大森曹玄翁は前半生は志士として、後半生は禅僧として過ごされたが、剣・禅・書の大家であった。当然、武道関係の逸話もある。
合気道の植芝盛平翁の伝記『合気道開祖 植芝盛平伝』(出版芸術社、平成十一年)に、曹玄翁が盛平翁の姿を評した言が載せられている。
「ある集まりの席に、小柄な老人が端座されておられた。全身どこにもリキみがなく、無我無心というほかない穏やかさながら、一分の隙もない。今どきかほどの坐り方をされる武道家といえば、かねて話にきく植芝翁以外にはあるまいと直感した。はたせるかなそうであった」(同書、231頁~232頁)。
この言葉は曹玄翁が秋月龍珉師に語った言葉として書かれているのだが、もう一人秋月師に関連して、鈴木大拙師の名前が登場する。盛平翁に紹介して欲しいと道場まで訪れた鈴木師。合気道開祖に関して、次のような言葉を残している。
「植芝さんの体験は禅をおやりになったとはいわないけれど、あれは確かに『東洋の悟り』だと思う。君は植芝さんのおっしゃることを筆記しておき、機を見て現代の新しいいインテリが理解できるように取り継ぎをしてさしあげるがよかろう。合気道はおそらく、近い将来”世界の合気”になるにちがいない」。
「その時、民俗信仰である神道の特殊なことばをもって思想的裏づけをすることは、たいへん困難であろう。植芝さんにとってはあるいは迷惑かもしれんが、大乗仏教哲学、とくに禅の哲学をもって合気の思想的裏付けをすることが、合気のためにも、禅のためにもよいのではなかろうか。なぜならば、哲学的にみれば合気と禅とは結びつくものであるからだ」(同書、231頁。太字引用者)。
実際の植芝盛平翁は禅の経験者でもなければ、禅にさほど興味を示さなかったという(230頁)。
しかし、「民俗信仰である神道の特殊なことばをもって思想的裏づけをすることは、たいへん困難であろう」という大拙師の言葉は、日本の思想や哲学に興味関心がある者にとって極めて象徴的な言葉であろう。
それというのも、我が国、日本の思想や文化は、常に中国や欧米の受容的立場に立たされて来たからである。家族形態や制度に至るまで受容的立場に立たされている。「民俗信仰」とまでは言わなくても、もっと身近な価値観や判断を英語による議論などで語ることは難しい。また「東洋」を強調すれば、「東洋ってどこ?」「単に西洋との対比でしょ?」とそれ自体反論しにくい言葉が返ってくるだろう。しかし、その反論以上に「東洋」に魅了されるものがある。
欧米から方法論を学ぶだけでなく、「欧米ではすでにやっている」、「先進国でこの制度が残存しているのは日本だけ」、「すでにフランスではこうやっている」等々。どうしてそれが議論の決め手なるのか分からない言葉がそのまま通用することもある。いや公共的な議論の正しさを決める基準(規準?)自体が、欧米で発達してきた価値観であることが多い。少なくとも「建前」の部分では。
私が大森曹玄翁に惹かれるのは、心身の学びを通じて、曹玄翁が目標としていた、山岡鉄舟のような人物が、現代にもいたのだ、存在したのだ、最近まで生きていたのだ、という確信が持てるからである。
たまたまこの時代、この国に生を受けたに過ぎない自分であるが、しかし、我が国の「源泉」から汲み上げられた思想を尊重して生きて行きたい(あと何年生きていられるのか知らないが・・)。その意味で、鈴木大拙師、植芝盛平翁は興味深い偉人であり、神道、大乗仏教など死ぬまでには何がしかを得たい「源泉」なのである。
とはいえ、私は学術的なレベルでの研究からは戦力外であるし、大学図書館に通える時間やお金もたまにしかない。もちろん大学だけが、「源泉」に触れられる場所ではないことは分かっている。むしろそれとは逆の人々が多いぐらいかも知れない。
お寺に入る気力もない。
家庭、経済の事情などでさまざまな制約がある。
残りの人生で「源泉」から汲みだすには、どう生きていけばよいのだろうか。深く悩むのである。