松浦光修氏による西田幾多郎の援用についてー平成31年4月7日(日)晴れ
1.問題提起
寄り道をしながら、松浦光修氏の『明治維新という大業』を読み進めている。
通勤中は、ドストエフスキーの『悪霊』(やっと下巻の中盤らへんまで進んだ)やその時々に読みたいものを読んでいるから、なかなかまとめきれていない。
松浦氏は『明治維新という大業』の中で、「革命」と「維新」の区別を論じた際に、西田幾多郎による昭和天皇への御進講を「卓見」と評して、好意的に引用している。(私の本棚にはもはや西田哲学関係のものが残っていないので、松浦氏の本から引用する)。
「歴史は、いつも過去・未来を含んだ現在の意識を持つものと、思います。ゆえに私は、わが国においては肇国の精神に還ることは、ただ古に還ることだけではなく、いつもさらに新たな時代に踏み出すことと存じます。復古ということは、いつも維新ということと存じます」(御進講草案)(松浦・上掲書、291-292頁)
そもそも松浦氏は15年前ぐらい神武天皇実在論を説いた「二千年目の小夜嵐」(『やまと心のシンフォニー』国書刊行会、平成十四年所収)でも、西田幾多郎の同じ言葉を引用していた(西田幾多郎の昭和十六年の御進講とのこと。25頁)。それだけ松浦氏が西田幾多郎のこの言葉を重く見ているということだろう。それはそれでいいのだが、『やまと心のシンフォニー』を読んだ15年ぐらい前の私は、素朴に感動したはずだ。あの日本が生んだ哲学者たる西田幾多郎が御進講をし、「維新」について論じている。そう思って感動したはずだ。だが、それから15年ほどたったいまではむしろ白けている。西田幾多郎は、松浦氏が属する「維新派」の権威として持ち出すべき人物なのだろうか。西田幾多郎が言いたかったのは、当時言いたかったのは我が国の「維新」の精神などであろうか。10年ぶりぐらいに松浦氏の新著に接して、疑問を感じた。
2.西田幾多郎の政治的立場
この節では、植村和秀氏『「日本」への問いをめぐる闘争ー京都学派と原理日本社』(ミネルヴァ書房、2007年)を参考にして述べる。この本が好きだし、上述の通り、自宅には、もはや西田哲学に関する文献がないからだ。
第五章「京都学派対原理日本社」に「西田幾多郎の実践」と題した小見出しがある。ここで植村氏は、西田が御進講を通じて日本が「世界史的立場」を体現すべきであると主張したという。国家主義も他国を侵すような国家主義ではなく、それぞれの国家がそれぞれの位置を占めるべきだとする。個人主義は時代遅れだが、個人を否定する全体主義も過去のものである。そして、皇室を中心に創造的な新しい時代を築くことを主張する。
「西田は、日本が皇室を中心に創造的であり続けてきたことを強調し、今また再び、創造的に「新ナ時代ニ踏ミ出ス」ことを希望する」(植村・上掲書。265頁)
「皇室中心」ならば、松浦氏と一緒じゃないかと思われるかも知れないが、西田幾多郎は常識的な明治人として言っただけではないのか*1。また維新の意義にしても、今の私にとっては、西田幾多郎が「復古主義」的な思想や勢力を嫌って、「意味の争奪戦」をしているようにしか思えない。復古主義者、日本主義者、国家主義者、全体主義者らを嫌いつつも、彼らが好んで用いるような言葉を、より「開かれた」、自由で、創造的な意味を付与しようとしての事に見える。出典のないまま恐縮だが、西田幾多郎は学習院での乃木希典にも好意的ではなかったし、大東亜戦争にも批判的で、とても松浦氏の諸著作となじむ政治的考えや思想を持っていたと思えない。もはや関連書を捨ててしまって引用できないから、無責任と言われれば甘受するが、西田哲学の研究書や解説書などを読めば分かるはずである。一部、西郷隆盛や雲井龍雄などを褒めた発言があったはずだが、それにしても何をどれぐらい言いたかったのか分からない。
