「事上磨錬」ーこれからの目標ー令和3年4月21日(水)晴れ
一旦苦境から脱した。でも、心の苦境は続いている。
今日も朝からそうだった。
俺を否定したあいつは活躍している。要職にある人、肩書のある人から評価されている。俺はどんな場所でも、1から始めないといけない人生を歩んでいる。
これまでの人生は何だったんだと。でも何故なのか分かっている。
俺の青年期はディオニソス的要素が強すぎて、仕事や職業についてまともに考えることができなかった。それが今の苦境を招いている。
いま社会で活躍している人は、「社会人」になったときに、何か1つの職業を選んで、いや、どこかの会社や職場に「所属」することを通して、「成長」していったんだ。
でも俺にはそれがなかった。自分で選んだ道とはいえ、業務知識と在職年数と、そして何より「職場への帰属」が要求される社会の中で俺は苦境に立たされている。
そんな俺がこの社会の中で、心の火を燃やしたまま生きるには、どうしたらいいのか考えるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」(『行動学入門』文春文庫、1974年所収)
思想的タブーとなった日本の思想には、葉隠的武士道、平田篤胤の国学、そして陽明学があるという。これらが明治以降、開明的な日本人にとっては忌まわしい思想であり、葬りたいものなのである。
革命哲学
三島によると革命を準備する哲学にはミスティシズムとニヒリズムがあるが、明治維新は、神秘主義(ミスティシズム)としての国学と能動的ニヒリズムとしての陽明学により達成されたという。
*私は歴史の断絶を意味する「革命」と連続性の上に新たな生命を獲得しようとする「維新」は異なると考えているが、今は措く。
大塩平八郎の乱は明治維新の先駆と評価できるし、大塩の著『洗心洞劄記』は西郷隆盛の愛読書だったし、吉田松陰の思想と行動にも陽明学が隠されている。
陽明学は、善悪を超越した主観哲学であり、極端なラディカリズム、能動的なニヒリズムにより極限へと突き進む。そして陽明学にはデモーニッシュ(悪魔的な)な要素があるともいう(三島、203頁)。
「デモーニッシュ」
三島は「デモーニッシュ」のことを「理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガー的のいわゆる脱自、陶酔、恍惚、の一種の宗教的見神的体験」(同頁)などと言い換えている。
「デモーニッシュ」=「ディオニソス的」
また三島は、大塩平八郎の行動を「ディオニソス的」(204頁)とも形容しているので、この論文において「デモーニッシュ」と「ディオニソス的」は同じ意味で使われていると私は理解している。陽明学を詳しく説くことは私にはできないし、三島のこの論文の感想については他日を期したいが、陽明学ないしは陽明学者には「デモーニッシュ」=「ディオニソス的」なるものが拭いきれずに存在するということが分かっていただけたと思う。
だが、大塩平八郎は勿論のこと、西郷隆盛や吉田松陰のように「十字軍」的に散っていった先人を前にして、日々の生活をどのように送ればよいのだろうか。どこに行っても1から始める私にとって、何の権威も後ろ盾も頼めないのである。
山田準『陽明學講話』明徳出版社、平成九年
(私の言葉で簡潔にまとめている。*は私の感想。)
知行合一
・陽明学は実行を主とする権威ある学問である(10頁)。陽明学は血みどろになって奮闘する学門である(97頁)
王陽明も迷いに迷った
・王子(おうし。王陽明先生のこと)は57年の生涯だったが、前半生を迷いの中で過ごした(21頁)。学者で王子ほど迷った人はいない(28頁)。大疑すれば大きな悟りが開ける(同頁)。
*これを聞いて、凡夫の我は救われる。
煩悶する原因は、4つ
・そもそも我々が煩悶する原因は、「得失栄辱」の4つから来るのである(54頁)。
*今日の朝もそうだった。「得失栄辱」に苦しんだ。
・「啾々吟」(しゅうしゅうぎん)という長い詩:「知者は惑わず、仁者は憂えずとあるのに、君はまた毎日ふたつの眉に皺よせて、くよくよするとはなにごとか。足の出るままに歩けば、どこを歩いても坦々たる大道だ」(79頁)。
*こうやって生きていければいいが、またすぐに忘れてしまう。
・「学問というものはわが心に合点するのが第一である。自分の心に合点がいかずば、それがたとえ孔子の語であろうとも、決して善いとは思わぬ」(80頁)。
*この点、私は後ろめたいことはない。大学院でも、思想に関して、教員にすり寄ることはしなかった。そしてそれでよかったのだと思う。
「事上磨錬」
*山田準は「事上錬磨」と表記している。
・「事上」とは仕事の上でということ、「錬磨」とは鍛え磨くこと。(104頁)
・書物の上で学問するのではなく、実行して学問する。「事上錬磨」とは、実学と言ってもよい(104頁)。
・実際世の中は、過ちができても進んでやろうという活動的な人のおかげて、進歩発展する。過ったら、さらに進んでいっそう善いことをする(106頁)。
・過失なき人は万事に成功せぬ人(107頁)
*職場で長い人に多いパターン。新入りを減点法でのみ見るタイプ。そんな考え方がうつってしまったら嫌だ。
・徳富蘇峰氏は、大塩一揆を明治維新勤王の第一声と評している(107頁)。
*この時代の人物の人選が良い。
・書物は財産目録のようなもので、財産ではない(109頁)。
*LeseMeisterとLebenMeisterの区別。大学院の教師に多い。精確な読解は大切だが、男として尊敬できない人物が、古典の読書経験だけにモノを言わせても、ダサいだけ。
「回顧すれば、王子は若い時からずいぶん迷うた人でありました。五溺とて五つの方面に溺れては出る。出でてはまた溺れるという始末。学者でこんなに迷うた人はほかにはありません。したがって王子は、ずいぶん欠陥が多い人でありました。しかしそこに道を求むという熱心は猛烈に一貫しておりました。この一念が、王子を人になし、学問を学問に成したと思います」(130頁)。
まとめ
私はアポロン的な知性だけでは満足できず、「デモーニッシュ」=「ディオニソス的」な世界観をも持っている。
本を研究するのではなく、実際の世間で働かざるを得ない私。「事上錬磨」を心がけて仕事するしかない。実地の学問をするしかない。
陽明学を心の拠り所にして、この立場のまま、実地に学問していくしかない。それがこれからの目標である。
過去記事:LeseMeisterとLebeMeisterの区別については、以下の過去記事を参照してください。
book-zazen.hatenablog.com
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