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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

仮想通貨技術を使ったICOは「ほぼ詐欺」!?ー日経新聞 2018年7月19日(木)

日経新聞を読み終わったら処分しているが、重要だと思う記事はEVERNOTE化するか、ブログに書いてから処分する。

 

日経新聞 2018年7月19日(木) 7面・金融経済欄金融庁20年 当事者に聞く」

「地域金融、優劣の可視化を」 元・金融庁長官 佐藤隆文氏 

 

*1週間ほど前の記事だが、重要な発言であると思うので、メモしておく。

 

リーマンショック当時金融庁長官であった佐藤隆文氏が、インタビューに答えている。全体は企業統治や地域金融の話をしているのだが、その内、フィンテックや仮想通貨についての発言のみメモをしておく。

 

フィンテックのすべてが良いわけではない。宣伝に惑わされてはいけない。

➝さもなくば、いかがわしいビジネスにお墨付きを与えてしまう。

 

・個人的見解であると断った上であるが、「(仮想通貨技術を使った資金調達の)ICOはほぼ詐欺だという認識は定着しつつある」と言う。

 

・仮想通貨について。「仮想通貨も本源的な価値のないものを価値があると思い込んで売買し、根拠なく価格が上下している」「交換業者のビジネスは相当危うい」「システムも内部管理体制も抜け穴だらけで、資金洗浄の手段として使われたり、ハッキングの対象になったりしている」。

 

他にも、地域金融についての見解があるのだが、フィンテックや仮想通貨についての見解が興味深かった。

 

とりあえず、メモのみ。

 

フォーブスのこういう記事も見つけたので、興味のある方はどうぞ。

forbesjapan.com

 

 

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気になった本ー牧野邦昭氏・著『経済学者たちの日米開戦』(新潮社)

未読であるが、気になった本を紹介したい。

 

日経新聞の2018年7月21日(土)の25面読書欄「この一冊」に井上寿一氏の書評は牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦』(新潮社)であった。

 

 

昭和14年(1939)、陸軍の秋丸次朗中佐が組織した秋丸機関に、当時の経済学者らが集い、日米開戦についての研究をしたという。

 

報告によれば「確実な敗北」と「万一の僥倖」による勝利というシナリオがあったという。そのことが両論併記されていたという。

*僥倖(ぎょうこう)とは、幸運のこと。

 

秋丸機関が提示すべきであったプランを提示している点でも、本書は注目に値するという。そのプランとは「三年後でもアメリカと勝負できる国力と戦力を日本が保持できるプラン」であり、そのことにより日米開戦が避けられたという議論である。

 

評者の井上氏は、そのようなプランを選べば、戦争は回避できるが、戦前の体制も残るという問題点があるという。一方、万が一勝てる見込みを選択したら、実際の歴史のように「想像を絶する戦禍」に見舞われるが、その代わり「平和と民主主義が訪れる」という。そしてそのことが我々一人ひとりが考えるべき問題であると結ぶ。

 

未読の段階であるが、「総力戦研究所」が日米開戦の結果をシュミュレートしていた猪瀬直樹氏の著作『昭和16年夏の敗戦』(世界文化社、1983年 。⇒私が持っているのは中央公論新社、2010年のもの)のようなものかと思った。日本が敗戦に至るいくつかのシュミレーションが当時存在していたことが分かる。

 

 

著者の牧野氏には、中公叢書の一冊として『戦時下の経済学者』(中央公論新社、2010年)、「評伝・日本の経済思想」の一冊として『評伝・柴田敬』(日本経済評論社、2015年)の単著があるということである。

 

柴田敬氏と言えば、室田武氏の著作『物質循環のエコロジー晃洋書房、2001年)で経済学領域の学者でありことを知っていたし、公職追放となった京都大学の教授であったこと、資本主義とエコロジーについて先駆的な業績があることなどが書かれてあったことを読んだことはあった。その名前に興味はあったのだが、詳しく調べる時間もなく、そのままにしていてた。

 

著者の牧野氏は1977年の生まれということなので、学者としては中堅といったところだろう。まだ読んだわけではないから、何とも言えないが、この年代の学者が、柴田敬氏のような学者に興味を示すこともおもしろい。専攻は、「近代日本経済思想史」とのこと。

 