もちろん西田幾多郎自身の真意は、本人に尋ねる他ないのだが、私が知っている限り、西田哲学の原典を読解できる人たち(あくまでも「読解ができる人たち」だが)の主流は、
(1)西田幾多郎は、日本主義的な言葉を用いても、そこに「開かれた」意味を付与するという「意味の争奪戦」をやっていた。だから、西田幾多郎の言葉をそのまま用いて、日本賛美の方向に持っていくことも、体制的な言辞を吐いたなどと言って批判することも、的外れなのである。
(2)とはいえ、それでも大日本帝国や戦争に協力したのなら、その点は「飲めない」として、批判するのである。
これが大体いまの西田哲学の研究者の主流の見解である。
*追記(令和元年5月1日)
西田哲学研究主流の言説を引用するために、本を買い直したので補足しておきたい(大事なお金をこんなことに使ってしまった葛藤があるが・・・。思索が進むのなら止むを得ない。新たな出会いがあったと思う事にしよう。)。
藤田正勝氏は岩波新書『西田幾多郎』(2007年)で、以下のように解釈して見せる。
「「学問的方法」や「日本文化」をめぐっての西田の講演や著作のなかで目につくことのひとつに、「皇室」や「皇道」という言葉がしばしば用いられていることがある。(中略)この文章だけを取りだしてみると、西田が時代の流れに埋没してしまっているかのような印象を覚える。そして、実際この時期の西田の「皇室」や「皇道」への言及を根拠にして西田の戦争への荷担がしばしば指摘されてきた」(173頁)。
まず、大東亜戦争時に「皇室」や「皇道」を用いている人物は「時代の流れに埋没」した人だとマイナス評価を与えた上で、
「しかし、先の「日本精神」の場合と同様に、われわれはここでも文脈のなかで西田の言葉を理解しなければならない。「日本精神」の問題に触れたとき、西田が、時代のなかでスローガンとして用いられた言葉を取り上げる場合、その意味をそのまま前提するのではなく、そこに自分の立場から積極的に意味内容を付与しようとしていたことを指摘した。「日本精神」について論じるのであれば、かくかくの意味においてでなければならない、という仕方で西田は論を展開している。上田閑照の表現で言えば、戦争を推進しようとした人たちとの「意味の争奪戦」がそこでなされてと言ってよいだであろう」(173-174頁)。
西田幾多郎は戦争を推進した人たちに批判的であり、西田の「真意」を抜きにして、「日本精神」「皇室」「皇道」などの表現を自己に援用するのは勘違いなのであることを示唆している。松浦氏はこのような点について、どう考えるのだろう。
だから、西田幾多郎を援用して、皇室や日本を語ることには慎重にならざるを得ないし、私などはもはや西田幾多郎が生き返り、その真意が確かめられない以上、彼の言葉を用いて日本への信仰や愛を語ることを警戒している。ただし、私のこのイメージは、現在の研究に相当影響受けているからかも知れない。だから、私の方が間違っている可能性はある。いや、西田幾多郎はそんな人物ではないというのならば、逆に教えてもらいたい。 それによってイメージが変えることができるのならば、私にとっては逆に幸せなのだから(だから鹿児島の友人を批判しているのではないよ。念のため・・・。)。
だが、おそらくそのようなことにはなるまい。佐伯啓思氏の西田論はまだ読んでいない。読めば重要なことが書いてあるのだろうが、西田哲学の解釈については原典を読むことに長けた(だけの)人や、概念学問に長けた(だけの)人には、「学術的」にはかなわないだろう。佐伯氏の思想が素晴らしくても、西田哲学を援用して語ることは難しいのではないだろうか。
