Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

藤原書店ブッククラブ入ると得なのか?ー令和2年9月13日(日)

藤原書店ブッククラブ入ると得なのか?ー令和2年9月13日(日)

 

藤原書店と言えば、1989年に創立ながらも、フランスの歴史家ブローデルや、その影響を受けた社会科学者のウォーラーステイン(「世界史システム論」で有名)、我が国で言えば、後藤新平関連の著作を筆頭に、E・トッド、アナール学派レギュラシオン学派などの作品も加え、文明論的な価値のある著作を出版している。

 

その藤原書店には藤原書店ブッククラブというものがあり、年会費2,000円を支払えば、PR誌の送付や、送料無料での商品購入、さらに購入した商品の10パーセントのFBC藤原書店ブッククラブ)のポイントが還元されるという。

 

準会員というものもあり、これは年会費不要で、5パーセントの還元が受けられるという。

 

本を置くスペースと購入するお金があれば、ブローデルの著作などたくさん購入したいと思っているから、少し考えて見た。

 

まず、会員になるのは年会費2,000円必要だから、10パーセント還元だとして、20,000円分の購入をしないと本代のもとが取れないことになる。ブローデルらの著作は1冊1冊高いから、本格的に読み始めたらそれぐらいすぐ行くだろう。準会員でもよい。

 

ただし、一番の問題は、購入後にポイントが還元されるということだ。

購入時に5~10パーセント割引ではない。それだったら一番良い。

 

楽天ポイントなどとちがって、FBCのポイントは藤原書店の本以外に使い道がないので、最後の購入の後に還元されたポイントの使い道がない。これがネックだ。

まあ最後は少額に抑えて購入すればいいか。

 

 

本を置くスペースと購入するお金があれば、入って見よう。

書評③・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第二章 モーリス・バレス

書評③・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第二章 モーリス・バレス

 

問題提起

我々の社会において文学者・音楽家・映画人らが反戦運動や反体制運動(石原慎太郎氏や安倍晋三氏に向けたものなど)などの政治活動をする光景は見慣れたものとなっている。それは主としてマルクス主義などの左翼思想や日本国憲法などの市民主義に基づいたものだ。我々はそれに慣らされており、文学や思想など自己の作品に基づく政治活動は左翼が本家本元で、保守派はこれらの行動を冷笑し、右翼は一部の思想右翼以外にそのようなことをする印象はない。だがそれは正しい捉え方なのだろうか?

アンガージュマン

第二章において福田氏は、「尊大な愛国的作家」、「反ドレイフュス派の指導者」として知られるモーリス・バレス(MAURICE BARRES)を取り上げる。バレスこそ、創作行為の絶対視から、テクスト外の政治活動の必然性を論じ、「探求としての小説」、「自我の自由を求めて行動する主人公の小説」を試み、近代における政治と文学の基本的なプロブレマティーク(問題群)の源流に位置し、アルゴンやマルローなど左右を問わない影響を与えた人物なのである。つまり「アンガージュマン」の元祖なのである。

アンガージュマンとは「知識人が自らの自由に基づいて選択したある特定の政治的立場から現実社会の様々な問題に対して積極的に関わること」(『岩波 哲学・思想事典』、p.51)

 

出発点:

『自我礼拝』三部作

バレスの出発点は、「自我のアプリオリな統一性の不在」という認識である。その問題意識が結実したのが、『自我礼拝』三部作なのである。だが、どのようにして内省的な自我から特定の政治的立場へコミットするアンガージュマンが生まれるのだろうか。

 

この三部作は「蛮族の眼の下」、「自由人」、「ベレニスの園」に分かれている。

『自我礼拝』のメインテーマ:「自我」「主体」の統一性の不在について。

「蛮族の眼の下に」:自我の即時的な存在の否定。

「自由人」:いかにして自我をつくられるか。自我の確立としての行動の必要性。

自我建設。特に美への感動を通じて、ヴェネツィアのような芸術都市を建設しようとする政治へ向かう。

「ベレニスの園」:アンガージュマンを通じての無意識との合一による自我の確立

(78頁)。この「無意識との合一」は、「死者と大地への合一」という民族主義的な愛国心となっていく。

考察

バレスにおいて「自我」とは「アプリオリかつ無条件に存在しうるものではない」(67頁)のだが、福田氏は「この認識はさらに進めば、近代西欧がその知性の前提にしてきた、主体としての人間、個性ある人間といった存在は、はたしてほんとうに存在しているのかという疑問へと結びつく」と指摘する(68頁)。

