Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

今欲しい本 令和三年五月三十一日(月)

 今欲しい本 令和三年五月三十一日(月)

物欲を減らさないといけない。書籍代がない。

 

そんな自分に日経5月30日の新潮社選書の広告はきつかった。

 

佐伯啓思『死にかた論』

「七十を過ぎた思想家が、自らのこととして死と向き合った本」だという。呉智英氏といい、佐伯啓思氏といい、私の父親世代の方々。学生運動全共闘世代の人々は、もう死に近づく年齢。かつては観念的な「死」を考えたのだろうが、今や身近な人や自分の平凡な死に向き合っているのだろうか。

興味はあったが、私はいまこそ「生活者」として生きていかないといけない立場なので、後回し。

 

猪木武徳『社会思想としてのクラッシック音楽』

いまちょうど在宅勤務でクラッシックを聴き直すこともある。本格的に聴いたことがあるわけではないが、許光俊氏の本なども読んでいたことがあるから、このテーマにも興味があるのだが、ひとまず後回し。

 

片山杜秀尊皇攘夷ー水戸学の四百年

この人こそクラッシックに詳しいかったのではなかったろうか。確か、許光俊氏とともに宮崎哲弥氏の慶応大学時代の友達だったはず(間違ってたらごめんなさい)。

先崎彰容『国家の尊厳』

こちらは新潮新書の方で出ているようだ。でも今はいい。

 

土曜日の書評欄には、鄭 鍾賢(チョン・ジョンヒョン)『帝国大学朝鮮人』(慶応義塾大学出版会)の小倉紀藏氏による書評が載っていて、非常に興味深かった。これは買いたかったが、それより下記を優先してしまった。

 

 

Michio Kaku "The God Equation"

ミチオ・カク氏の一般向けの科学書は、たくさんあり、カバーも魅力的なのだが、後回しにして、購入することはなかった。

 

自分が小さい時に図書館に行ったときに、存在しなかった類の本を書いたというカク氏。「万物の理論」の本だろう。

 

www.youtube.com

詩「宇宙」 令和三年五月二十九日(土)晴れ

詩「宇宙」 令和三年五月二十九日(土)晴れ

 

宇宙に置いてきた忘れ物

 

俺はいつかそこに返る

 

宇宙に憧れた 子供の時から

 

空と雲 見ていたら 吸い込まれる

 

いつしか日々に埋もれている

 

空を見たら思い出す

 

俺はいつかあそこに返る

 

その日が来るまでに

 

俺はこの大地を踏みしめて生きていく

 

 

軍師の心構えー『松翁論語』 令和三年五月二十三日(日)晴れ

軍師の心構えー『松翁論語』 令和三年五月二十三日(日)晴れ

 

「立派な軍略を立てたら、それを大将に進言して、これを用いさせなければならない。つまり、用いさせる方法にも、軍略と同じだけの価値がある。」(『松翁論語PHP研究所、2005年、214頁)

 

子供の時に、「軍師」に憧れたことはないだろうか?

私も『三国志』に登場する諸葛亮孔明や『項羽と劉邦』に登場する韓信張良のようになりたいと憧れたものである。

(*大人になるイメージが湧かなかった私にとって、唯一職業としてイメージしたのが「軍師」だったと思う(笑))。

 

さて、現在急務なのは新型コロナウイルスのワクチンの迅速な接種という問題である。

ご存知のとおり、東京や大阪には自衛隊による大規模接種センターが設置されている。対象は高齢者だった。それに対し「なぜ高齢者の予約なのに、インターネットしかできないのだろう?」と感じた人もいただろう。

 

ニュースでも「インターネットを持っていないんだよ」と直接会場を訪れたご老人がいたことは記憶に新しい(このご老人はどうなったのだろう。可哀想に。)。

 