評者の井上氏が、「戦前体制」を戦争突入時の体制に代表させるようなイメージで書いている点に違和感がある。「戦前」といっても明治時代から大東亜戦争敗北まで、明治以降の体制のもとでもさまざまな時代相がありえたのだから、戦争突入時や戦時中の日本を「戦前体制」として代表させ、戦後と対比させるべきなのだろうか。

 

さらに、「想像を絶する戦禍に見舞われる。その代わり戦後は平和と民主主義が訪れる」というが、明治以降、外国の文化文物に触れつつも、自国の文化を基礎にして、よりよい制度や仕組みをつくり上げていこうと志ざしていた人々が少しずつ改良していった可能性を無視している点で違和感が残る二者択一である。

 

私はその二者択一で物事を考えたくない。

 

 

 

経済学者たちの日米開戦:秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く (新潮選書)

経済学者たちの日米開戦:秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く (新潮選書)

 

 

コンビニ・バイトでレジの計算が合わない時ー日経2018年7月20日(金)夕刊5面

本日の日経の夕刊に重要な法律相談が出ていた(日経2018年7月20日(金)夕刊5面「ホーム法務Q&A」)。

 

これから先の人生、コンビニのアルバイトをする確率は低いとは思うが、可能性がないわけではない。コンビニだけの話しでもない。まわりの人にアドバイスする際にも役立つと思うので紹介しておく。

 

●「レジの計算合わず給料から天引き」⇒「労基法に基づき違法」

 

【相談】結局、このタイトルにすべて表されているのだが、記事によると、大学生の娘がコンビニでアルバイトをしており。レジの計算が合わないと「連帯責任」と称して、全アルバイトの給料から均等に「罰金」として天引きするというケース。

 

【回答】志賀剛一弁護士による(以下は、その要約)

労働基準法は「賃金は通貨で直接労働者にその全額を支払わなければならない」と定めているので、税金、社会保険料以外を給与から天引きすることは原則できない。

罰金を給与から天引きすること自体違法

・計算が合わないレジの差額分を請求された場合

民法上「自分の故意または過失によって他人に損害を与えた場合、加害者は損害賠償の背金を負う」・

ー店側が特定の店員のミスで発生した、損害金額を立証できるのであれば、その差額分だけ、特定の店員に請求できる可能性はある。ただし店側の立証の難易度は高いだろ。

ーただ防犯カメラで金額まで特定できるのか不明。

ー1人のミスとも限らない。

ー誰のミスか特定できなければ、過失が立証できていないということなので、「連帯責任」と称して、不足額を店員全員になすりつけることは許されない

 

・仮に、防犯カメラなどで店員の過失が立証できた場合、その店員が全額を立証できないといけないのか?

全額になるとは考えにくい

ーそれは、「業務遂行上の通常のミスから生じる損害は、労働者を指揮命令する立場にあり、労働者を使用することから利益を得ている使用者が負担すべき」であると日本の判例は考えているからです。

ー使用者からミスをした労働者への請求は「損害の公平な分担という見地から信義則上相当と認められている限度」においてのみ可能。

ーだから、ミスした差額全額がその店員の負担になるとは考えにくい。

 

・たとえ、店側があらかじめ「レジの計算が合わない場合、店員間で損失を負担する」という念書や誓約書を書かしていても、労働基準法上では無効となる。

 

私自身の経験から言うのだが、上司には職場のことしか知らないひとがたくさんおり、自分の会社が労働法などの法律に従わないといけないことを忘れていると見受けられるひとがたくさんいるのである。会社内部の知識しかないのである。そんなひとが部下に「人権教育」だの「コンプライアンス」だのを説いているのだから、バカげている。でもこれが常態なのだ。

 

自分が経営者になってもこんなことはしてはいけないし、アルバイトする人は知っておかなければ泣き寝入りさせられる知識である。だから是非覚えておいてもらいたい。まわりの人にも伝えてあげて欲しい法律知識だったので、日経の記事を紹介しました。

 

 

大森曹玄翁の大河 五 「源泉」はどこに・・・。

●「源泉」はどこに・・・。

前回、鈴木大拙氏が合気道開祖植芝盛平翁に言ったとされる言葉を引用した。

そして、偶然この時代、この国に生まれたとはいえ、私たちの文化の「源泉」を大事にしたいと私は書いた。そのために大森曹玄翁の生き方、書くものを見るのであると書いた。

とはいえ、その「源泉」にはどのようにして辿りつけるのだろうか。ここにひとつの問題がある。 

 