「近代的知と文化の前提である(「我思う、ゆえに我あり」という)統一性をもった、あらゆる認識の主体としての「自我」の実在と構造を直接問い直すことから一歩を踏み出したことは、極めて野心的であると同時に先鋭的な試みだった」(68頁)。

 

バレスにおいては自我の「アプリオリな」「統一性」が問題となっているという。「アプリオリ」なというのは分かりにくいが、経験に先立ってとか、あたかも超越した視点から眺めてという意味なのか、当たり前の前提とされている、自明なというぐらいの意味なのかは分からない。そしてそこで問題となっているのは自我の「統一性」だという。だたし、哲学的にその疑問の根拠がほとんど説明されていない。その点について私は、和辻哲郎デカルト批判に説得力を感じる。

 

デカルト自身は哲学の原理として「コギト・エルゴ・スム」で言い表された考察をしたのであり、その懐疑の対象から道徳を除外していた。したがって、社会革命を起こそうとした訳ではない。だが、その結論のインパクトは社会にまで及んだと考えてよい。

小林道夫氏はデカルトが『方法序説』で、人間精神の生まれつきの「平等」に触れて

「これはフランス革命のスローガン、自由・平等・友愛を構成することになる。実際に、二十世紀のあるフランスの政治家は、フランス革命の原理はデカルトにおいてはじめてみいだされるといっている。」(小林道夫デカルト入門』ちくま新書、2006年、75頁)と言っているし、「彼が示した思想上の革新が結果的に社会体制上の革命の源にもなったともいえるのである」(小林・同頁)とも言っているのを挙げておく。

 

和辻哲郎倫理学

デカルトの哲学を「近世哲学の出発点たる孤立的自我の立場」として批判する和辻はどのようにその主張を展開しているのだろうか。そのさわりだけ見てみよう。(引用は岩波書店和辻哲郎全集』1962年、第十巻より)

倫理学を「人間」の学として規定しようとする第一の意義は、倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである。この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。」(11頁)。

「この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。」(11頁)。

「個人の把握はそれ自身としては近代精神の功績であり、また我々が忘れ去ってはならない重大な意義を帯びているのであるが、しかし個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤謬のもととなるのである。」(11頁)。

「近世哲学の出発点たる孤立的自我の立場もまさにその一つの例にほかならない。」(11頁)。これはデカルトのことと考えてよい。

「いかに極端な孤立的自我の主張といえども、それが友人に向かって、あるいは教場において、共通の言語によって主張せられる限りはすでに人々の間に置かれた人間の問いである」(32頁)。

哲学史上の自我の問題のごときは、場所と時代のとの制約を超えた人間共同の問題であって、決して孤立的な我れのみの問題はあり得ない」(32頁)。

「たとえ人は己れの問いを心に秘めて絶対に他と語り合わない場合でも、その問いがすでに言葉や記号によって形成されている限りにおいては、本質的にはすでに共同の問いである。そうして人は言葉や記号によらずして考えることができず、したがって問いを持つこともできない」(33頁)。

「だから人はただ孤りで考えることはできるが、しかしそれは共同の問題をひとりで考えているのである。己れの問題を「心に秘める」という現象がすでにそのことを語っている」(33頁)。

 

和辻は言語の本質的社会性や確実なものを問う以前に存在する「間柄」から、「デカルト的自我」「孤立的自我」を迎え撃とうとする。

 

 まとめ

この後バレスはブーランジェ将軍支持の政治活動や、反ドレイフュス運動へと行動を続けていく。アンガージュマンしながらも、第三共和政を描き出した作品として評価の高い『国民的エネルギーの小説』三部作を生み出していく姿は圧巻である。