日経の5面総合欄には「ワクチン「先着順見直しを」」

そもそも自治体レベルの予約についても、様々な意見を持っている人がいるだろうが、今朝(2021.5.23 SUN)の日経の5面総合欄には「ワクチン「先着順見直しを」」という経済学者らの提案が載っていた。

www.nikkei.com

それによると政府の「新型コロナウイルス感染症対策分科会」に参加する経済学者、大竹文雄氏、小林慶一郎氏、小島武仁氏、野田俊也氏らによるもので、現行の先着順ではなく、条件付きの抽選制にすれば、予約システムにかかる負担や無駄を回避できるという提言を行ったという。

 

マーケットデザイン、ゲーム理論アルゴリズムなど現代社会に役立ちそうな領域を切り開いているカッチョいい人々も含まれているが、軍師は策略や戦術を考えだすだけではなく、その策が大将に採用される策も練らないといけないのである。

 

そもそも何故今頃こんな提言が出てくるのだろうか。やる前に出せなかった事情があったのだろうか?

 

松下幸之助さんは、別の著作(『道は無限にある』PHP研究所、2007年)でも軍師についてこういっている。シチュエーション設定はこうである。

 

「たとえば、ここに一人の大将がいて、そのもとに非常に立派な軍師がいたとします。その軍師の立てた計画は、非常にすぐれた計画であり、軍略です。」(110頁)

 

「それを大将に進言しました。ところがもう一人軍師がいました。こちらの軍師の立てた計画は、決してすぐれたものではありません。」(110頁)

 

「この場合、対象がどちらを採用しようかと考えます。もしこの大将が神のごとく賢明であれば、すぐれたほうの軍略を用いることは、これはまちがいないと思います。」(110頁)

 

「しかし、この大将がそうすぐれていない、普通の大将であるとすると、すぐれたほうの軍略を用いさせるか、劣った方の軍略を用いさせるかは、その軍略を立てた軍師の進言の仕方によると思うのです。」(110頁)

 

私は菅内閣の批判をなどをしているのではない。むしろ軍師のあり方を幸之助さんの知恵を借りて説明しているのである。

 

「立てたら、今度はそれを進言して用いさせなければならないのです。」(111頁)

「用いさせるにはどうしたらいいかということは、これは軍略と同じだけの価値のあるものだと思うのです。」(111-112頁)

 

思想家やミュージシャンなどは、「世間が分かってくれない」という気持ちになりがちだが、丁稚奉公あがりの幸之助さんは世間を良く知っておいでである。

 

「こういうことがわかってこないことには、本当に立派な軍師にはなれません」(112頁)。

 

さて、我が国の軍師たちは、衆知も尊び、時に腰を低く下げることができる人物なのか、それとも「カッコイイ高度な知識」を持っている「エリート」なのか。

 

以上、軍師憧れだったが、現在はワーキングプア予備軍による感想でした。

笑ってください。

 

 

 

 

 

 

「事上磨錬」ーこれからの目標ー令和3年4月21日(水)晴れ

「事上磨錬」ーこれからの目標ー令和3年4月21日(水)晴れ

 

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晴れ間の月

 

一旦苦境から脱した。でも、心の苦境は続いている。

 

今日も朝からそうだった。

 

俺を否定したあいつは活躍している。要職にある人、肩書のある人から評価されている。俺はどんな場所でも、1から始めないといけない人生を歩んでいる。

 

これまでの人生は何だったんだと。でも何故なのか分かっている。

 

俺の青年期はディオニソス的要素が強すぎて、仕事や職業についてまともに考えることができなかった。それが今の苦境を招いている。

 

いま社会で活躍している人は、「社会人」になったときに、何か1つの職業を選んで、いや、どこかの会社や職場に「所属」することを通して、「成長」していったんだ。

 

でも俺にはそれがなかった。自分で選んだ道とはいえ、業務知識と在職年数と、そして何より「職場への帰属」が要求される社会の中で俺は苦境に立たされている。

 

そんな俺がこの社会の中で、心の火を燃やしたまま生きるには、どうしたらいいのか考えるのである。

 

 

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」(『行動学入門』文春文庫、1974年所収)

思想的タブーとなった日本の思想には、葉隠的武士道、平田篤胤国学、そして陽明学があるという。これらが明治以降、開明的な日本人にとっては忌まわしい思想であり、葬りたいものなのである。

 

