心の法則ー令和元年7月6日(土)くもり
「神は決してある人のみを愛し給うが故にその人のみ幸福を与え他の人には不幸を与えるという依怙贔屓な存在ではないのである」(谷口雅春氏『青年の書』日本教文社、昭和39年、166頁)
「吾々が心に苦痛を感ずるのは自分の心の立場が心の法則に対して逆な所に位置しているからである」と続く。
著者は生長の家の教祖の谷口雅春氏。生活や人生に対する啓発書などを多数出版する。
五井昌久氏などと並んで、戦前から戦後も含めていかにも昭和期を特徴づける宗教家。
私も折に触れて読む。自分の人生を反省するために。
全人生反省の対象だが、ここ数年は惨憺たるものだった。とりわけ大人になって、自覚して生きてきたと自負していただけに大いに挫けた。
「苦痛の価値について」と題された「節」で語られるのが、冒頭の言葉である。
苦痛は「実相」に合致していないところに起こる。火は我々に大いなる便益を提供する。反面、それは我々に苦痛ももたらす。その惨禍たるや凄まじい。だから、火や水などの物質に対して正しい位置に立つことが重要なのである。正しい位置に立てば、苦痛などないのであると説く。心の法則もそれと同じなのだと。
偶成
我家松籟洗塵縁
満耳清風身欲僊
謬作京華名利客
斯声不聴已三年
(現代語訳・大木俊九郎氏)
自分の家の松風の音が塵のうき世の縁を洗ひ去り、
清らかな風が耳一ぱいに吹き入つてすがすがしい気持ちになり、何時の間にか仙人になつてしまひさうな気がする。
思へば、自分は今までにあやまつて都に出て、名誉利益を追ふ旅の客となり、
此の松風の声を傾けて聴かない事が早三年になる。
「思へば、自分は今までにあやまつて都に出て、名誉利益を追ふ旅の客となり」というあたり大西郷でもそんな心境があったのか。
都落ちして数年。何をすれば人生をいい形で終えられるのか。どこに行けばいいのか。
不惑の年も近いと言うのに、ますます惑うばかりである。