大森曹玄翁とほぼ同じ時期に活動した人物として葦津珍彦(あしづ うづひこ)氏がいる。葦津氏は明治42年(1909)の生まれであり、平成4年(1992)にお亡くなりになった。福岡にある筥崎宮の社家の生まれであり、戦前は東條内閣にも批判的な志士的活動で知られ、戦後の神社本庁の設立へ重要な役割を果たした人物である(神社新報社編『神道人の書』、神社新報社、平成十年、211頁参照)。曹玄翁は明治37年の生まれであり、平成6年に遷化されたから、曹玄翁と活動時期がほぼ重なる志士的人物である。

 

私が十代の頃、呉智英『読書家の新技術』の読書案内の項において、葦津氏の西郷隆盛『永遠の維新者』でその名を知った(もっとも知ったのは名前だけであって、いまのように再刊されていなかったので、すぐ手に入らなかったし、当時はまだ洋楽好き全盛の時期だったから、読みたいと思うほど「成熟」していなかった。いまも人間的には大して「成熟」していないが・・。手に入れたのは、二十歳を超えてから古本屋によってである)。

 

その葦津氏の『葦津珍彦選集(三) 時局・人物論』神社新報社、平成八年)を読んでいたときに気になる一文を見つけた。この本には一群の人物論が収められているのだが、「小野祖教大兄の追想」と題する一文の中で、戦後すぐの神道に対する風潮に関連して述べたのが以下の文章である。

 

「当時は「神道を犯罪視する」暴論が全社会に満ちてゐた。そのころ国際的にも有名だった、仏教学者鈴木大拙博士が、頻りに神道抹殺論を書きまくって、神社人をおびやかした。長谷総長が、小野さんに講義討論を望むと、早速おしかけて猛反論をした。この論戦は故人の生涯の想出らしかった」(「小野祖教大兄の追想」、642頁)。

 

「残念だが、そのころのことだし録音記録はない。小野さんは論破したと満足してゐたが、国際的な老碩学と、少壮学者の討論が、「論破」の程度がどうだったが、私は必ずしも保証しない」(同頁)。

 

「しかし神道指令の法解釈については、少壮の小野さんが断然勝ったのは確かだ。時代の権勢情勢を有利と思って安易に放言する碩学よりも、権力に圧せられて苦心研究に努力してゐる少壮学者の法理論が、一対一の場合に勝のは、世の通則といっていい」(同頁)。

 

「その後の老学者の度を越した放言が慎重、穏やかになったやうだ。この類の神道防衛討論は、熱心な神道人が到るところで努力したが、小野さんがその中の雄の一人だったのは確かだ」(同頁)。

 

小野祖教氏についても興味があるのだが、ここでの難問は、一般的イメージとしては、禅を通じて欧米世界に日本の文化を紹介した人物とされる鈴木大拙氏と、戦後の神社神道憲法・歴史に関する言論活動をした葦津・小野氏ら神道を奉ずる人々が対立しているという点である。

 

鈴木大拙氏と神道との対立については、平泉澄氏の『先哲を仰ぐ』錦正社、平成十年)という講演録などが収められている文集にも現れている。

 

平泉澄氏と言えば、一般には「皇国史観」という言葉で知られているだろうが、私はその著『少年日本史』を読んで以来、氏を重要な人物であると考えるに至った。『少年日本史』は、私が子供の頃から求めていた日本史像に一番近いものであったからだ。

 

昭和51年に伊勢で神主に向けた講演「神道の本質」にその問題は登場する。この時、平泉氏は数え82歳であったという(559頁。解説)。昭和51年と言えば、私が生まれる以前の年代であるが、これまでに大人になってからでも伊勢には3回ほど行ったと思う。

 

「私は北国の山の中の神社の神職の家に生まれました」と自己紹介する(452頁)。

平泉澄氏は、福井県白山神社の神主の家系である。ちなみに私は普通のおっさんです。

 

「自分の果たさなかつたこといろいろございますが」と氏がいまだ果たせなかった課題を挙げる(453頁)。それは何だろうか。

 

神道に対し、或いは神社に対し、神職に対し、いろんな反対意見、或いは侮蔑がございます。西洋哲学の方面より、或いは東洋哲学の方面より、その他より、いろいろな非難がございます」(同頁)。