革命哲学

三島によると革命を準備する哲学にはミスティシズムとニヒリズムがあるが、明治維新は、神秘主義(ミスティシズム)としての国学と能動的ニヒリズムとしての陽明学により達成されたという。 

*私は歴史の断絶を意味する「革命」と連続性の上に新たな生命を獲得しようとする「維新」は異なると考えているが、今は措く。

大塩平八郎の乱明治維新の先駆と評価できるし、大塩の著『洗心洞劄記』は西郷隆盛の愛読書だったし、吉田松陰の思想と行動にも陽明学が隠されている。

 

陽明学は、善悪を超越した主観哲学であり、極端なラディカリズム、能動的なニヒリズムにより極限へと突き進む。そして陽明学にはデモーニッシュ(悪魔的な)な要素があるともいう(三島、203頁)。

 

「デモーニッシュ」

三島は「デモーニッシュ」のことを「理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガー的のいわゆる脱自、陶酔、恍惚、の一種の宗教的見神的体験」(同頁)などと言い換えている。

 

「デモーニッシュ」=ディオニソス的」

また三島は、大塩平八郎の行動を「ディオニソス的」(204頁)とも形容しているので、この論文において「デモーニッシュ」ディオニソス的」は同じ意味で使われていると私は理解している。陽明学を詳しく説くことは私にはできないし、三島のこの論文の感想については他日を期したいが、陽明学ないしは陽明学者には「デモーニッシュ」=ディオニソス的」なるものが拭いきれずに存在するということが分かっていただけたと思う。

 

だが、大塩平八郎は勿論のこと、西郷隆盛吉田松陰のように「十字軍」的に散っていった先人を前にして、日々の生活をどのように送ればよいのだろうか。どこに行っても1から始める私にとって、何の権威も後ろ盾も頼めないのである。

 

 

山田準『陽明學講話』明徳出版社、平成九年

(私の言葉で簡潔にまとめている。*は私の感想。)

 

知行合一

陽明学は実行を主とする権威ある学問である(10頁)。陽明学は血みどろになって奮闘する学門である(97頁)

 

王陽明も迷いに迷った

・王子(おうし。王陽明先生のこと)は57年の生涯だったが、前半生を迷いの中で過ごした(21頁)。学者で王子ほど迷った人はいない(28頁)。大疑すれば大きな悟りが開ける(同頁)。

*これを聞いて、凡夫の我は救われる。

 

煩悶する原因は、4つ

・そもそも我々が煩悶する原因は、「得失栄辱」の4つから来るのである(54頁)。

*今日の朝もそうだった。「得失栄辱」に苦しんだ。

 

・「啾々吟」(しゅうしゅうぎん)という長い詩:「知者は惑わず、仁者は憂えずとあるのに、君はまた毎日ふたつの眉に皺よせて、くよくよするとはなにごとか。足の出るままに歩けば、どこを歩いても坦々たる大道だ」(79頁)。

*こうやって生きていければいいが、またすぐに忘れてしまう。

 

・「学問というものはわが心に合点するのが第一である。自分の心に合点がいかずば、それがたとえ孔子の語であろうとも、決して善いとは思わぬ」(80頁)。

*この点、私は後ろめたいことはない。大学院でも、思想に関して、教員にすり寄ることはしなかった。そしてそれでよかったのだと思う。

 

「事上磨錬

*山田準は「事上錬磨と表記している。

・「事上」とは仕事の上でということ、「錬磨」とは鍛え磨くこと。(104頁)

・書物の上で学問するのではなく、実行して学問する。「事上錬磨」とは、実学と言ってもよい(104頁)。

・実際世の中は、過ちができても進んでやろうという活動的な人のおかげて、進歩発展する。過ったら、さらに進んでいっそう善いことをする(106頁)。

・過失なき人は万事に成功せぬ人(107頁)

