日経の夕刊のコラム「あすへの話題」に佐藤卓己氏が連載している。
佐藤氏は、大学教授の肩書を持つ学者である。
「古書市のセレンディピティ」と題されたコラムで佐藤氏は言う。
この種の古本市は、全国各地でやっているだろうが、東京の神田神保町のようなまとまった古書街がないが、大学が多い京都では、貴重な催しである。
佐藤氏の大学時代に始まったというこのイベントで、氏は訳ありで安くなっている全集ものなどを購入して喜んでいたそうだ。私も大学院の研究対象の全集はこうした古本市で購入していたと記憶している。
「あの頃理屈の上では読書時間が無限ではないと分かっていた。だが、そのとき購入した全集が36年後も未読のまま書架にあろうとは想定外だったはずだ」。
まあ「積読」というもので、よくある話しだ。断・捨・離系の記事でよく書いているように、私にもそんなものはたくさんある。しかし、佐藤氏は言う。
「それでも、それが無駄な購入だったとは思えない。この間、私の読書生活のガードレールになってくれたのは、こうした未読本だったのだから」。
「ガードレール」とは分かりにくいが、原稿依頼などで社会や他人需要で読む本ではなく、内発的な理由で読む本の道標というような意味であろう。だから決して無駄ではないという。
そして佐藤氏は、古書市で出会った学生に
「読まなくてもいい。読むべき本は買っておきなさい」
と言うそうだ。
佐藤氏がこう言える背景には、①彼が学者であり、研究室など本の置き場をもっていること、②定期的な収入を得て、定年まで保障されていること、③本自体が商売読具であり、生産手段であること、④予想外の依頼に対して備えることが、本を通してなされる職業であること、⑤語りかけている相手も、生活の苦労に直面していないと思われる「学生」であり生活者ではないこと、などが考えられる。
まだ来ない「いつか」のために「読むべき」本を捨てている、いや、捨てざるを得ない人生・境遇の私にとっては、もはや用のない言葉であり、イベントである。
古本市に通っている時の私は、「誰がこんな良い本を売るのだろう」、「私もそんな境遇になることがあるのだろうか」とよく考えていたものだ。「誰かが不要な本を、私は大事そうに購入しているのか」という一抹の不安があった。しかし、思想内容の大切さが、その不安を覆い隠してくれていた。
しかし、天に見放された私は、その内、住む場所にも見放されることになる予定だから、ひとつの本棚ですら維持できない可能性があるのだ。切実な問題なのだ。「読むべき本」など持てる立場ではないのである。
そのための処分に迫られている。ほとんど本をもっていなかった10代のあの頃に戻りつつある。そんな私に「古書市のセレンディピティ」などという言葉は響いてこないのである。
先日、母校の大学に寄付した受領書が送られてきた。
15冊で約1500円になったという。それはよかった。
とはいえ、私の光明はすでに過ぎ去っている。