格闘家の前田明日氏は、福田氏との対談で、「新しいスイッチを入れてくれる人がいい」「相手を否定し、批判だけの人はダメ」という趣旨のことを述べていたが、バレスについての福田氏の叙述はまさに私にとって「新しいスイッチ」だった。

 

仏文の魅力

バレスの進めた作業の意義

「近代ヒューマニズムの前提と近代的知の統一性を問い直すことであると同時に、サンボリズムや文献学・言語学がひそかに進めていた作業を、表層にみちびきとりだし主題にすることで、ヴァレリー、ジイドからプルーストにいたる二十世紀文学の門戸を開け放つことになった」(68頁)。

 

このあたり丸山圭三郎氏のソシュール本や、橋爪大三郎氏らの構造主義の入門書など高校あたりから読んできたが、いまいち自分の中で興味が湧かなかったスポット。オッサンになって興味が湧くなんて悲しすぎるよ。意味ないよ。

 

その文学形式について

「「自我」の非連続性という認識を作品構造に直接反映させるという文学形式に対する意識は「骰子一擲」より十年も早い当時はもとより、J・ジョイスの文学的試みを知っている現在でも新鮮なものである。」(68頁)

マラルメの「骰子一擲」(「とうしいってき」)あるいは「双賽一擲」(「そうさいいってき」だったと思う。間違ってたらゴメン。)とも訳される作品なんて、もう金輪際縁がないものだと思っていたが、人生でまた浮上してきた。

「またこのような「自我」の分裂、即自的な主体の不在というテーマの文学的な追究とその形式・文体への反映という課題は、ジイドはもちろん、「テスト氏」や眠りから目覚めによる自我の発生のテーマに憑かれた詩人であり、晩年にはデカルトに取り組んだヴァレリー、そして自我の重層性とその記憶や資格との関係に、『失われた時を求めて』の大部分をあてたプルーストにまで引き継がれ、現代フランス小説の主流を形作った」(73頁)。

 

プルーストの『失われた時を求めて』のタイトルを見はするが、何が描かれているのか分からなかった世界に通路ができた印象だ。仏文への興味がふつふつと湧いてきて、今大学に通うなら仏文科に進むだろう(笑)。今度大学に入るなら、コンピューターサイエンスや経営学などもっと金になる学部を選ぶべきなのだが、自分の問題意識はこのあたりにあるようで、何度考えても、思想・哲学・文学系に行きついてしまう。 この領域の業績もないし、いま社会的に恵まれないのは、そのせいだと分かっているけれども・・・。

 

福田氏が浅田彰氏など、主としてフランスの現代思想に依拠した論者と対談するなど一目を置かれている理由が分かった。石原慎太郎氏への接近も本節で描かれていたような世界に理由があるのだろうか。また逆に高橋哲哉氏や鵜飼哲氏らの石原慎太郎氏に対する反発の背景にも文学的な理由がありそうだ。さらにまた大学では仏文を学んだ小林よしのり氏(確かサルトルの『嘔吐』を愛読していたと思う)らの活動に端を発する「歴史問題」への反体運動の主力が高橋・鵜飼氏ペアあたりから発生してきたのも本書を読んで理由があることだなと思うようになった(何年遅れで読んでるのだよ、ということだが・・)。また西尾幹二氏と福田氏との対決も見直してみたいなと思ってきた(そんなに思っていないが・・)。

そう考えると、現代日本の政治状況であっても、仏文の影響力はもの凄いということに気が付いた。

ビバ仏文!ビバ結婚(分かる?(笑))

 

ラートブルフに対する反証

フランス第三共和制に対する国家主義者の闘争の物語『国民的エネルギーの小説』(「デラシネ」「召集」「かれらの面影」の三部作)はきわめて高く評価されている作品であることは前述した。