結局、「皇国史観」の平泉澄や「大日本言論報国会」の徳富蘇峰らを仰ぐ文章「二つの史魂」を発表する松浦氏、徳富蘇峰のことを平泉氏の視点を借りて、「日本の学界・言論界の良心」(『やまと心のシンフォニー』国書刊行会、平成十四年所収、198頁)と言う松浦氏が、大東亜戦争時の徳富蘇峰のことを死ぬほど嫌いだった西田幾多郎((西田幾多郎は昭和二十年五月十日、七十五歳の時の日記に「国民が徳富の如き指導者より頭が進んでいるのだ」(上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波文庫、1996年。311頁)という人物の文章を引用するのを見る時、まだ乗り越えねばならぬものがあるなと感じるのである。それはどのような方向にであろうか。
閑話休題:友人からの意見
このあたりまで書いたところで、文中に登場する友人よりメールをいただき、すぐさま電話で会話した。
友人によると「自分は西田幾多郎の言葉を使って、日本への信仰や愛を語ったつもりはない」「西田幾多郎の倫理学説を日本思想史上に位置付けて、それを批判的に検討したいというのが自分の課題」との旨の内容であった。
内心、友人の反応が気になっていたから、メールをくれてうれしかった。
私としては、一緒に学んだ割には、その点突っ込んだ話をしたことがなかったかも知れない。ブログの記事はあくまでも、その著作を好感をもって読んできた「維新派」の松浦氏が「岩波文化人」の一人のような西田幾多郎の言葉を用いて語ることに問題はないかということを書いたものであった、と説明させてもらった。
さらに、友人が日本倫理思想史の相良亨氏などの著作に親しんでいたこと、西田幾多郎の「日本文化の問題」などのテクストは問題のあるものだとみなされている現状などを話し合った。
もっと長く話していたかったが、翌日仕事があるからと、ひとまず電話を切った。
でも嬉しかった。研究室にいたころには頻繁に話す機会があったが、お互いそれぞれちがう道を歩んでいるから、哲学や日本思想の話をすることなどなかった。久しぶりにこういう会話が出来て良かった。ありがとう。
3.西田幾多郎よりも西晋一郎を重視するー野口恒樹氏「過去一世紀のわが国倫理哲学の歩み」(下村寅太郎編『我汝哲学の立場』南窓社、1989年)
奥付によると、野口恒樹氏は1901年に福岡に生まれ、1926年に京都帝国大学文学部哲学科を卒業している。そして後半生は、皇学館大学の教授となった人物である。私が野口氏を知ったのは、個人主義を根拠としない人間観を探求していた時の文献探索においてである。それ以来古本屋で探し、主要な著作はいまでも保持している。
本来著者が序言を書くべきかも知れないが、このとき野口氏は既に「重病の床」にあったという。編者の下村寅太郎氏の序言によれば、野口氏と下村氏とは旧制第三高等学校で同期で親友だったらしい。そして同じ時期に京都大学に進学し、西田幾多郎から学んだというのである。二人は、「学問的志向」も「関心」 も異なっていたが、「和して同せず」で長年の親交を保ってきたという(私も友人とはこうありたいものだ)。
著者の野口氏のことを下村氏はこう評する。
「いかなる境遇においても、いかなる時運に遭っても、いささかも動ずることなく、「吾が道を往く」操守を堅持した人物であつて、当代稀な人格である。長き交友を享受した所以である。」(1頁)。
これは大東亜戦争の敗戦の時のことを言ったものだろうか?
