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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

大森曹玄翁の大河 六 ミシェル・フーコーとの問答

大森曹玄翁の大河 六 ミシェル・フーコーとの問答

 「フーコー博士との問答」

先日、本屋に行ったら大森曹玄翁『禅の発想』が復刊されていた。

私は講談社現代新書に入っていたものを持っていたが、何か付け加わっていないかと思ってパラパラ見てみた。

 

すると「フーコー博士との問答」という小見出しが書いてあった。そうそう思いだした。凄い組み合わせだな(たしか吉本隆明氏とも対談していたはず。そっちの方は分かるのだが・・)と思いながらも、これまで何も書けずに来た。今も何も書けないのだが、とりとめのない駄文を自分のためだけに書いておく。

 

ミシェル・フーコーは、泣く子も黙るフランスの思想家である。私は高校時代に中山元フーコー入門』(ちくま新書)で知ったからスタートダッシュは良かったのだが、その後全く手つかずのまま現在まで来ているという情けなさ。しかもその『フーコー入門』も本棚のどこにあるのか分からなくなっている。あらま。(15分後ぐらいに見つかりました。あの断捨離を生き延びていたのだ。)

 

すごい組み合わせだと言うのは、わが国でフーコーは、「反権力の象徴」とも言うべき位置で語られているように見受けられるし、そのような陣営の人々によって積極的に受容され、出版されている。

 

他方、大森曹玄翁は大東亜戦争敗戦を受けて、名実ともに僧侶となった人物であり。その前半生は、人生の目標を山岡鉄舟に置き、頭山満に薫陶を受け、維新運動をして、幅広い知識と交流があった人物なのである。

 

 

大森曹玄翁の『禅の発想』(講談社現代新書、昭和五十八年)

「私の僧堂(山梨県上野原の青苔寺)へ、二人のフランス人が訪ねて来ました」(164頁)。

 

一人は在日フランス大使館文化参事官、もう一人が「禅僧のような風貌の哲人」ミシェル・フーコーだったという(同頁)。

 

フーコーは挨拶を終えると曹玄翁に質問を浴びせたという。

フーコー:「ヨーロッパの学問、教育、社会的習慣すべてが”心と体は別”という考えだ。私の禅体験では(中略)、心と体は一つであった。この体験は間違っているか?」(164頁。(中略)した部分は、曹玄翁が花園大学の行事で忙しく、フーコーが参禅していたことを知らなかった旨が書いてある。)

 

曹玄翁は禅の伝統に則り、すぐさま肯定するのではなく、「答えの正否を確かめる質問」たる「拶所」(さつしょ)をしたという。その際、以下の問答がなされたという。

 

大森:「ヨーロッパの考えは誤りである。東洋の学問、就中、禅では心身一如である。あなたの体験は正しい」(164頁)。

 

フーコー:「ヨーロッパでは、”自然と人間は別”、人間は自然を征服する主体という考え方である。私の体験では人間と自然は一体だったが、これはどうか?」(164‐165頁)

 

大森:「人間が自然を征服するとは、人間の増上慢だ。ヨーロッパの考え方は、たかだがここ四百年の神を見失ったところから出た人間観に過ぎない。バクーニンが『神と国家』でいっているように、人間は神の座から神を引き摺り下し、替って自分が坐った。これは誤った人間中心主義である。そのために自然は汚染し、逆に人間が死滅に瀕するるような状態に今日陥った。そこで近代文明の誤りに気づき始めた一部の人ー生命科学者たちはしきりと”生態系”とい言葉を使うようになった。やはり人間も生態系の中において初めて生きられる存在であって、これが正しい学問であり、知識である」(165頁)

大森:「あなたの体験は正しい」(同頁)

 

このような問答があった後で、曹玄翁は「文明の転換の原理としての禅」を唱える。

 

フーコー博士ほどの人が、西欧文明に対する日頃の疑念を率直に口にし、文章に著わし、問いかけ、「文明の転換」を求めて東洋思想に近寄ってくることは、大変すばらしいことではないことではないでしょうか。つまり近代ヨーロッパの人間観、自然観、他をかえりみることはなく、長い間、独善を恣にしてきました。ところがフーコー博士のような著名なヨーロッパの哲学者によって、ヨーロッパの間違いが間違いとして、あえて指摘されるようになったのです」(165-166頁)

 

 

曹玄翁の見解には、「ヨーロッパ」とひとくくりにしているなどと批判があるだろう。

オリエンタリズムとかっていうのに乗っかってしまってる!」、「思想史的におおざっぱである!」「東洋という言葉は、西洋との対比でしかない!」、「フーコーの真意がどこにあるのか、もう少し確認すべきだ」というような批判がなされるだろうことはすぐに思いつく。

 

単なる「知識学問」から言えばそうなるのだろうか。

 

