Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

松浦光修氏『明治維新という大業』(平成三十年、明成社)

松浦光修氏『明治維新という大業』(平成三十年、明成社

 

 

松浦氏のこの本を待ち望んでいた!

 

昨年、明治維新から150年ということで、特にその「負の側面」を強調するような新聞広告(雑誌広告)がやけに目に着いた。原田伊織氏の「明治維新という過ち」論が代表的なものなのだろう(読んではいないが)。例えば、SAPIOは2017年9月号で「明治維新150年の過ち」という特集を組んだ。その目次には原田伊織氏の論をはじめ、亀井静香氏の西郷隆盛靖国神社論、小林よしのり氏の「明治憲法薩長閥押し付け論」などが並んでいる。「目次」と言ったのは、他でもない。私は未だに読んでいないからである。

 また近年、新聞などでみる断片的な発言を見る限り半藤一利氏、保坂正康氏らの「昭和史」などにも違和感があり、本を買って読むことはなかった。今の自分の貴重な時間とお金を費やしてまで読むべきものだとは思わなかったからである。論破するために時間をつかったり、好きでもない本を読んでいらだつよりも、自分の共感できる言葉を読みたい。今の自分は強くそう思っている。

 

とはいえ、明治維新150年の年がこれかと思うとなさけなく、忙しい日々の中にも、どこかやりきれなさを抱えていた。

 

ところが、どういう経緯だったか、松浦光修氏の『明治維新という大業』が出版されていることを知った。さすがは松浦光修氏と思い、早速購入しようと思ったが、なかなか在庫のあるサイトが見つからなかった。なんとか手に入れて、読み始めた。

 

松浦光修氏のこと

 松浦光修氏(昭和三十四年、熊本市生まれ)は、皇学館大学国史学の教授である。日本思想史が専門。著書に『大国隆正の研究』や『やまと心のシンフォニー』、『いいかげんにしろよ日教組』などがある。南洲翁遺訓や留魂録の現代語訳などの著作もある。

 

私はかつて皇学館大学オープンキャンパスに行ったことがあるが、模擬講義の一度目は国史学科の岡野友彦氏(中世史が専門で、『源氏と日本国王』などの著作がある)、二度目が松浦光修氏で、題目は「本居宣長が考えたこと」であった。

 

二度というのは、私は年を行ってから大学入学を考えて、中途半端な時期に思い立ったものだから、その年の受験ではなく、次年度の受験を計画したから、二度行ったのである。もうそれから10年以上が過ぎた。とはいえ、あの頃はまだ20代中ごろだったのであり、今に比べるとさすがに若かった。伊勢にある皇学館大学。夏のオープンキャンパスおかげ横丁なども行った。もちろん伊勢神宮も。まだ子供みたいなものだった。幼かった自分。

 

皇学館の売店で、『大国隆正の研究』、『いいかげんにしろよ日教組』など買ったと記憶している。でも、もしかしたら伊勢に旅行に行ったときにも売店に行ったのだったかも知れないから、合計3回ぐらい行ったのだろう。

 

入試には合格したが、諸事情あって別の大学の法学部に進学した。そして、文学系の大学院の修士課程を出て、社会人として低空飛行の人生を送っているのである。若い頃を思い出すと涙が出そうになる。頼りなかった自分。挫折や失敗だらけの自分。いつも低空飛行の自分。これから先もおそらく低空飛行の自分。

 

(以下、作成中。しばらくお待ちください。記事作成に時間がかかるかも知れないが自分に課題を設定するという意味でも、仮の章立てを書いておく。)

 

松浦光修氏『明治維新という大業』(平成三十年、明成社

副題は「大東亜四百年戦争のなかで」である。林房雄氏の「東亜百年戦争」論などは、断片的に聞いたことはあった。佐伯啓思氏の講演の記事でもそのことは書いた。今回松浦氏は、明治維新が大業であるという理由を、戦国時代のポルトガル・スペイン人 の来航から大東亜戦争までを視野に入れて論じるのである。

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はじめに

そもそも本書は、「なぜ、日本は一度も植民地にならなかったのか?」という問いに答えようとしたのものであり、その際「明治維新とは何か」という問いが避けて通れないものであり、その場合、我が国では明治維新という形で結実することになった十六世紀以降の世界史の流れをどう見るのかという問題に行きつくのだと言います(「はじめに」)。

 第一章 「維新の大業」を消そうとしているのは誰か?