「西田先生の許にありながら西田哲学派に連ならなかつたこともその面目を示すものである」(1頁、強調引用者)。
思想内容はもちろんのこと、所属、発表媒体などから考えて、私は野口氏のことを「民族派」の哲学者だと考えている。「普遍的」な学問の哲学(えっ?ほんと?急進的な人たちの方がそれだけでも「哲学的」と見られがちじゃないのか。)と民族派的な情熱は両立するのかという疑問を持つ人もあるだろう。だったら、「民族派 meets Philosophy」(哲学に出会った民族派)でもいい。
下村寅太郎とともに西田幾多郎のもとで学び、戦後皇学館大学の教授となった野口氏。松浦氏と同じ皇学館大学の教授たる野口氏は、我が国の倫理思想をどう見ていたか。
野口氏は、井上哲次郎、西田幾多郎、西晋一郎を比較して、西晋一郎の重要性を説くのである。
論文「過去一世紀のわが国倫理哲学の歩み」
昭和五十二年、『藝林』誌発表されたもの。
序
序において野口氏は、伝統思想維持の観点、西洋哲学移植の観点、西洋哲学を媒介として伝統思想を発展させる観点の三つの観点を設定する。それぞれの代表者として、井上哲次郎、西田幾多郎、西晋一郎を挙げる。
しかし、井上はドイツ哲学の輸入者でもあるし、西田幾多郎は禅や親鸞などの仏教をも掘り下げて、哲学を展開した哲学者なのだから、この分類は単純にすぎるとも思われるだろう。この点については、野口氏もつぎのように断る。
「この様な三者の位置づけに対しては恐らく、異論が出ることであろう。即ち井上哲次郎を単に伝統保守の人となすことに対しては、井上は若くして独逸に留学し、ドイツ哲学を学ぶ必要を説き(以下、略す)」(140頁)
「西田幾多郎は単に西洋哲学を輸入移植するにとどまらず、その思想の根柢は東洋特に仏教の禅並びに浄土教にあり、この根柢の上に西洋哲学を消化して独自の哲学体系を立て、初めて日本哲学を独立せしめたその人ではいか(以下、略す)」(同頁)
野口氏は当然このような反論を予期しているし、その意見も認めてはいる。しかし、こと倫理学や実践哲学の領域においては、当てはまるのであると主張する。
一.伝統的道徳思想維持者としての井上哲次郎(p.140~)
明治以降の伝統道徳思想の問題、とりわけ維持の方向で考えた場合に、欠かせない人名として、野口氏は三人挙げる。
西村茂樹、井上哲次郎、吉田熊次である。吉田は井上の弟子にあたる。吉田の問題意識があらわれている文章を紹介する。明治七年(1874)に生まれた吉田は、明治四十年に欧米留学より帰国する。そして、教育に情熱を燃やす吉田は地方の教育者に接し、ある問題に直面することになる。それは教育勅語によって教育をしている教員たちが、自分の信奉しているのは自我実現や人格実現という考え方であったという問題である。そういう考え方と徳育上の教育勅語との関係をどう考えたらよいのかという問題に直面するのである。
吉田は東大において教育学や教育史を担当していたが、担当科目のほかに国民道徳や教育勅語の倫理的基礎づけに関する著作を著わしていたという。
「国民道徳護持派の強みは、国民教育と云ふ現実の実事を常に眼中において、これを背負ふがゆえに西洋の倫理説に対決せんとする所にあり、単に真理の普遍性や論理の斉合性だけでは、片附けられないものに直面している」(144頁)。
二.倫理学を含む西洋哲学移植者の代表としての西田幾多郎(p.145~)
この節では、西田幾多郎の哲学的な思索力やインパクトを評価しながらも、その倫理学説の貧弱さ、とりわけ国民道徳に対する態度を『善の研究』第三編「善」を題材に批判される。