この点私はモーリス・バレスの作品群は、大学時代に違和感を持ちながらも学んだ法哲学で、ラートブルフが言った「意識的な「郷土芸術」や「祖国文学」は芸術的にはつねに二流に止まっている」への反証になっていると思い、痛快だった。

*ラートブルフ(田中耕太郎訳)『法哲学東京大学出版会、1961年、184頁参照。

 

こういった文学に比肩しうるのは『一つの戦史』を著わした影山正治氏の著作群だろうか。その意味でこの後、福田氏が保田與重郎に加え、影山正治氏を論じていたら読んでみたいものである。

 

また、今回不完全ながらも「デカルト的自我」に触れたことで、久ぶりに興味がわいてきた。「近代的知と文化の前提」を問いなおす試みは、我が国にも存在した。仏文も大事だが、私としてはそのことの方がもっと大切なのである。

 

ただ、モーリス・バレスの文学作品は、ほとんど翻訳されていないので、フランス語で彼の作品を読めるようになることを、生きるの目標にしたい(本当?)。

『自我礼拝』の第二部、第三部や、『国民的エネルギーの小説』の三部作を読んでみたい。

 

フィヒテの著作は読んだことがないが、和辻が『倫理学』においてフィヒテの壁の問題を考察しているし、バレスの『自我礼拝』三部作はフィヒテの影響があったと考えられているようだから、そこは残された課題だ。

 

でも、文学、法哲学、思想、政治状況などを織り交ぜて記事を書いたよ。

死神ーブッダ『感興のことば』 令和二年八月十六(日)猛暑

死神ーブッダ『感興のことば』 令和二年八月十六(日)猛暑

 

ブッダ『感興のことば』

「花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。

花を摘むのに夢中になっている人が、まだ財産が集まらないうちに、死神がかれを征服する」

(215頁。岩波文庫、1978年。中村元博士訳による)

 

明日から仕事。このまま行くと、死神が我を征服する。

なんとなれば、「生命は死に帰着する」からである。

 

ブッダ『真理のことば』

「この容色は衰えはてた。病の巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する」

(31頁。岩波文庫、1978年。中村元博士訳による)

 

「生命は死に帰着する」「死神がかれを征服する」。

我が人生悔いだらけ。明日からまた底辺の労働である。

頑張ったところで、誰にも評価されぬ仕事である。

 

合掌

英語のススメ:ルーシー ヒューズ=ハレット(Lucy Hughes‐Hallett)の"THE PIKE" (『ダンヌンツィオ 誘惑のファシスト』)ー令和二年八月十四日(金)晴れ

英語のススメ:ルーシー ヒューズ=ハレット(Lucy Hughes‐Hallett)の"THE PIKE"(『ダンヌンツィオ 誘惑のファシスト』)ー令和二年八月十四日(金)晴れ

 

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ダンヌンツィオの伝記

 ダンヌンツィオの伝記を手に入れた。イタリア人の伝記なので、日本語版で読むしかないなと思っていたが、著者はイギリス人で、原書は英語。

しかも、日本語版(『ダンヌンツィオ 誘惑のファシスト』として柴野均氏の翻訳で白水社から刊行されている。*邦訳の装丁やタイトルはセンスが良いと思うが・・)は10,000円を超える値段。購入はためらわれる。

でも英語原書は、2000円ちょっと。神は私を見捨てておられなかった。

これまでの人生でやってきたことの中で、役立ったものと言えば、語学だろう。それによって、世界が広がるし、金銭的にも助かることが多い。

グローバリズムとかで奨めているのではない。こういう本が、自分の収入でも買えるからだ。英語を学んでみよう。そのための入門書を書く予定である。

アディオス。

 

 

 過去記事:英語の利便性ー洋雑誌

book-zazen.hatenablog.com

 

I got a copy of D'Annunzio's biography. I thought I'd have to read it in Japanese because it's a biography of an Italian, but the author is British and the original book is in English.

Moreover, the Japanese version ("D'Annunzio: The Temptation of Fascist ", translated by Hitoshi Shibano and published by Hakusui-sha, is also available in Japanese translation. The Japanese translation is priced over 10,000 yen, though I think the cover design and the title of the book are cool.) I hesitated to buy it.