 

神道とは何であるか、ありや何事だ、かふいう声が聞こえるのであります」(同頁)。

 

「なかんづく鈴木大拙氏が ー御承知のとほり西田哲学の、何といひますか西田さんの親友として有名な学者でありますが、神道といふものはなんとかならぬものか、かう言つて、神道霊性のないこと、単なるお祭りさわぎに過ぎないといふことを痛罵してゐる」(同頁)

 

「これに対して私は、まだこれにこたへる機会なくしてきてをりますので、この機会に、もつぱらこの問題について皆さんとともに考へたいと思ふのであります」(同頁)

 

と言い、このあと2日間にわたり、和気清麻呂菅原道真源実朝明恵上人(ただし仏教・華厳宗)、北畠親房山崎闇斎渋川春海、橘曙覧、真木和泉を挙げ、「誰一人として安穏な生活を送つた人がいない」(501頁)ということを説き、鈴木大拙氏の非難を甘受するいわれはないことを明確に主張する。

*80代を超えて、誠実な姿勢だと思う。

 

鈴木大拙氏といい西田幾多郎氏といい、日本の文化や思想について興味を持ち、何らかの感触を得たいと思うものなら、意識せざるを得ない人物だろう。一方で、葦津珍彦氏や平泉澄氏らも日本の文化や思想を伝えてくれる人物なのである。明治以前からの思想も含めていまに伝えてくれる人物なのである。

 

大森曹玄翁の志士時代の交友からすれば、葦津氏らに近い立場だったのかも知れない。一方、翁の『臨済録講話』(春秋社、昭和58年。ただし、原著『臨済録新講』は昭和41年に黎明書房から発行)には鈴木大拙氏の序文がついている。(昭和41年は臨済禅師の、正当千百年忌に当たっており、鈴木大拙氏の推薦ならばという「下心がなかったとはいえない」と「あとがき」に書いてある)。大森曹玄翁は、独自の立場に立っていたのだろうか。

 

このような対立を解きほぐし、私たち日本人とは何者か、どのような理想の下に生きるべきかを明らかにしたかった。いまの私にできることは限られている。だが、曹玄翁のことを書くことで、その探求の証を残したい。

 

追記

小野祖教氏について。小野祖教氏について知っているのは、国学院大学の教授であることと、神社本庁の講師であることである。また神道系の出版物を出していることも知っている。葦津氏の上掲書によれば、民族的な情熱を持った哲学者・松永材氏の弟子とのこと。

 

かつて通訳案内士の試験を受けた際に、TUTTLEという出版社から出ている”Shinto:The Kami Way”という本を購入して少し読んだぐらいである。ちなみにこの試験は、落ちたので、もう撤退したのだが、最近の「インバウンド」などで、同書の需要は上がっている可能性もある。 

Shinto the Kami Way

Shinto the Kami Way

 

 

一方、鈴木大拙氏は斎藤兆史氏の『英語達人列伝』によれば、「日本仏教のなかで、およそ禅ほど海外に知られた教派はない。それは禅そのおのの魅力もさることながら、鈴木大拙という一人の卓越した仏教学者によるところが大きい」(斎藤兆史『英語達人列伝』中央公論社、2000年、78頁)。

 

もっと適切な本もあるだろうが、手元にある本のなかから差し当たり同書の一文を紹介した。

 

(まとめ)

私が探求していることは、日本人たる私自身の探求に加えて、外国人が「日本」や「日本人」とは何かを探求する際にぶつかる問題かも知れない。だが、ヒントとなるものが見つからずにやり過ごし、人生を終えていくかも知れないような問題である。

 

私の探求には特徴がある。日本の「源泉」の探求と英語(ないしは「グローバル」なもの)とのリンクである。ブログを書いていて見えてきた。自分の源泉を掘り下げる過程で、英語にも出会うのである。

 

残りの人生を有意義に過ごしたい気持ちはある。だが、どのようにすればいいのだろう。仕事についてもっともっと考えないといけない。一日中興味のない仕事に時間を奪われたくない。しかし、自分の探求だけで生計を立てていくことはできない。でも、残りの人生を、いまのような仕事(というか作業)に奪われたくない。そのためにTOEICとかを受験するのだけど、ちっとも勉強せずに、上のようなことを考えている我。

 

(つづく)

 

 