「西田幾多郎は「善の研究」の後、倫理道徳については「芸術と道徳」の著があるのみでである。この書における道徳論は極めて一般的であり、固より国民道徳に関するものではない。従って西田の道徳論或いは倫理学は、結局「善の研究」の第三編善は西洋伝来の「人格実現」説であるから、倫理道徳或いは実践哲学の観点から見る限り、西田哲学は西洋哲学の受容移植はであると見ても、あながち不当ではないであろう」(149頁)。
(吉田熊次の明治四十三年の著『教育的倫理学』に触れた後で)「翌明治四十四年に」刊行された西田幾多郎の「善の研究」がその第三編に於て西洋の倫理学説のみを論評して、我が国の道徳に全く触れる所がなく、且つ自らは人格実現説を自己の立場として主張してゐるのみで、吉田熊次の所謂本邦固有の道徳と西洋倫理思想との融和問題」
和辻哲郎について
また、昭和十二年の論文「普遍的道徳と国民道徳」で国民道徳の重要性を説いた和辻哲郎も、敗戦を機に自己保身を図り、国民道徳を捨ててしまったと批判される。
「占領軍司令官マッカーサーの峻厳なる占領政策を見ては、君子も豹変して筆を曲げざるを得なかったのである」(150頁)。
「和辻は日本のフィヒテではなかった。やはり昨日はこちらの岸に咲き、今日はあちらの岸に咲く浮き草の類でしかなかった」(150頁)。
「国民道徳」に対する態度のみならず、「間柄」や「人倫」などを概念化して論じた和辻の倫理学を視野に入れる必要があると思うが、敗戦の際に、どのような態度で「国民道徳」を扱ったかという点が野口氏においては重視されている。
三.西洋哲学を媒介として伝統思想を発展させる代表としての西晋一郎(p.153~)
前節までにおいて、著者は井上哲次郎らの国民道徳派と西田幾多郎のような西洋の倫理思想依拠派とに分け、この二派が明治・大正・昭和を貫いていた対立であると指摘し、いまやその綜合が必要となってくるのである。その綜合者として野口氏が考えるのが西晋一郎である。今日、一部の人を除いて、その教えがほとんど知られていない。
この節では、『普遍への復帰と報謝の生活』、『東洋倫理』、『国民道徳講話』、『忠孝論』などを題材に西晋一郎がわが国の国民にとって、重要であると説くのである。
西晋一郎の初志は、我が国古来の教訓と西洋の学問の論理性や厳密性を統合したいという気持ちである。道徳に関する「和魂洋才」とでも言うべきだろうか。
4.縄田二郎氏『西晋一郎の生涯と思想』(五曜書房、2003年)
私はこの本を2010年2月26日(金)14時35分に大学生協で購入した。レシートが挟まっていたから分かるのである。懐かしきわが大学時代。自分の好きな思想を、気の赴くままに読んでいた良き時代。それに比べて今は低空飛行。
私が西晋一郎のことを知ったのは、成人してからである。この間は、琵琶湖の東・長浜町の国友一貫斎や国友鉄砲の里を調べに行ったが、20代後半の私は、琵琶湖の西にある陽明学者・中江藤樹のことを調べに、安曇川にある中江藤樹記念館などに行ったのである。そこで「西に西あり」として、西田幾多郎と並び称された哲学者として、西晋一郎という人がいたということを知った。西は、中江藤樹を顕彰する活動をしていたから、ここにつながりがあったのである。とはいえ、「西に西あり」というコピーはお世辞にもかっこいいとはいえなかったが、その後何かのきっかけで西晋一郎の存在(思想はまだ詳しく知っているとは言えない)が私にとって重要なものになってきたのである。
著者について
著者の縄田氏は、明治43年山口県宇部市に生まれた。昭和9年に広島高等師範学校を、昭和17年に広島文理科大学哲学科を卒業し、翌20年には研究科を修了している。職業としては、小学校や高校の教員から、短大や広島女子大学の教授を歴任している。西晋一郎は著者にとって、大学時代の先生にあたる。
伝記的事実
西田幾多郎も西晋一郎も北條時敬(ときゆき。数学が専門であるが、教育者として名を残す。今日では西田幾多郎を支援したことで記憶されている。)の薫陶を受けていたことが分かる。西田幾多郎だけが北條の期待を背負っていた訳ではないのである。