But the original English book is a little over 2,000 yen. God has not abandoned me.

If there's one thing I've done in my life that has helped me, it's languages. It expands my world and often helps me financially.

I'm not recommending this for globalism or anything. It's because these books are available on your own income. Let's learn English. I plan to write a primer for it.

Adios.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

書評②・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第一章 アルチュール・ド・ゴビノーについて

書評②・福田和也氏『奇妙な廃墟ーフランスにおける反近代主義の系譜とコラボトゥール』(国書刊行会、平成元年) 第一章 アルチュール・ド・ゴビノーについて

 

第一章 アルチュール・ド・ゴビノー(p.34~

「コラボトゥール」とは

福田は小論の課題を次のように規定する。

「第三共和制フランスの敗北に際しての機会主義者としてではなく、一群の基本的な思想、つまり大革命以来のヒューマニズムを中核とする近代的な諸価値や政治体制を否定する思想を共有する政治的文学者たちとして考察すること」(p.34)。

 

そのためにまずフランスにおける反近代主義の源泉を訪ねようとするのである。

その際に取り上げられるのが16世紀以来の近代批判を射程に収め、ニーチェやブルクハルトに比すべき19世紀の思想家アルチュール・ド・ゴビノーを取り上げるのである。

 

1.問題提起

(1)今村仁司編『現代思想を読む事典』(講談社、1988年)

今村仁司氏編集の『現代思想を読む事典』の「人種差別」の項目には、アルチュール・ド・ゴビノーは「ナチズムの人種政策を準備した人物」として名前が挙げられている(337頁。項目執筆者は桜井哲夫氏)。果た して福田氏は、この点をどのように扱っているのだろうか。

 

(2)山内昌之氏『近代イスラームの挑戦』(中央公論新社、2008年。原著は1996年刊)

フランス人アルチュール・ド・ゴビノーは、同じくフランスの貴族で政治家のアレクシス・ド・トクヴィル(『アメリカの民主主義』の著者)の知遇を得て、フランスの外交官になった。

私はアメリカのブラック・ムスリムやエジプトのムスリム同胞団への興味、そして何より我が国近現代の人物とイスラム社会への興味から、山内昌之氏『近代イスラームの挑戦』を読んでいた。そこにおいてトクヴィルは、自国における自由主義的態度を保持する反面、植民地に対して自国に対するのとは異なる二面性を見せる。

イスラーム世界で植民地主義者であることは、本国で自由主義者として受ける評価と矛盾しない」(80頁)

その際に引用されるトクヴィルの書簡は「アルチュール・ゴビノー」に宛てたものだったことに今回気が付いた。山内氏が引用するのはイスラム教を退廃と捉える見方のものであった。

その著作を実際に読み通した人は教員も含めてそう多くないにしても、トクヴィルと言えば、政治学、法学方面では重要人物なのである。

福澤諭吉を引き合いに出して、山内氏は言う。「西欧資本主義の近代性とは、ヨーロッパでは個人の進歩や自由を象徴し、イスラーム世界ではほかのアジア・アフリカと同じく革新や開化の名において不平等や圧迫を体現したことも忘れてはならない。トクヴィルは、この二面性の落とし子でもある。中国や朝鮮に対する認識を考えあわせると、福澤諭吉にしても同じ傾向を帯びていたといえるだろう」(89頁)。

 

2.ゴビノーの特徴

アルチュール・ド・ゴビノー(1816-1882)は、フランスのボルドーに生まれた。1835年にパリに出て、前半生を物書きとして過ごし、アレクシス・ド・トクヴィルの知遇を得て、後半生を外交官として過ごした。イタリアのトリノで一人寂しくなくなった人物である。また東洋学者(オリエンタリスト)としての側面があり、著作に『中央アジアの宗教と哲学』、『ペルシア史』、『アジア三年』。小説『アディラード』『プレイヤード』などがある。