*職場で長い人に多いパターン。新入りを減点法でのみ見るタイプ。そんな考え方がうつってしまったら嫌だ。

徳富蘇峰氏は、大塩一揆明治維新勤王の第一声と評している(107頁)。

*この時代の人物の人選が良い。

・書物は財産目録のようなもので、財産ではない(109頁)。

*LeseMeisterとLebenMeisterの区別。大学院の教師に多い。精確な読解は大切だが、男として尊敬できない人物が、古典の読書経験だけにモノを言わせても、ダサいだけ。

 

「回顧すれば、王子は若い時からずいぶん迷うた人でありました。五溺とて五つの方面に溺れては出る。出でてはまた溺れるという始末。学者でこんなに迷うた人はほかにはありません。したがって王子は、ずいぶん欠陥が多い人でありました。しかしそこに道を求むという熱心は猛烈に一貫しておりました。この一念が、王子を人になし、学問を学問に成したと思います」(130頁)。

 

まとめ

私はアポロン的な知性だけでは満足できず、「デモーニッシュ」=ディオニソス的」な世界観をも持っている。

 

本を研究するのではなく、実際の世間で働かざるを得ない私。「事上錬磨」を心がけて仕事するしかない。実地の学問をするしかない。

 

陽明学を心の拠り所にして、この立場のまま、実地に学問していくしかない。それがこれからの目標である。

 

 

過去記事:LeseMeisterとLebeMeisterの区別については、以下の過去記事を参照してください。

book-zazen.hatenablog.com

 

book-zazen.hatenablog.com

 

 

 

 

 

「位なきを患へず、立つ所以を患へよ」ー安岡正篤『朝の論語』より 令和三年四月五日(月)

「位なきを患へず、立つ所以を患へよ」ー安岡正篤『朝の論語』より 令和三年四月五日(月)

「子曰く、位なきを患へず。立つ所以を患へよ。己を知らるること莫きを患へず。知らるべきを為すことを求めよ」(『論語』里仁第四)

 

5年ぶりの苦境に立たされている。人間の裏面も見せられた。嫌な態度も取られた。何よりそんなことに左右される自分の境遇が情けない。

 

自分が見た人々は、世界情勢や思想に興味がなく、全く自分の周りのことだけしか知らない。それでいて年功序列。そこに長くいるか、業務知識を知っているだけの人たち。敬意の念など湧いてくるわけがない。キャパの小さい人たち。

 

こんな人たちに人生左右されるのか?

なぜ自分はいまの苦境に立たされているのか。こんな状態が一生続くのか。

今まで考えてきたこと、努力してきたこと、出会ってきた人々を思い、今の自分の状態への嫌悪感が湧く。

 

朝に少し時間ができた訳だから、安岡正篤『朝の論語明徳出版社、昭和三十七年)を読む。学生・修士時代以来、久しぶりに読める気分になった。実社会に出てからだから、社会の中に位置づけられた(位置づけられてしまった)等身大の自分で読まなければいけない。

 

まず、『論語』里仁第四から

「子曰く、富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其道を以てせざれば、是を得とも處らざるなり」。

*「處らざる」=「をらざる」

 

という語を紹介し、「貧乏と、しがない境遇は誰しもいやなことであるが、それが良心的に何ら恥づる所なくしてしかる以上、それも結構、別に逃げたり避けたりしないといふのであります」(55頁)と説き始める。。

 

李氏朝鮮儒者・李退渓や備中岡山の儒者山田方谷の言葉を紹介した後、論語に戻り、説いたのが冒頭の言葉。

 

「子曰く、位なきを患へず。立つ所以を患へよ。己を知らるること莫きを患へず。知らるべきを為すことを求めよ」(『論語』里仁第四)

 

私は地位が低いことを嘆いているが、自分の思想の根拠を掘り下げているだろうか、論敵から逃げていないだろうか、仕事を言い訳にして、思想の統一を怠っていないだろうか、現代に迎合し、その流れに乗ろうとしていないだろうか。

 

人に知られたいという気持ちを持ちながらも、大した業績もないじゃないか。

 

「己を知らるること莫きを患へず。知らるべきを為すことを求めよ」。

 *「莫き」=「なき」

 

安岡正篤氏の『朝の論語』を読んで少し安心した。また明日から苦境を脱する試みが始まる。

 

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4月の空