西哲学
「西哲学は、現実具体の実践倫理を究明しようとしたものであり、抽象的観念を体系化する理論哲学を樹立することは、西の念頭になかった」(4頁)。
*そうなると、いまの哲学研究者が研究しにくいかも知れない。とはいえ、フィヒテ研究でも有名な隈本忠敬氏に『西晋一郎の哲学』(溪水社、平成7年)という論文集があり、哲学的な内容を扱っている。溪水社は、広島県にある出版社。
「実践とは、現実具体の家族・国家その他の人倫関係と相即不離のものである。こういう考え方で成立した西哲学が明治国家と運命をともにするのは、歴史の必然であるともいうべきであろうか」
*同じ「人倫」という言葉を重視していても和辻以上に和辻なのが、西晋一郎なんだろうか。
第三章 高等学校・再学時代の西(16頁~)
・大学で哲学を修める者は、予科のとき数学が必修科目とされていたという(17頁)
*私個人は語学はともかく、習った以上の数学はできなかった。
・学生時代からカントおよびその学派を研究し、哲学に必要な論理的思索方法を学んだ(22頁)
第四章 北條時敬の感化(26頁~)
・北條は、乃木将軍を尊敬していたという(40頁)。
*このあたり西田幾多郎と比較する必要がある。
・北條の本領は禅にあったともいう(42頁)
・西晋一郎は、北條から広島高等師範学校に推挙されて、11年間、影響を受け続けた(48頁)。
・「このころ北条校長は、西教授に、倫理学の授業は、西洋倫理学だけではなく、たとえば水戸学によって国民道徳の講義をするように指示し、そのとき西はあまり気が進まなかったと述懐している」(50頁)。
第五章 西と西田の関係(56頁~)
本章は、同じ北條時敬に薫陶を受けた二人、西田幾多郎と西晋一郎を対比している点で非常に興味深い。
・西田幾多郎の鈴木大拙宛書簡:soul experience
・「西田哲学は、精密な論理的思索による真理の追究であるのに対し、西哲学派、はじめから先哲の教訓に真理があると信じ、その真理を現実具体的に体験することを究極のねらいとするものである」(60頁)
*そうなってくると懐疑を特徴とする意味での「哲学」と呼ぶべきかが問題となる。だが、哲学とはそもそも何なのか。
・西晋一郎には16歳年少の恒次郎は、大正十三年に西田幾多郎の家族が病気になったとき来診を乞われたという(63頁)。
・(西の思索について)「最初から聖賢・先哲の教えに真理があると信じていたので、結論は、思索以前にあったといえよう」(64頁)
*こうなってくると現在の哲学研究者や哲学好きからは、「哲学じゃない」と言われそうだ。
・「西は、理論を無上のものとしないで、理論よりも実践の真実を求めた」
・「西哲学に理論がないのではなく、その論理が儒学、特に宋学の発想法に従っていることが多いため、漢文の古典になれない人は、西の文章を読んでその意味が十分に把握できないことが起こるのである」(65頁)。
・西田は政府の教学刷新評議会の委員に就任したが、当時の文教政策に呆れていた(67頁)。
・当時、簑田胸喜らが西田を攻撃し始めたので、西は西田が誤解されていると考え、西田に教学刷新運動に積極的に参加を求めるため、高橋里美に橋渡しを依頼していたという(69頁)。
・西田は立場が違ってからも、西には一目置いていたが、現実の認識が不足し、文教政策に関与しすぎている西に対して憤慨し、厳しい言葉を発したという(71頁)。
・西に対する興味を失った西田だが、昭和十八年ごろに『世界開闢即肇国』という西が国民精神文化研究所から昭和九年に刊行したパンフレットを持っていないかと知人に訪ねている(73頁)。とはいえ、(この本が対象かどうかは分からないが)西の説くところには納得できないとしている(74頁)。
