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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

「酔生夢死の生涯をおくるなかれ」ー平田精耕『禅からの発想ー自由自在に生きる』ー令和三年八月二十六日(木)

「酔生夢死の生涯をおくるなかれ」ー平田精耕『禅からの発想ー自由自在に生きる』ー令和三年八月二十六日(木)

 

「一つの道に、あるいは一つの仕事に阿難のごとく二十年、三十年と打ち込む。そうして苦労に苦労を重ねてこそ初めて一つのことが身につくのです。それこそ最良の人生ではないでしょうか。」(平田精耕『禅からの発想ー自由自在に生きる』(禅文化研究所、昭和57年、181頁)

 

平田精耕氏は、天龍寺派の禅僧。

 

世尊=釈迦に対し、外道(仏教以外の学説を説く者)が、常見論と断見論についての見解を伺う。常見論とは、この世は唯一絶対神のあらわれだと説く見解(正統バラモン派)で、断見論とは一切の現象は原子からなっていると説く見解(インド古典唯物論)のことである。(171頁~172頁)。

この問いに対し、お釈迦様は常見論と断見論をともに否定したので、外道がさらに「仏教の真理とは何か」を問うた。お釈迦様は沈黙したのである。

  

ここで気になるのは、釈迦と外道のこの問答を聞いていた阿難(あなん。仏弟子)のことである。

 

この沈黙の意味を外道は即座に分かったという。しかし、仏弟子の阿難は二十年の修行にもかかわらず、分からなかったという。

 

私は不遜にもこの阿難尊者に自己を重ね合わせて見てしまうのである。

 

すぐに理解した外道。仏弟子なのに理解できなかった阿難。

 

この逸話に関する無門のコメントを引いて、平田氏は「阿難には仏の教え身に深くしみこんでいました。そのためにかえって瞬時にわからなかったといえるかもしれません」(179頁)という。

 

傍から見ている方が当事者よりもよく分かることがある「傍目八目」(おかめはちもく)も役に立つことがあると認めつつも、「本職としている当事者の真剣さには局外者はかないません」ともいう。だから平田氏は弟子に「プロの禅僧になれ」と教えるという(181頁)。

 

そして冒頭の言葉が続くのである。

 

「一つの道に、あるいは一つの仕事に阿難のごとく二十年、三十年と打ち込む。そうして苦労に苦労を重ねてこそ初めて一つのことが身につくのです。それこそ最良の人生ではないでしょうか。」

 

二十年苦労してようやく悟りを得た阿難は、一瞬のうちに悟った外道とは違い、仏教のプロです。悟りに至るまでの時間は外道の方が極端に短かったが、仏教にかける熱意、修行に対する真剣さ、その努力ははるかにプロである阿難が上です」(181頁、太字引用者)。

 

この箇所を読んで涙が出そうになるのである。十数年修行して何の成果が出なかった自分だけれども。

 

でも、心に刺さる一言もある。

 

「プロに徹し切れない、なんとなくアルバイトのままで人生を終わってしまう・・・こんな気分が現代社会には強いようです」(同頁)

 

あらゆる夢破れて、何年になるだろう。

日々をしのぐ生活を送り、「プロに徹し切れない」日々。

足元を見られる人生。ああ、俺のことだ。

 

自由自在に生きたい。