・反中央集権主義・反官僚主義

ドイツ帝国と相容れない

・貴族マニア:名前に貴族を意味する”de”を付けた。

・反普遍主義・反近代市民社会、画一主義

・中東など非西欧文化圏への興味

『楔方文字論』などの著作もある。

・西洋では、16世紀イタリアに傾倒

傭兵隊長バルトロメオダヴィアーノなど、出自に関係なく、一種独特の選ばれた「徳」(vertu)を持った人物を高く評価する価値観を持つ。そのような選ばれた人物を「王の息子」と表現している。近代国家成立後、同質化した大衆から自己を区別するスタンスを好む。

 

近代批判の射程は、ルネサンス以降の西欧世界にも及び、単なる時事問題の批判者ではないのである。

 

3.『人種不平等論』

ゴビノーは今日「人種主義」の発明者として悪名を被っており、その原因がこの著作である。しかし、その見解は成立しないと福田氏は主張する。そこで以下引用とともに、福田氏の説くところを見ていく。

 

位置づけ

「『人種不平等論』は、世紀末の小説家としてのゴビノー像がクローズアップされるまでは、アルチュール・ド・ゴビノーの名前とまっ先に結び付けられてかれのイメージ形づくっていた主著である」(44頁)。

「『人種不平等論』の著者としてのゴビノーは、いまだに一般的には二十世紀最大の災厄のひとつである人種主義(racisme)の祖としてしられ、またヒトラーやローゼンベルクらのナチズムの人種政策に決定的な影響を与えたと考えられている」(45頁)。

 

人種主義について

福田氏は、『人種不平等論』の梗概を示した上で、次のように言う。

「ゴビノーは各人種それぞれの特質について指摘し、またその人種的特質がそれぞれの文明にどのような形であらわれたかについて、テクストのほとんどのスペースをさいて論じているが、各人種間の価値の上下や、なかんずく白人種やアーリア人種の優越といった価値判断は全くおこなっていない」(46頁)。

「「白人種は地表から消え去るだろう」と断言しているゴビノーとは全く相容れない」(48頁)。

 

黒人について

ゴビノーは「白人至上主義」だったのだろうか。

「ゴビノーは黒人種を人類におけるディオニソス的要素の極として捉え、アポロ的な極である白人との混血が「芸術家」にとって最も幸福な結合であり、また黒人の血が「ギリシア人には詩と彫刻を、イタリア人には感情と音楽を」もたらしたのだと語っている」

 

アポロとディオニソスというのは、ギリシア神話に登場するもので、例えばニーチェの『悲劇の誕生』を論じた箇所で永井均氏は「アポロンは、光あふれる明晰な造形芸術の精神であり、ディオニソスは、深くほの暗い非造形的な音楽の精神である。アポロンが昼であれば、ディオニソスは夜、アポロンが理性の象徴であるとすれば、ディオニソスは衝動と情念の象徴である」と説明している(『これがニーチェだ』講談社現代新書660、1998年)59頁-60頁参照)。(ゴビノーが、ニーチェやブルクハルトに通ずるものがあると理解してきたから、あえて永井氏のニーチェ本を持ち出した。)

もちろん人種によって一義的にその特徴を定めることはできない。ただ、類型的な把握をしているのだろう。

 

植民地帝国主義について

ゴビノーは、我々にとって興味のあるエジプトのついてもリアルタイムで、コメントしている。

「ゴビノーは一八六五年、テヘランへ赴任する途中エジプトに立ち寄ったとき、瞥見したイギリスの植民地政策に憤激し、このような下劣な連中に高い文明をもった民族を支配させていることからも、神には正義の観念が欠けていることが分かる、と怒っている」(47頁)。

このようにヨーロッパ人による植民地支配をそのまま肯定しているとは言い難い。

 