・「西田が大東亜戦争(当時の用語)に対して、はじめから疑惑をもち、軍部や文部省の動きに対して絶えず、批判していたのに対して、西は、国家の方針に全面的に協力し、君に忠とは、善悪の彼岸にある絶対的なものとしたが、この思想と実践についても別に考察を要する。戦後の日本の思想界では、西哲学が正面から相手にされないのは、ある意味で自然であるが・・・」(78頁)
*松浦氏が西田幾多郎の言葉を引用するならば、大東亜戦争やこれに至るまでの文教政策に対する批判などを考慮に入れた上で、何らかのコメントをしてから、読者に語るべきだと思う。そうでなければ、「保守論壇」の読者が「あの世界的な哲学者西田先生も愛国心に溢れた人物であったのだ・・・」などと説きださないとも限らない。
・「西に晩年の論述は、もはや哲学論ではなく、西田が理論的に不完全という教学説そのものになっている」(88頁)。
*だから縄田氏は、西を単なる哲学者ではなく教学の師と見るべきだと説くのだが、今日「哲学者」として私などが想像するのはどうしても「駒場のソクラテス」大森荘蔵氏やいろんな意味で「天然の哲学者」ともいうべき永井均氏らである。ああいうむき出しの思考を「哲学」と呼んでしまう。だが、彼らの本を読んでいても人格的感化を受けない。人格的感化と思索力を併せ持った人物。日本への愛と普遍的な思索力を持った人物。そういう人物が出現することを、私は待望している。佐伯啓思氏の講演会でも質問した事だが。そういう人物が次世代から現れることを熱望する。日本人の中からそういう人物が出て欲しい。私はそのような人物ではなかった。歴史に名を残さずに、くたびれ果てて死んでいくだろう。5年先にどうなっているかも分からない。低空飛行が取り柄の男である。だが、単にむき出しの思索力があるだけではなく、日本への信を持った人物であり、日本人に人格的感化を及ぼす人物が出てきてほしい。これは単なる政治的な愛国心というレベルでなく、宗教的なメシア待望のような心の叫びなのである。思索だけすごくてもダメだ。人格がともなっていなければ尊敬できない。いかに抽象的な思索力や概念操作力、読解力だけ凄くてもそれは、凄くないのであると言いたい。メシアを待望している。
第六章 西の研究生活(92頁)
西洋哲学について
・西は、プラトンの全集を繰り返し読んだという(96頁)。
「西は、ソクラテスについて、その知恵の愛求以上に法に殉じた精神の方に重点をいていた」(136頁)。
このあたり、今日の哲学研究者からすれば鼻白む思いなのかも知れない。私もプラトンの対話篇を自分の思索力や討議力を高めてくれる著作と思って読んでいたが、あの死を周辺的なエピソードとして受け取り、なんだったら世間の誤解の典型例とする理解から脱却できていなかったが、西のこの純粋な受け取り方に改めて感心した。
・「西は、はじめから東西の道徳思想の相違を自覚しつつも西洋倫理学の理論の精密さに派、大いに興味をもつとともに近代学術としての意義を認めていた」(92頁)
・マルクス主義系の文献については、近づかなかった。この点で西田幾多郎とは異なると縄田氏は言っている(97頁)。
第七章 学長問題(106頁~)
割愛
第八章 明治国家に殉じた哲人(116頁)
未完の全集について
西晋一郎自身の本が、新刊本として見ることはほとんどない。ほとんどというのは、弟子筋と思われる木南卓一氏らによって復刊されたものは見かける。易や近思録の講義などである。でも、倫理学の本筋(といっていいのか)の本は、見当たらない。その辺はどうなっているのだろう。
「直筆の講義案がコピーされているが、これらのおびただしい資料が私にとっては最大最良の哲学の案内書である。これらはすべての資料が整理されて、中断されたままになっている『西晋一郎博士全集』として発行されるのは、五十年・百年先の事になるかも知れない」(126頁)と縄田氏は言っている。
