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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

竹中センセがDTを笑うとはー令和元年10月23日(水)

 竹中センセがDTを笑うとはー令和元年10月23日(水)

 “下品な意味ではなく、今の日本人は『チャレンジ童貞』になっているのではないかとすら思います。自分がまだ見ぬ世界、領域、場所、体験など、未知のものを異様なまでに怖がっているように見えるのです。その様は、女性を知らないがゆえに、女性に現実離れしたイメージを抱き、恐れたり、蔑んだりする童貞男子とそっくりです。”

 

 久しぶりに気色の悪い記事を読んだ。竹中平蔵センセのことである。

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「大変革期」だのを迎える中で取り残される現在の日本人を「童貞」(以下、DTとする)にたとえ、しかも「女性に現実離れしたイメージを抱き」、「恐れたり」、「蔑んだり」している存在だと勝手に決めつけている(「チャレンジ童貞」なる語は、竹中センセの教え子らしき人物の本から持ってきたようだが)。

 

発言の趣旨は、この革新期を迎えた時代における「チャレンジ精神」の大切さなんだということだろうが、その程度のことを論じるのに、男性なら(ほとんどの人が)苦しんだことのあるDT(童貞)を引き合いに出し、「女性に現実離れしたイメージを抱き」、「恐れたり」、「蔑んだりする」、「未知のものを異様なまでに怖がっている」と勝手に蔑んでいるのである。もちろん、記事の趣旨はそこにはないし、誰が何を発言しようと構わない。イヤ、ほんとに。だから、人に「取り消せ」とか書いているんじゃ全くない。

誰が何を書こうが自由だと思っている。

 

でも最初、男はみんなDTなのである。そのことを指摘されて、死んでしまいたいぐらいの苦悩を味わったことはないだろうか。自分が苦しんだことを、ひとたび通過した後、優位に立ったからと言って、勝手に歪んだ女性観を持った人間の代名詞にする態度に嫌悪感を持つのである。

 

(ほとんどの)男子なら苦しんだことがある(と思われる)ことを、平然と「蔑む」言葉にしているのはどっちなんだ。

 

これがアイドルとの噂が絶えなかった押尾学氏や、グルーピーに取り巻かれたガンズのアクセル・ローズが言うなら、説得力もあるし、返す言葉もない。だが永遠のDT顔のような竹中センセと、言葉を発案したらしきゼミ出身者に言われるなんて、悪い冗談だぜ。

 

一体どんな女性と、いつ、どんなシチュエーションで、体験相手となった女性の気持ちはどうだったのかなど一切問わずに、性体験の有無だけで、歪んでいるか決めつけるのである。自分の性体験のために相手を傷つけた奴だっているだろう。

 

そもそもなんと言われようと、竹中センセやその弟子と目されている人物らには、男から見て、男の魅力を微塵も感じない。竹中センセやその弟子と目されている人物には一切のストリート性も感じない。単に経済学という制度知だけで体制の上層部に行った人物としか思えない。俺より「成功」していても、人生を取り替えたいと思う憧れなどありはしないのである。

ストリート性と竹中センセなんて、PALM葉加瀬太郎ぐらいちがうのである。

 

近代経済学という制度知の優等生というのはそんなに他人を見下せるものなのか?

性体験の有無は、その人の女性観が歪んでいることの証拠になるのか?

性体験があるものや既婚者でも、女性を大切にできない奴や、女性に対して歪んだイメージを持っている奴は、山ほどいるだろう。

 

それに経済のことも竹中センセが、テスラやスペースXを作ったイーロン・マスクほどのイノヴェーターでもないだろう。DTを馬鹿にして教えを垂れるような人物なのか?

 

記事の内容だって近所のオバハン相手にDT捨てた元DTが、かつてのDT仲間相手にいばっている程度の内容にしか思えない。「大変革期」だの、「GAFA」だの、「ブルーオーシャン」だの使いたがる奴自体が、自分が馬鹿にしている虚勢を張るような「DT的」な態度なのである。

 

平岡正明氏は、かつて「1喧嘩は1マ〇コ」という謎の定式化を行ったが、その例えで言うと、竹中センセは、喧嘩に強くもないのに、あたかも強い奴のふりをして弱い奴らを見下してるように、さして女性からもてたとも思えない竹中センセがDTを蔑みの表現に用いているようにしか見えないのである。本当に強い奴はそんな態度取らないのである(平岡正明大山倍達を信じよ』秀英書房、1994年、112頁)。

 

私も強くない。でも、そのことで死ぬほど悩んだり、苦しんで喉元に包丁を突き付けたり、人生に踏みつけにされている奴らを引き合いに出し、わらったりはしたくないのである。これは言葉狩りじゃなく、俺の価値観なのである。

 

自分の苦しみの歴史を想えば、そうだろう。男はみんな生まれたときはDTじゃないか。それを蔑すんだ表現に使うような卑怯なマネを俺はしたくない。相手の女性を大切にしない奴こそだめなんだ。性体験に恵まれない奴やDTだけの問題じゃないだろ。

 

これは言葉狩りじゃない。俺の態度決定だ。俺の価値観だ。別に竹中センセが何を言っていても構わない。

 

でもDTを歪んでいると見下せるほど、そんなに簡単な子供時代だったのかよ。

死ぬほど苦しんで、恥ずかしくて首を吊りたかった奴だっていただろーがよ。

尾崎豊じゃないが、「死に物狂いでこの橋を渡った」だろ。

そんな時代のことを蔑む言葉には使いたくない。

 

DTのことを、男子なら誰もが通るDTのコンプレックスに漬け込み、ショックを与えるような見出しの表現で、「GAFA」だの何の足しにもならないような経済を語る。近代経済学という制度知を身に着け、世の中を渡れば、そんなに偉いのかよ。

 

DTじゃなくても、歪んでいる奴はいるだろう。

女性に対する愛情や思いやりは、性体験の有無や多寡だけで決まらないだろう。

性体験に恵まれないものを、女性に対する歪んだイメージの代名詞みたいに使う奴らの仲間には絶対に入りたくない。

 

性体験の有無で人を馬鹿にして、DTを馬鹿にする基準をまに受けて、相手の気持ちよりも自分が体験することを焦り、本当に女性を大切にできない男や、女性を自分の幸せに関わる重要な相手と見なせない男が育つことの方が、俺にとっては重大な問題だと思う。

 

女性の中に神々しさを感じなければ、いくら性体験があっても、尊敬できる人間じゃないと俺は思う。

 

死に物狂いで渡って来た10代の頃を、性体験に恵まれなくて苦しんで死にたくなっている人のことを、自分のことを蔑み、喉に包丁を突き付けて苦しんでいる人のことを、小馬鹿にするような連中の仲間には絶対に死ぬまで入りたくないのである。