大森曹玄翁の大河 四  なぜ曹玄翁をみるのか

大森曹玄翁は前半生は志士として、後半生は禅僧として過ごされたが、剣・禅・書の大家であった。当然、武道関係の逸話もある。

 

合気道植芝盛平翁の伝記合気道開祖 植芝盛平伝』出版芸術社、平成十一年)に、曹玄翁が盛平翁の姿を評した言が載せられている。

 

「ある集まりの席に、小柄な老人が端座されておられた。全身どこにもリキみがなく、無我無心というほかない穏やかさながら、一分の隙もない。今どきかほどの坐り方をされる武道家といえば、かねて話にきく植芝翁以外にはあるまいと直感した。はたせるかなそうであった」(同書、231頁~232頁)。

 

この言葉は曹玄翁が秋月龍珉師に語った言葉として書かれているのだが、もう一人秋月師に関連して、鈴木大拙師の名前が登場する。盛平翁に紹介して欲しいと道場まで訪れた鈴木師。合気道開祖に関して、次のような言葉を残している。

 

「植芝さんの体験は禅をおやりになったとはいわないけれど、あれは確かに『東洋の悟り』だと思う。君は植芝さんのおっしゃることを筆記しておき、機を見て現代の新しいいインテリが理解できるように取り継ぎをしてさしあげるがよかろう。合気道はおそらく、近い将来”世界の合気”になるにちがいない」。

 

「その時、民俗信仰である神道の特殊なことばをもって思想的裏づけをすることは、たいへん困難であろう。植芝さんにとってはあるいは迷惑かもしれんが、大乗仏教哲学、とくに禅の哲学をもって合気の思想的裏付けをすることが、合気のためにも、禅のためにもよいのではなかろうか。なぜならば、哲学的にみれば合気と禅とは結びつくものであるからだ」(同書、231頁。太字引用者)。

 

実際の植芝盛平翁は禅の経験者でもなければ、禅にさほど興味を示さなかったという(230頁)。

 

しかし、「民俗信仰である神道の特殊なことばをもって思想的裏づけをすることは、たいへん困難であろう」という大拙師の言葉は、日本の思想や哲学に興味関心がある者にとって極めて象徴的な言葉であろう。

 

それというのも、我が国、日本の思想や文化は、常に中国や欧米の受容的立場に立たされて来たからである。家族形態や制度に至るまで受容的立場に立たされている。「民俗信仰」とまでは言わなくても、もっと身近な価値観や判断を英語による議論などで語ることは難しい。また「東洋」を強調すれば、「東洋ってどこ?」「単に西洋との対比でしょ?」とそれ自体反論しにくい言葉が返ってくるだろう。しかし、その反論以上に「東洋」に魅了されるものがある。

 

欧米から方法論を学ぶだけでなく、「欧米ではすでにやっている」、「先進国でこの制度が残存しているのは日本だけ」、「すでにフランスではこうやっている」等々。どうしてそれが議論の決め手なるのか分からない言葉がそのまま通用することもある。いや公共的な議論の正しさを決める基準(規準?)自体が、欧米で発達してきた価値観であることが多い。少なくとも「建前」の部分では。

 

私が大森曹玄翁に惹かれるのは、心身の学びを通じて、曹玄翁が目標としていた、山岡鉄舟のような人物が、現代にもいたのだ、存在したのだ、最近まで生きていたのだ、という確信が持てるからである。

 

たまたまこの時代、この国に生を受けたに過ぎない自分であるが、しかし、我が国の「源泉」から汲み上げられた思想を尊重して生きて行きたい(あと何年生きていられるのか知らないが・・)。その意味で、鈴木大拙師、植芝盛平翁は興味深い偉人であり、神道大乗仏教など死ぬまでには何がしかを得たい「源泉」なのである。

 

とはいえ、私は学術的なレベルでの研究からは戦力外であるし、大学図書館に通える時間やお金もたまにしかない。もちろん大学だけが、「源泉」に触れられる場所ではないことは分かっている。むしろそれとは逆の人々が多いぐらいかも知れない。

 

お寺に入る気力もない。

家庭、経済の事情などでさまざまな制約がある。

 

残りの人生で「源泉」から汲みだすには、どう生きていけばよいのだろうか。深く悩むのである。

 

 

合気道開祖 植芝盛平伝

合気道開祖 植芝盛平伝