この章で印象に残ったのは山川健次郎のことだろう。

「元白虎隊隊士で、維新後、アメリカのイェール大学で物理学を学び、帰国して日本人初の物理学教授となり、やがて東京帝国大学の総長になった」(47頁)

 

松浦氏は、新島八重原敬らを挙げた後、ある外来の「歴史観」が、明治維新を批判し始めたという。その「歴史観」こそが、共産主義の「歴史観」たる「唯物史観」である。

 

第二章 豊臣秀吉と”大東亜四百年戦争
第一節

ここではアメリカ大陸でのスペイン人の行為について、ラス・カサスの報告を紹介する。この点は特に目新しくない。出典は思いだせないが、既に知っていた。 

第三章 「尊王」とは何か?「攘夷」とは何か?

第一節 尊王とは何か?-楠木正成の「忠」と「革命」の克服(p.140)

後醍醐天皇の信任を得た者が数多くいた中で、何故、楠木正成が重要なのかを論じる。

 第四章 「五箇条の御誓文」への道
 第一節

 

・なぜシオランが選ばれたのか?(p.251)

この点は少し疑問だ。

第二節 「盛んに経綸を行うとは」

開明派ではあるが、欧化主義者ではない横井小楠(よこい しょうなん)の提言「国是三論」を引き合いに出し、「富国」や「強兵」を論じる。

*「富国」は私のいま最も関心のあるテーマである。これは私の人生とも重なるからである。日本経済と連動している社会の中で生計を立てて行く。

経済活動が大切であるのは、外国から侮りを受けないためである。

 

松浦氏の小楠評

「小楠の持ち味は、その「高調子」の考え方(勝海舟の評)と、あくまでも″時代の枠組み″のなかでの政治・経済の運営であったか、と思います。″時代の枠組み″そのものを組み直して、まだ誰も見たことがない未来を創造していく・・・・・・というタイプの仕事には、たぶん向いていたかったのでしょう」(265頁)

 

私なりに付け加えると、明治時代には松浦氏の故郷たる熊本の新鋭キリスト教徒らの集まりである「熊本バンド」の横井時雄や横井時敬ら小楠の子に加え、「早稲田の至宝」浮田和民や徳富蘇峰らが同志社大学を経て、それぞれの道を歩むこととなるがこれはまた別の機会に書いてみたい。

坂本龍馬暗殺について(p.278)

松浦氏は、磯田道史氏の『龍馬史』の「会津藩が見回組に命じて行った政治的暗殺」という見解を挙げた上で、よほどのことがない限りこの結論は動かないとしている。

 

 第五章「五箇条の御誓文」の発布(p.286~)

西田幾多郎昭和天皇への御進講(p.291)

松浦氏は「肇国の精神」に対する西田の見解を「わが国においては、原点に回帰すること、イコール新しい時代を創造すること」であると解釈し、「卓見」であると評価している。

 

私が見聞した限り、皇室や大日本帝国に関する現代日本の西田哲学の研究者の主流の評価の仕方は、

(1)たとえ当時の右翼・日本主義者らと同様の言葉を用いていても、使われていた言葉を別様に善導する「意味の争奪戦」をやっていた。

(2)そのように解釈しても、かばいきれない時は(ということは、つまり、「日本主義者」なるものを嫌悪の対象としている自分たちの価値に合わない時はということだが)、西田の汚点として批判する。

という二段構えで、読んでいるのである。もう西田幾多郎に関する書籍や論文のコピーをほとんど捨ててしまっているので、出典を明記できないから「私の見聞した限り」としておく。

 

