維新道楽紀行 飛騨高山篇⑧ 宗猷寺(山岡鉄舟父母の墓) 令和4年8月20日(日)晴れ
前回の投稿から大分時間が空いてしまったが、夏に行った飛騨高山の記録である。
ここは山岡鉄舟父母の墓がある宗猷寺。
大森曹玄師の『山岡鉄舟』で20代の頃から見ていたが、歩いてぷらっと行ってきた。
高山の市街はにぎわっているが、この辺りはいたって静かである。
心配していたマイナポイント第2弾も無事ポイントが付いた。
第2弾が始まる前に2つの目標を達成していたから、その2つがうまく連動してくれるのか心配だったからだ。
でも、無事15,000ポイントが付いた。これは結構多い額だと思う。
普段なら半分は仕事の本、半分は趣味の本や雑貨などを購入したかも知れない。
でもふと立ち止まってみた。
心底良いと思える本がないのだ。
本当に欲しいなら15,000ポイントすべて使ってもいい。でも、もはやそんな本や音楽には出会わないのではないかという思いを抱いている。
実際、すべてを捧げてもいいと思えるものは、もうない。
みなさんはどうだろうか。15,000ポイントと言わず、150,000ポイント、15,000,000ポイントが手に入ったら、何に使うだろうか。
心底良いと思えるものがあるだろうか?
以上
飛騨護国神社も訪れることを楽しみにしていた。
旅の前に護国神社を調べて見ると、飛騨護国神社のHPが見つかり、そこに靖国神社宮司の加茂百樹とも縁がある神社であると記載されていたからだ。
加茂百樹は、賀茂真淵の流れを汲む国学者であり、また藤井稜威の弟でもあるという。
藤井稜威は、賀屋鎌子さんの夫ということで、両名が賀屋興宣の両親ということにあたる。賀屋興宣が大学時代に影響を受けたのは、筧克彦である。賀屋は、「東京裁判」で「A級戦犯」となり、巣鴨プリズンに服役した人物である。
そういう神社であったが、しかし特に何もなく参拝しただけであった。
哲学研究者の高橋哲哉氏は『靖国問題』(ちくま新書532、2005年)の中で、葦津珍彦の父・葦津耕次郎と靖国神社宮司の賀茂百樹との論争を扱っている。
1934年に靖国神社で仏教各派が参加する仏式の供養を行うために神官と僧侶とからなる「靖国会」を作ることを耕次郎が提唱したという(上掲書・58頁)。
葦津耕次郎の立場:靖国の英霊を讃えるのみならず、その苦難の中亡くなっていった面を見て供養が必要である。
加茂百樹の立場:戦士した兵士は大安心、大歓喜しながら死んでいった。
結局、葦津の提唱は取り下げざるを得なくなったという。
したがって、高橋は靖国神社の祭祀の本質を次のように結論づける。
「靖国の祭り(祀り)を、「悲しみ」の祭り(祀り)と考えることは困難である。それは、悲しみを抑圧して戦死を顕彰せずにはいられない「国家の際祭祀」なのである」(59頁)。
また、記述の順番は前後するが「靖国の論理」とは、「戦死を悲しむことを本質とするのではなく、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするものである。靖国の言説は、戦死の美化、顕彰のレトリックに満ちている」(54頁)と説いている。
私は戦死を歓喜することはできないからもし加茂百樹が上記のように考えていたのでなら共感できないが、その死を悲しんだ上で、なお一命を捧げた尊い犠牲はあると考える。それが私の立場であり、考え方、感じ方である。
高橋哲哉氏の論には赤澤史郎氏の研究を参照し、葦津耕次郎、加茂百樹などの議論を扱っているのだが(p.58に「赤澤史郎『近代日本の思想動員と宗教批判』一九八五年に拠るとある」)、もはや葦津珍彦はともかく議論の両当事者の著作や主張は知られておらず、入手することも難しい。
だから、ここが一体どういう神社なのか、どういう考えで成立し、維持されている神社なのか学習できる施設があった方がよいと感じた。
(ちなみに隣には日曜日にもやっている児童の保育施設みたいなものがあったが、どういう施設なのだろうか。)
参考:記述にあたっては、下記サイトを参照させていただきました。いつも勉強になります。
歴史が眠る多磨霊園
過去記事:葦津珍彦については、以下の過去記事を参照されたい。
本日届いた本について。
戦(いくさ)での負傷兵。
滅多に描かれないし、戦功を建てた人物に目が行きかち。
でも、圧倒的に負傷兵の方が多い。
江戸から明治にあたりの医師に関する物語は、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』、森鷗外の『渋江抽裁』しか読んだことがなかった。
そうだ。森鷗外が関係していたのだった。
この物語は、ドイツ医学派の森鷗外と脚気論争で闘い、見事に勝利をおさめたイギリス医学派の高木兼寛(たかぎ かねひろ)の生涯を描いたものである。
物語は、彼が戊辰戦争で、負傷者の救護にあたった話から始まる。
刀による傷の治療法には知識があっても、銃創の治療法の知識はなかった兼寛。
佐倉の順天堂で蘭方を学んだ医師・関寛斎の洋式の治療法に目が奪われる。そして自らの無力を悟り、海軍からイギリス留学を経て、最新の医学を修めて帰国する。
いま会津落城のくだりを読んだところだが、集団自決や戦時性犯罪等いつ読んでも気分が悪くなる。
*私の愛用している『明治維新人名辞典』(吉川弘文館、昭和五十六年)によると、高木兼寛は嘉永二年(1849)に生まれ、大正九年(1920)まで生きた人物である。
生まれは日向国諸国群穆佐村ということであるが、明治元年に京都の薩軍治療所に入所。付属医師として、東北に従軍したとのこと。その後、鹿児島に帰り、開成学校に入学して、オランダ語・英語を学んだとのこと。
明治二十一年には我が国最初の医学博士となり、東京病院および慈恵医科大学の前身である成医会講習所を創設した。(p.555)
続きはまた明日。
ホテルを9時頃出て、駅に荷物を預けた。
晴れていたから、マツモトキヨシでパウダーシートなどを購入して、陣屋に向かった。
陣屋の前は、朝一でにぎわっていた。
久しぶりに歴史的建造物に来たな。なかなか仕事やら感染状況などで、なかなか来れなかったから。
こ、これが年貢米だべか!?
時代劇でおなじみのお白洲ですね。家族連れがこれを見て、「悪いことしたら、あんな風になるんだぞ」と子供に話していた。
間違って責められたらどうするのだろうとも話し合っていた。これはほとんどの人が思う疑問だ。ずっと、同じ疑問で堂々巡りしているな。
山岡鉄舟は、幼少時代を飛騨高山で過ごした。父親が高山陣屋の代官だったからである。この旅が決まった時、不思議な縁に導かれたと思った。
大森曹玄の『山岡鉄舟』を読んでから、約20年だろうか。