キリスト教について

ゴビノーはキリスト教を絶対視して、他の宗教を下位に位置付けていたのだろうか。

「もともとゴビノーは西欧キリスト教文明を、アジアの宗教の一ヴァリアントにすぎないと軽視していた」(47頁)。

そして恩のあるトクヴィルに対しても、以下のように述べている。

「ゴビノーのほうは、トックヴィルの提唱したキリスト教市民社会の融和と連帯の根本に据えたデモクラシーの可能性に関して、オリエント中東の宗教・哲学を視野におさめている自分から見ると、キリスト教もまたアジア的宗教の一形態にしかすぎず、『聖書』はギリシア哲学、アレクサンドリア派の影響のもとに書かれたユダヤ教テクストの寄せ集めにすぎないので、自分は到底信じることはできないと書き送っている」(41頁)。

⇒ゴビノーの近代批判、ヒューマニズム批判は、ニーチェキリスト教批判に通ずると福田氏は言う(51頁)。私もドイツ語が第二外国語なわりに、断片的にしか知らなかったニーチェ、ブルクハルト的路線が今ならわかるような気がしてきた。要するにそういう人物だったのだな。

 

『人種不平等論』における「不平等」とは

ここでは「人種不平等論」にいう「不平等」とは何かが説明される。

「人間のさまざまな文化や文明におけるあり方を、ある一つの、西欧近代の視点からのみ、同質のもの均等のものとして捉え、そこに根本的な差異を認めず、人間は誰もが「平等で同質」なものであるとする、リベラルでデモクラットな普遍主義、近代ヒューマニズムの傲慢さに対して、人間が相互に保持している差異や非同質性を主張する「不平等」inegalite=非均質なのであり、人種間の価値は支配民族と被支配民族といった人種間のヒエラルキーの「不平等」なのではない」(47頁。太字引用者)。

 

世界を単一化するタイプの「グローバリズム」や、「多様性」なる概念が、村社会の中で、「みんなで一緒に」異口同音に唱えられる我々の社会でも、聴くべきものがある。

 

「人間」について

「ゴビノーは、それぞれの人種、ひいては個人を「人間」という虚構の同一性のなかの同じ尺度によってはかろうとすることがそもそも近代西欧の、ひいてはヒューマニズムの病であり、他の民族の特質と個々人の認識しがたい差異を識り認めようとしないことが、世界的には植民地帝国主義、またヨーロッパ近代の一国家の内部ではそれぞれの地方の文化的多様性を認めない中央集権という災厄ひきおこしているのであると考えていた」(47頁)。

ゴビノーは、近代の主体に対する反ヒューマニズムに位置づけられる思想の持主であり、反中央集権国家論者なのである。

 

結論

『人種不平等論』が「人種主義」の書であるという「評判」に対して、福田氏は言う。

・「内容からいえば、ゴビノーの他の著書と同様に、『人種不平等論』は全く反ユダヤ主義的な書物ではないし、またいわゆる人種差別的な「人種主義」の書物でもない」(46頁)。

・福田氏はゴビノーのことを「人種主義者」「反ユダヤ主義者」ということを肯定する研究者はいないとも言う。「これまで見てきたように実証的な説明はすべて成立しない」し、「内容的にはナチズムと結びつくところのない」ものであると指摘している(51頁)

・「白人種の優越性や、紙が与え賜うた支配民族としての本質、西欧文明の普遍的な価値と言ったいわゆる「人種主義」のいかなる論拠とも相容れない」(49頁)。

このように結論付ける。

ではなぜ、ゴビノーのこの本がナチズムの源流に位置している「人種主義」などと言われるのだろうか。

 

濡れ衣の原因

ゴビノーの著作は有名だが中身が読まれていないという基本的事実を別にして、以下のような理由を挙げる。

(1)ドイツとの関係

ゴビノーはワーグナーのサークルと関係があり、これがナチズムに影響を与えたとする根拠となっている。ただ、グループのリーダー格のH.S.チェンバレンが、ゴビノーを評価していなかったことが挙げられる。そもそもフランスの人種主義者はゴビノーだけではないのに、彼を生贄にすることで、他から目をそらしている。

(2)近代文明への敵意

福田氏は、ゴビノーの「殺意」まで感じるような近代に対する「否定の暗いエネルギー」がホロコーストによって顕在化した近代ヒューマニズムの危機に際して、何事かを感じさせたのではないかと推測している。