松浦氏に限らず、佐伯啓思氏も西田幾多郎を高く評価している。私は佐伯氏の西田本を読んでいないから何とも言えないが、松浦氏や佐伯氏らの「日本に対する姿勢」は、現代の西田哲学研究者の主流とは逆の立場ではないかと私は思うのである(私は大歓迎であるが)。その場合、具体的なテキスト(論文・原典など研究の対象となる著作物を彼らは「テキスト」ないし「テクスト」と呼ぶ)を読解している主流派に較べて、西田哲学を持ち出すことについて説得力を欠くことになるだろう。

 

佐伯氏は、西部邁氏直系の「保守思想」であるし、徳富蘇峰平泉澄を高く評価する松浦氏は戦時中に西田哲学や京都学派を攻撃対象とした日本主義者らに強い親和性を持っているように思われる。そうすると、いかに哲学研究からの関わりからとはいえ、マルクス主義系の出版社と関わりのある人たちもいる西田哲学研究の主流派やその周辺とは「日本に対する姿勢」の点で、相容れないのではないか。

 

研究室内の発表で「大東亜戦争」という呼称を私が使った際にも、「大東亜戦争という言葉は使ってはいけないのではないか」という若手の西田哲学研究者がいたぐらいである。「皇学館大学」だの「大東亜四百年戦争」だのと言った言葉が使われている本など、検討の対象外にされるのがオチである。

 

私が松浦氏を評価する最も深い理由は、氏の「日本に対する姿勢」の美しさにある。学識やテキスト読解力などであれば、他にもゴロゴロいるだろうが、「日本に対する姿勢」に共感できるのである。

 

 

 

松浦氏の本と直接の関係はないが、松浦氏の本を読んで呼び戻された/呼び起された関心を以下の著作と結び付けて行きたい。なんだったら著者らは反発しあう立場とも思われる。だが、私は自分の判断でおもしろいと思ったものについては、素直におもしろいと認める。

 

羽田正氏『興亡の世界史15 東インド会社とアジアの海』(講談社、2007年)

2年ほど前にこの本を購入した動機は、東インド会社のことを知りたいと思ったからである。東インド会社のことを知りたいと思ったのは、満州鉄道株式会社の調査部に関する本を読んだからである。そんなものを読んだのは、社会に出て自分が本当にしたいと思ったのは、シンクタンクや研究所などでの調査やレポートや任務などであり、単なる経済レポートではなく、満鉄調査部のような梁山泊で政治・経済・思想などが入り混じったおもしろい職業がいいなと思ったからである。もう手遅れであるが。出典をメモしていないが、満鉄は東インド会社のような機能を持った存在として作られたと何かで読んだ。だから俄然、東インド会社のことが知りたくなったのである。

 

一読後、これは「当たり」本だと思った。著者とはおそらく政治・思想などの考えが異なるだろうが、それにしても一読に値する本なので、いつかレポートしたいと思っていた。だが、なにぶんこの本を再読しまとめるための時間がとれなくて、先の延ばしになっていた。松浦氏とは思想傾向などは異なるが、私としては是非とも紹介したい本だと思った。東インド会社の本というよりも、近代世界システムの本と言ってもよいのではないか(私はまだウォーラーステインの本を一冊も読んでいない。今まで何をしてきたのだろう。でも課題をあぶりだすためにも記事を書いているのだから、お金と時間に都合をつけてウォーラーステインも読んで行きたい)。

 

網野徹哉氏『興亡の世界史12 インカとスペイン帝国の交錯』講談社、2018年。元々は2008年刊行)

  インカ帝国の歴史を詳しく知りたいと思ったことはないだろうか。我が国に鉄砲が伝来したとされる1543年より約10年前、南米のインカ帝国は滅亡した。戦国時代以後、我が国の歴史でもキリシタンをはじめとする外国人が多く登場するようになる。その時代、地球の反対側にあったインカ帝国はスペインからの征服者ピサロに滅亡させられていたのである。

 本書はインカ帝国を含むそのあたりの歴史を教えてくれるセクシーな本である。最初、図書館で借りて読み、新刊本を探したが、出版から時間が経過していたのかして、手に入らなかった。この度、講談社学術文庫に収録されることになったので、多くのひとが手に取りやすくなった。

 本書を含め「興亡の世界史」シリーズは、私にとって「当たり」であった。知的好奇心を満たしてくれる。