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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

三浦雅士氏『身体の零度―何が近代を成立させたか』ー令和三年七月三十一日(土)酷暑

三浦雅士氏『身体の零度―何が近代を成立させたか』ー令和三年七月三十一日(土)酷暑

「古代文化のなかでは、競技がつねに神に捧げられた祝祭の一部をなし、幸をもたらす神聖な儀礼として、不可欠なものとされていた。この祭祀との関連が、現代のスポーツではすっかり失われてしまった。スポーツは完全に奉献性なきものと化し、また、たとえ政府権力によってその実施が指示された場合でさえも、もう何ら社会の構造と有機的な繋がりをもたないものになってしまった。それはなにか実りを生む共同社会の精神の一因子というより、むしろただ闘技的本能だけの、孤立的な表れなのだ。」(ホイジンガホモ・ルーデンス中公文庫プレミアム、457頁より)

 

 東京オリンピック2020の真っ最中。この間の四連休には、ヒマができたので物の処分や部屋の整理をしていた。本棚にあった三浦雅士『身体の零度―何が近代を成立させたか』(講談社選書メチエ、1994年)を久しぶりに手に取った。

 

表紙の文言によれば、本書は「東西の豊富な文献を駆使し、泣きかた・笑いかた・行進・舞踏など人間の表情や動作にたちむかう」「そして、身体へのまなざしの変容こそが、近代の起点であることをあざやかに検証する」「社会史・思想史のなかに、身体を位置づけた力作」ということだ。

 

私はこの本で武智鉄二という名を初めて知り、彼に剣道自慢の三島由紀夫が「ナンバ歩き」が難しいと言っていたというエピソードがあることも初めて知った(三浦・131頁)。

武道で知っている人がいるかもしれないが、「ナンバ歩き」というのは「右足と同時に右手が出、左足と同時に左足が出る歩き方」のことである(三浦・132頁)。かつて日本人はそのような歩き方をしていたのだが、近代化とともに身体レベルで変容が起こったという。

 

今回、この本の第六章「体育」をざっくり読み返した、得るところがあった。それが三浦氏が引用しているホイジンガの言葉である。

 

三浦氏によるとホイジンガが言いたかったこととは、「遊戯としてのスポーツには含まれていたコスモロジカルな要素が、近代スポーツからは脱落してしまった」ということであり、「遊戯」というのは「宇宙と人間の関係を告知するもの」であり、「人間の生と死がどのようにこの宇宙とかかわっているかを告知する」のであるという(三浦・238頁)。

 

このことに関連して、解きほぐせた言葉がある。それは長い間気になっていた保田與重郎の下の言葉である。

保田與重郎も『祖国正論』所収の「オリムピツク選手派遣を中止せよ」(昭和二十五年)で言う。

 

一秒の何分の一を争ったり、身長の何分の一の前後を争ったりすることに、何か重大な意義があるとおもふのは、近代の興行意識と賭博心理を根拠とする、おそろしい近代の迷信だ。封建の武術試合なら多少重大な意味もある」(『祖国正論』新学社、二〇〇二年、167頁。太字引用者)。

 

保田は当時貧困に陥っているわが国が、大勢の選手を派遣するようなことはしない方がいいと主張する。近代スポーツを批判する時、その理由として「近代の興行意識と賭博心理」を挙げているが、事はそう単純ではなく、三浦氏が著作の他の章で語っているような広がりを持つものだと思う。保田の短いが深い意味のある言葉だけでなく、三浦のように社会史、文化史に広がるような領域が必要なのである。

 

私なりの言葉も交えて語ると、近代は時間・空間の均一化の時代である。

 

「オリンピックは、少なくとも理念として、均質な空間と均質な時間」を前提としており、「均質化され近代化された身体」を前提している(三浦・237頁)。

 

「オリンピック選手は、より速く走り、より高く跳び、より強く戦う。だが、彼らの戦う場所は、特定の地上においてではもはやない」。

 

だから選手が競技している空間は、「まさに抽象的な座標空間」においてであり、一方そこで選手の身体は、我々が高校以来習うような数直線上であらわされる「抽象的な座標点のひとつ」になるのである(三浦・239頁)。

 

近代の特徴が、画一化・規格化・中央集権化などにあるということはすでに語られていることだろう。そして近代という時代は、欧米によって特徴づけられた時代なのだから、「それこそがヨーロッパの流布した身体」なのであるという。

 

長い間気になっていた保田與重郎の言葉を解きほぐし、理解を深めることができた。保田も「近代」と「封建」という言葉を使っていた。もっと「近代」を語らねばならない。

 

オリンピックを見る楽しみと読書の楽しみがここにあった。

 

 ホモ・ルーデンスには、私の知る限り2つの翻訳があるが、三浦氏は第章の参考文献表でこちらを挙げていた。