このあたりが西田哲学研究(あくまでも「研究」のであるが)の隆盛と比べて、西晋一郎の研究がほとんど見られない一因であると思う。最近の本にしたって、資料環境に恵まれているか、西を直接知っている人たちがいる広島系の人たちの研究である。
それでも西晋一郎の本を読みたい人はどうしたらいいだろう。
「戦後四十数年、今でも西晋一郎の著者を読みたいが、本屋で売っていないから早く全集を出してくれという要望が私に寄せられる。これに対し私は、十年計画で古本屋を克明に探してみなさいと答える。必ずどこかの古本屋で西の著書を発見することができる。また、大きな図書館に行けば、西の著書が少なくとも数冊はあり、これをコピーすることもできる」(131頁)。
なんと悠長なことだろうと思う。これでは岩波文庫に入っている西田幾多郎などと比べて、読書環境が整っていないい言わざるを得ない。全集が出ることを期待するが、単にテキストを読解できる人たちに依頼するのではなく、本当に西晋一郎を大事に思い、テキスト読解力もある人物を選んでもらいたい。高山岩男全集のように「信」のあやふやそうな人物に解説を書かせると、それがいくら専門領域では評価されている学者であろうとも、読者たる私からすれば幻滅だ。高山岩男が戦後も維持した信念や思想とは無縁の人々が解説をしているのではないかと違和感を持つ。そんなものにするのはやめて欲しいが、縄田氏も井上順理氏も木南卓一氏も鬼籍に入られている。もはや志操堅固で学術能力の高い人物はこの周辺にはいないのかも知れない。また重要な偉人の痕跡が消えて行くのである。
戦前には西田幾多郎と並び称された西晋一郎であるが、もはやそのことを知るものは少ない。隈本忠敬氏に『西晋一郎の哲学』(溪水社、平成7年)も
「両大家没後五〇年の、今日では両思想の発展に天地もただならぬ開きが生じている。西田哲学はつとに全集を完備し、数多くのすぐれた門弟によって継承発展されるとともに、その研究は充棟をなし、いまや日本国内のみならず海外にまでその信奉者は広がっている。これに対して、西哲学の場合は、全集の規格は昭和二三年に二巻を出しただけで頓挫し、門弟の中にも学的継承に務める者はきわめて乏しく、今やわが国の学界からほとんど忘れされている有様である」(6頁)と言っている。
その上隈本氏は西晋一郎の後継者として、山本空外氏、村上義光氏、縄田二郎氏を挙げている。さらに森信三氏、井上順理氏を挙げている。
5.まとめ
西田幾多郎の言葉を現在の「維新派」の権威として持ち出すことには慎重でなければならない。そもそも西田幾多郎は大東亜戦争に否定的見解をもっていたし、一見「日本精神」を説いている場合であっても、西田哲学独特の世界観から説かれているものだからである。
それよりも「維新派」が継承すべきなのは、西晋一郎の哲学ないしは教学ではないだろうか。とはいえ、私もまだ西晋一郎の哲学・思想・教学についてはっきりした事がいえないのが残念である。
「西哲学には、西田哲学の場合のように、手ごろな入門書もなけれな依拠するに足る研究書もない」(隈本忠敬『西晋一郎の哲学』溪水社、平成7年。9頁)
研究職にあって、しかも皇学館大学という恵まれた環境にありながら、どうしてこの思想的混迷を晴らしてくれないのだろうか。私には喉から手が出るほど欲しい恵まれた蔵書環境があり、自分の時間を研究と教育に捧げられる素晴らしい職にある方が、なぜ混迷を晴らしてくれないのだろうか。
断片的でところどころ文がうまくつながっていない箇所もあるので、少しずつ手直しはするが、一旦ここで筆を置きたい。
*1:この点、西田哲学関係の本を少しでも読み返して、いまは考えを変えた