(3) その他

1940年、ドイツ占領軍への迎合として、『人種不平等論』が再版されたり、『人種主義の発明者、ゴビノー伯爵』という伝記が、ローゼンベルクの『二十世紀の神話』と一緒に出版されたりして、内容についてまで誤解を与えた。

 

とはいえ、生前アメリカの反奴隷解放のグループから接触されたとき、「黒人種を賞賛し、白人種を非難している部分さえあるこの書物がどうして人種差別運動の助けになるのか」とゴビノーは困惑したと福田氏は書く(52頁)。

 

いずれにせよ今日我々がゴビノーを「人種主義」として批判するなら、まずその著作を正確に読んだ上でないといけないと言える(ただし、私はフランス語は読めないが)。

 

4.さらなる課題

福田氏のこの本を読むことで、俄然フランスに興味が湧いてきて、高校の時に買った橋爪大三郎氏の『はじめての構造主義』(講談社現代新書、1988年)を読み返してみた。(断捨離を生き延びていたようである。)構造主義なので、中心はレヴィ・ストロースの話である。一読後、レヴィ・ストロース(大橋幸夫訳)『野生の思考』(みすず書房、1976年)を流し読みした。するとここにもゴビノーの名前が出てきて訳注には、

 

「ゴビノー伯爵Josepf Arthur, comte de Gobineau(一八一六-八二)―フランスの外交官、文化史家、小説家。とくに有名なのはその『人種不平等論』四巻(一八五三-五五)で、書く人種の特徴は生理的に決まっているものであり、したがってその精神能力の優劣も根本的には変えられず、それは歴史で証明されるとする。世界で最も優秀なのはアーリア民族であり、なかでもベルギー、フランス北部、英国に住む金髪長頭のゲルマン民族でるとした。この理論はヨーロッパの人種的偏見の大きな拠り所となり、とくにナチス・ドイツに民族理論に影響を与えとされる。フランス革命はこの展望の中で否定的に評価される」(訳注352頁)。

 

あくまでも「訳注」における記述だが、大橋氏はレヴィ・ストロースを中心に訳業のある人物だし・・・・・。自分で読まない限り、どちらが正しいのか確証が持てない。

 

ちなみに「歴史と弁証法」本文でレヴィ・ストロースが言っていることを私はまだ理解できていないが、

「ゴビノーが想像したフランス革命の反歴史は、彼以前にフランス革命の考察が行われていた面においては矛盾するのものであるが、別の新しい面に位置すればーゴビノーは面の線額がまずかったがーその反歴史は考え得るものとなる。(この反歴史が正しいという意味ではない。)」(レヴィ・ストロース『野生の思考』みすず書房、1976年、316頁)。

 

・ジェームズ・W・シーザー著『反米の系譜学』(ミネルヴァ書房、2010年)

トクヴィルについて、掘り下げられなかった。特にジェームズ・W・シーザー著『反米の系譜学』(ミネルヴァ書房、2010年)にゴビノーのこと及びトクヴィルとゴビノーの論争を扱った章が存在することを知った。ただし、コロナ問題で大学図書館に行くことができないので、残念ながら参照できなかった。

 

・柳沢史明他編『混沌の共和国 』(ナカニシヤ出版、2019年)
『混沌の共和国 』にも長谷川一年氏の「ゴビノーとフィルマン:二つの人種理論」の章があり、ぜひとも読みたいのだが、大学図書館に行けない関係で、参照することができなかった。長谷川氏には他に論文「レヴィ=ストロースとゴビノー――レイシズムをめぐって」(『思想』1016、2008 年12 月)があるようだが、上記の事情で参照できなかった。

 

 

結局、自分でフランス語を学ぶしかないなと感じた次第である

 

(予告)

ゴビノーは、政治に侵されない領域として文学に取り組んだ。そしてその影響力は限られたものだった。反近代思想をもとにアンガージュマン=政治参加が問題となってくるのは、この後のモーリス・バレスからなのである(続く)。