う、難いかな」(衛霊公・第十五)

 呉氏:孔先生の言葉に「一日中いっしょにごろごろしていて、話すことが一言でも正義に関することではなく、そのくせ小ざかしいことばかりやる。こんな輩は、どうしようもない」

宮崎氏:子曰く、寄り集まって、一日中がやがやと暇をつぶし、言うことに一言も取り柄がなく、やることといえばつまらぬ人気取りばかり、こんな政府ならない方がましだ。

 

呉氏の批評:

・「小慧」を「つまらぬ人気取り」としている点や、「こんな政府ならない方がましだ」という本来ない語句まで付け加えているのは恣意的である(69頁)。

 

 

例2)「郷原は徳の賊なり」(陽貨・第十三)

 呉氏:孔先生の言葉に、「田舎の人格者(郷原)などというものは、実は、徳の賊である」

宮崎氏:子曰く賞められ者になろうとしている青年ほど鼻もちならぬ偽者はない。

 

呉氏の批評

郷原」という言葉の枠内に、「青年」が含まれ得るとしても、その逆は成り立たない。脱線時評ともいうべき解釈である。

 ⇒宮崎氏の『論語の新研究』は、学業と余技がくっついたクセのあるものであり、それに基づいて町人哲学を構築するのはいかがなものか。

 

だがそれよりも、以下の2点の方が深刻な問題である。それというのも「谷沢永一の解釈でこと足れりとなり、誰も本来の『論語』や孔子に見向きもしなくなる」からである(71頁)。

 

(2)理想主義者、変革者としての孔子を見ておらず、卑小な現実哲学に支配された孔子像を提示している。

まず前提として 儒教を「現実主義」と見る見方について、呉氏は言う。

儒教が現実主義である、とは、しばしば指摘されることである。だが、その「現実」とは「世俗」という意味ではない。ポリティカルないしアクチュアルという意味であり、老荘思想や仏教に対していうのだ。だから、むしろ「非現実主義」の老荘思想が「世俗」を良しとする」(72頁)。

 

谷沢氏は次の2点を中心に孔子を描いていると呉氏は見る。少し長くなるが,

どのような批判がなされているか知る意味で大事なので、引用する。

 

 呉氏による谷沢論語のまとめ

・「『論語』には、進化論的発想=形而上学=当為の法則がない。つまり、歴史・社会はこう進化するという発想がなく、ゆえに、人間は歴史・社会に、かくあるべき・かくなすべきだという当為の法則もない。それは、宇宙論とか性命論とかいう形而上学がないからだ。『論語』にあるのは、人生の対策なのだ」(72頁)。

 

・「普遍的な思考である形而上学がない、それを求めない、ということは、人間の理性や論理が及び得ない「運」というものを認めることである。形而上学的な考え方では、「運」というものを、偶然性という言葉で置き換え、本来ありえないものだと無視する。が、孔子は「運」というものが人間世界に厳としてあることを認め、その中で、人間は生きていくのだ、としている」(72‐73頁)

 

これに対する呉氏の批判。

①について。

「進化論的発想だが、『論語』にあるにきまっているではないか。但、それは、キリスト教の終末思想に影響された過去→未来という進化論ではなく、理想的政治の行われていた周公の時代を規範とする“復活的進化論”である」(73頁)

 (例証)

・孔先生がおっしゃった。「私も老いぼれたものだなあ。青年の頃は、夢の中でまで、理想の治者周公の姿を見たものだが。最近は、周公の夢も見なくなった」と(述而・第五)。

・孔先生がおっしゃるのに、「伝統ある”觚”という盃まで堕落して形が変わってしまった。こんなものが盃か。こんなものが盃か」と(雍也・第二十五)。

⇒呉氏はここから『論語』に「当為の法則」があったと主張する。

 

形而上学について。呉氏は「形而上学」という語の出典が、伝統的な儒教の立場では、孔子が著したとまで言われる『易経』にあり、それを明治時代に「メタ・フィジクス」の訳語として井上哲次郎があてた点を挙げて、論語形而上学がないという主張は成り立たないという(74-75頁)。

 

②の「運」について。

谷沢氏は孔子が運を運として受容する世俗的な孔子像を主張しているが、呉氏は孔子が運を運だと知っていても、ダダをこねているとして、次の章句を挙げている。

 

例証①:孔先生が最も信頼し後世の希望としていた弟子の顔回が死んだ。孔先生は慟哭して言われた「ああ、天、我をほろぼせり。天、我をほろぼせり」と(先進・第九)。

 

例証②:理想の世の至らんことを願ってこられた孔先生が嘆息して言われた「理想の治者が出現する時、鳳凰が飛来し、黄河からは竜神が現れるという。だが鳳凰は飛来しない。そして、竜神も現れない。私には絶望しかない」と(子罕・第九)。

 

⇒故に、呉氏は谷沢氏の描く孔子像が「寸足らず」であり、その『論語』観は「刈り込まれた」ものであるというのである。

  

(3)古代人としての孔子も見ていない。

 後述する山本七平氏の『論語の読み方』を批判した場面に書かれているのだが、

「夢に周公を見ず」という嘆きは、理想主義者の嘆きであると同時に、呪的世界に生きている人の声でもあるという(85頁)。

それについて展開して、

日本共産党の不破委員長が、「夢にマルクスを見ず」と嘆くことはないだろう。それは、日本共産党の路線がマルクスから離れているからばかりではない。よしんば、マルクスから離れていないとしても、周公のようにはマルクスは夢の中には現れはしない。しかし、孔子にとって、周公は、本当に現われていたとも考えうるのではないか」(85頁)。

と言う。

*ここらへん私にはピンとこなかったが・・・。これを機に勉強し、想像力を働かせて自分なりに理解したい。

 

そして可能性としてであれ、呪的世界の転換点に生きた孔子を描いた白川静氏の『孔子伝』を評価し、『初期万葉論』に呪的世界の再現が見られるとしている。白川の『孔子伝』は呪的世界に生きる孔子像を可能性としてのみ描いたが、マンガ家・諸星大二郎孔子暗黒伝』には、何一つ事実は描かれていなくても「真実」が描かれているとして評価している(86頁)。

  

以上が、呉氏による谷沢永一氏の『論語』理解批判の概要である。

 

④に続く。