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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

夢の残骸ーカール・シュミットの翻訳者ー令和元年5月24日(金)晴れ

夢の残骸ーカール・シュミットの翻訳者ー令和元年5月24日(金)晴れ

 

大学を卒業してから10年ぐらいしか経っていないが、ずいぶん遠くのことのように思う。20代後半で入った大学。夢を膨らましていた。大学時代を思い出すことは楽しい。だって、自分の好きなことが出来ていたからだ。でも、膨らんだ夢はそのままではなく、残骸となってつらい現実に変わった。

 

前回は、法哲学を学ぶゼミに入った話を入り口までした。今回は、膨らんだ夢の中の1つであったカール・シュミットの翻訳者の話をしよう。

 

呉智英氏によってカール・シュミットという政治学者がいるということは、10代中ごろから知ってはいた。知ってはいただけで、読めもしなかったし、買いもしなかった。その頃はまだ音楽の方に興味があったからそれでよかった。

 

20代後半の大学入学当時、『政治的なものの概念』だけは持っていたと記憶するが、通読できていなかったと思う。後にマーク・リラの『シュラクサイの誘惑』を読んで、さらに興味をもったが、外国の理論もさることながら、我が国の思想も追わないといけないと思い、カール・シュミットだけを体系的に読み進めて行くということはしなかった。

 

大人になった今でも、自分が受けてきた学校教育を振り返っても、馬鹿にされてきたような教育だった。本当にくだらない教育だったとつくづく思う。

 

それに対して大学の良い点は、カール・シュミットについての論文や翻訳をしているような人物の講義を直接受けられることだと思った。これまでは大体どんなジャンルでもその第一人者から教わるような環境に恵まれなかった。

 

だから期待していたのだが、現れた人物は、初老になりかかった温厚なおじさんであり、私の思想的熱情に応えてくれるような人物ではなかった。

 

もちろん学者としてのその人物から、大教室の講義ながらも、学んだことはあったし、定着した知識もあった。たとえば、ヨーロッパには二つの真理がある。ヘブライに起源をもつ「啓示による真理」と、ギリシアに起源を持つ「ロゴスによる真理」(ロゴスといっても奥深いものがあるのだろうが)がそれだ。こういうことはしっかり定着した。だがそれだけのことである。

 

カール・シュミットの翻訳者であっても、単なる「講読の師」であって、「人生の師」ではなかった。ただそれだけの話である。大学なんてそんなところである。大学、大学院と研究者の養成課程を修了したからといって「人生の師」となる要素はないのである。ただそれだけの話なのである。

 

冒頭、「大学を卒業してから10年ぐらいしか経っていないが、ずいぶん遠くのことのように思う」と書いた。その理由は、多分、金銭的にも時間的にも、もう二度と戻れない時間だからだろうし、戻れたとしてもかつてのような気持ちで学ぶことができなくなっているからだろう。

 

私の膨らんだ夢の残骸。残骸が用意した現実。いまその現実を生きている.

私の膨らんだ夢の残骸。残骸が用意した現実。現実に殺されながら生きている。