とはいえ、私は青白いフーコー主義者で反権力論を説く現代思想系の人々よりも大森曹玄翁の、剣・禅・書で鍛錬し、人生の目標を山岡鉄舟に置いて、戦前には維新運動、戦後には禅僧となった翁の人物に信を置く。

 

 

 

禅の発想

禅の発想

 

 

追記:平成31年3月24日(日) 「M・フーコーと禅」( 『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅶ 知/身体』筑摩書房、二〇〇〇年、所収。219頁‐228頁)

  昨晩、上の記事を書いて、今日の午前中に大学図書館に行ってきたら、この本を見つけた。全10巻だったが、「身体」の話をしていたから、この巻を手に取ったらありました。まさかこの歳になってフーコーの発言録を読むことになるとは思わなかった。もう騒がしそうなものはいいのに。

 

「M・フーコーと禅」

<書誌的事項>

元々の記事はクリスチャン・ポラック氏により「M・フーコーと禅ー禅寺滞在記」というタイトルで、おそらく仏教書などを多く出版している春秋社のPR誌と思われる「春秋」の一九七八年・第197号に発表されたものであるという。

 

<来日経緯>

当時、ミシェル・フーコーは、コレージュ・ド・フランスの教授であった。フーコーはフランス政府の文化使節として、1979年4月日から29日まで20日間日本に滞在したという(219頁)。

フーコーは一方通行の講演よりも、対話を望んだという。このあたり崇められている存在でありながら、自分の目で確かめる姿勢を保持している。

そして4月23日から三日間、大森曹玄師が師家を務めていたと思われる山梨県苔寺で禅体験を積んだという。

 

フランスの大使館文化参事官のチェリド・ボセ氏と春秋社編集部とともに青苔寺を訪れたのだということ。

 

<対話の内容>

大森曹玄翁とのみ対話しているのではなく、「僧」や「修行僧」と書かれた人とも結構会話している。専門の僧ではなく、在家の「居士」と呼ばれる僧もいたかも知れない。

詳しくは、本書を見てもらうしかないが、私なりに気になった要点を記すと以下のようになる。

フーコー

フーコー:最初の来日についての想い出がほとんどない。それが残念である。

・日本という国は、外面上きわめて西洋と近い国であるが、同時に神秘的にも見える。

・仏教の哲学にも興味があるが、実践・修行・作法にも興味がある。

・自分の仕事はせいぜい100人ほどの興味を喚起できればよい。

ハイデッガーよりも名前が言いやすいから、広まったのだろう(笑)。

・「書いた時から、人は語ることの所有者ではなくなります。むろん、だれかがあなたを批判したり、あなたが間違っていると論じたりする場合、あなたのものでないあ考えとか表現とかをあなたに帰するような時には、あなたは言いたかったことを主張してもかまわないでしょう。でも、その他のばあいは、私の読者の自由は、絶対に尊重されねばならないと考えます」「言説とは、無限に変形しるう現実です」「ですから、書いた人間は、書かれたことの利用法に関して、命令する権利はないのです」(221頁)

  (以下、作成中)

 追記:(平成31年3月28日)「哲学の舞台」(『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅶ 知/身体』筑摩書房、二〇〇〇年所収、155‐183頁)

1978年4月22日に行われた演劇や仏文が専門の渡辺守章氏(放送大学でちらりと見たことがある)との対話「哲学の舞台」に、フーコーの禅修行の話が少しだけ触れられている。

渡辺氏が

「なんでも禅宗の寺に籠られるという話ですが、やはり、日本の宗教的実践における<身体>の問題があるからですか」(181頁)。

と問いかけたのに対して、フーコーはまず当時、彼が取り組んでいた課題の説明を通して禅寺に行く動機を語る。

「私が今行っている西洋世界における<権力の技術>、つまり<身体>ならびに<個人>を対象とする<権力の技術>の分析を通じて、私は、キリストの規律というものに、一般に西洋における<個人性>と<主体=主観性>を形成したものとしてのキリスト教に、重要な役割りを与えることになってしまったわけですが、そこで私としては、このようなキリスト教の技術と仏教の技術を比較できたらと思うわけです」(181頁)。

 フーコーは、キリスト教の修道生活は「仏教のそれのほとんど引き写し」であると主張するものの、近い出発点を持つ両者がなぜ異なる結果を生み出すのか比較したいというのである。つまり、キリスト教の修道生活は<個人性><主体=主観化>、仏教の修道生活は<日個人化>であるとフーコーは把握しているのである(181頁)。

 

そして、禅寺に行く理由として、①キリスト教の修道生活とは異なった結果を生み出す仏教の修道生活の「技術」が見たいということと、②「日本や極東」でこのような課題に興味がある人と対話したいからであるとのこと。

 

なるほど、フーコーが仏教の哲学もさることながら、習慣や作法も見たいと言っていたことの意味がより見えてきたが、いかんせんフーコーの「身体論」や「規律」「訓練」系の話、本でちらりと見ただけで、よく分かっていないから、掘り下げられないや。

