昨日の日経に「切り開く教育 さらば「学びや」」という大きい記事が載っていた。
「ポスト平成の未来学」というシリーズの一環である。
(上のリンクは会員限定記事のようで、最初の部分しか読めません。)
要約すると、ネット経由の授業が広がり、教師と生徒が一緒の空間にいる必要がなくなる。そのことで、「スクールカースト」やいじめなどの問題もなくなり、学ぶ側も自由になるという。
学校に多少なりとも苦しんだ私からすれば、歓迎すべき未来であろう。そして私もMOOCは大好き(少し視聴したぐらいだが・・。その存在がありがたい)。だが、現在の学校にとってかわるほどになるのだろうか。疑問もある。思いつくままに並べてみる。
・たとえばMITのネット講座を受けたからといって、MITに行って学位を取って帰ってきた人と同じように見てくれるだろうか。たとえ、同じコース、コンテンツ、同じ量を学習したとしても。
MIT帰りの人と、ネットでMIT講座を受講した人と、同等に見ることができるか。
自分がネット受講で、友人が「本当に」行ってきた人だったら、同等だと思えるか。
会社の面接や友人に言って呆れられないか。不安だ。
・実際に体を動かす系のモノは難しいのではないか。野球ゲームをやりこんでも、野球選手にはなれない。戦争ゲームをやっても、軍人にはなれない。
だから、情報伝達、知識伝達系のものが主流になるのではないか。
資格試験の通信講座は便利だろうが、さまざまな経験、実体験をベースに、知識を載せていくのが人間ではないだろうか。
・結局、振り返って一定の期間、「あの場所ですごしたなー」というような思い出や経験が大事なのではないか。
そうでなければ、学校どころか、「この世」自体実際に住んでいる必要がないじゃないか。
「あの世」から「遠隔人生」を送ればよいのではないか。もっと傷つかないし。
・アダルト・ビデオを見ても性体験にはならない。その子とつきあっていることにはならない。たとえVRで見た人であっても、実際に付き合った人とはちがう。
・「学校に行かなければならない」という考えは、未来でも残るのか。
むしろ人生自体が入退場自由な空間になるのが、未来社会ではないか。
学校に何のために行くのか?
「学びや」の形態が変わっても学校に行きたがっているのはなぜなのか?
知識欲はなぜあるのか?
記事にあるような宇宙物理学を学んでも、学ぶ前の自分と学んだ後の自分、どれだけ変化しているのか?
人間はそもそも何のために生きているのか?
「学びや」の形態に変化があっても、分からないままの問いもある。