 

<この対話から学べること>

・曹玄翁もフーコーも、「体と心が別物である」という見解への批判を通して、「身体」のことを考えていたこと。

・『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅶ 知/身体』には、フーコーらしく病院・性・権力などいろいろな主題の文章が収めれらているが、その中でもイラン「革命」の話が気になった。フーコーイラン革命ポーランドの「連帯」に対して支援活動をしていたそうだ(川本隆史氏『現代倫理学の冒険』創文社、1995年、「プロフィール●現代の倫理学者たち」欄参照。ごめん、他に本がなかったので・・・。)。

 

曹玄翁に対して想定される批判には、「東洋の範囲はどこまでか!西洋によって規定された「東洋」という概念に無自覚に乗っかってしまっている!」「西洋の克服を東洋などに頼るのは安易な発想だ!」というものが考えられる。範囲や境界線が明確でないからといって中心地や中心的な発想がないことにはならないと考えるから、地理的な批判は私は有効ではないと思うが、しかしイランという文化をどう考えればよいだろうか。ホメイニ氏によるイラン「革命」などを曹玄翁はどう考えていたのだろうか。このあたりの問題を考えるには、大川周明の方が良いのかも知れない。

 

この時期のフーコーに対してはマーク・リラが、ハイデガーコジェーヴェ、デリダフーコーカール・シュミットらの政治関与を批判的に扱った著作であり、かつ私のフェイヴァリットな『シュラクサイの誘惑』日本経済評論社、二〇〇五年)という本の中で、

「一九七八年にイラン革命が勃発したとき、フーコーはまたしても政治のなかに「限界経験」というセイレーンの呼び声を聞いてしまった。しかもこの呼び声は、結果としてこの国を壊滅させ、人民を無慈悲で狭量な聖職者支配のもとにおくことになったのである。その年の秋に、かれはあるイタリアの新聞の特派員として二度までもイランを訪れ、革命の「酩酊」や「集合的意志」の暴力的発露に狂喜しながら、その指導者たちの「政治的精神性」を褒めちぎった」(175-176頁)

 

と批判を加えているが、欧米人のイラン革命評価とは別に、自分なりの評価を確立したい。そもそも呉智英のデビュー作『封建主義者かく語りき』でも、冒頭にホメイニ師に対する「欧人女性記者」によるインタビューを引き合いに出しているいるのである(呉智英『封建主義者かく語りき』史輝出版、1991年。原著は1981年出版)。これは原著が1981年という「イラン革命」と近い時代に出版されたからというのではなく、「イラン革命」と「革命」の名で呼ばれている事件が、思想的に深い問題を投げかけているからである。自由・平等の道に、とりわけ個人の自由が進展するれば、それだけ社会が進歩したの言えるのかどうか。

 

途中になるが、明日からまた仕事なので、一旦休憩。

曹玄翁とフーコーが禅でつながり、もはや現代思想などには興味を失った自分が、この本と結び付いた。こういうときがうれしい。もっと書いていたい。思考がつながっていくのがおもしろい。こういうことを仕事にしたかったが、できなかった。

明日のために、生活の糧のために、もう寝ます。一旦休憩。こういう仕事がしたかった。

 

平成31年3月28日)

「禅の普遍性」

フーコーは対話の中で曹玄翁に、「禅の実践と仏教の信仰と実践の総体とを分つことが可能か否か」(224頁)と問うている。それに対し曹玄翁は「禅は仏教から出てきた」が「”禅”という名を捨ててもいい」といい、「私どもは禅を仏教の一部とは考えません」とも言う(225頁)。「からだと心とが一つになるという体験、自分と外の世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なもの」だからであるという。

曹玄翁が 「私どもは禅を仏教の一部とは考えません」と言っていたなんて、知らなかったなー。本当かいなー。

まあ無理に考えるならば、今日の「マインドフルネス」をどう捉えるのかというような問題にも、少しだけ感度を高めてくれるだろうか。

 

「東洋」について

曹玄翁も『禅の発想』で、また「僧」も『思考集成』で「東洋思想」と語っていたが、これは我田引水かも知れない。

対話が行われたのは1978年だと思うのだが、前述のM・リラの『シュラクサイの誘惑』

 では、1968年以後のフーコーの実践的活動についてカウンターカルチャー「ドラッグ、コミューン生活、、実験的なセックス」を賛美していた(リラ・前掲書、171頁)というから、神道儒教・仏教・道教・禅・老荘などの中でも、お堅い思想の方ではなく、体制に組み込まれないようなタイプの物の考え方やライフスタイルに接近していたのではないかな。だとすると、曹玄翁が目指していた方向とちがうのではないだろうか。まあ、もう少し考えてみたい。

(以下、作成中)