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書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

国友一貫斎は平田篤胤の門人!ー『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』を読んで

『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』を読んで

 

 日経新聞で読み、興味を持った国友一貫斎。すぐさま現地を訪ねた。いまできる精一杯、感動する方向へ踏み出した。現地で手に入れた論文集兼展示図録『江戸時代の科学技術』を読み、考え、今後の自分自身の勉強や研究に活かすべく、レポートを書きます。

 

はじめに

大学で学んでいて感じる疑問のひとつに、そこで学ぶ学問のほとんどが西洋近代由来のものであるということだ。なぜなのか。一体西洋の学問を取り入れる前には、どのような学があったのだろうか。どの程度まで「発達」していたのだろうか。こういう疑問を感じたことはないだろうか。

 

・清水幾多郎氏は、『論文の書き方』岩波書店、1959年)の中で、興味深い体験を述べている。自国の言語で大学などの高等教育が営まれ得るか否かという問題に触れた後で、経済学について以下のように述べている。

 

「かつて、私は徳川時代経済書数篇をまとめて読んだことがある。私が読んだものを年代順に挙げると、太宰春台(一六八〇年ー一七四七年)の『経済録』(一七二九年)、三浦梅園(一七二三年ー一七八九年)の『価原』(一七七三年)、海保青陵(一七七五年ー一八二七年)の『升小談』(一七八九年より稍稍後)、中井履軒(一七三二年ー一八一六年)の『均田茅議』(?)、佐藤信淵(一七六九年ー一八五〇年)の『物価余論』(一八三八年)、神田孝平(一八三〇年ー一八九八年)の『農商辯』(一八六一年)。」(162頁)

 

「最初の太宰春台の『経済録』から最後の神田孝平の『農商辯』までの間には約百三十年の時間がある。そして、この期間は、西洋で古典派経済学が成立し、発展し、完成するのに必要であった九十年という時間を含んでいる」(同頁)。

 

「ところが、古典派経済学が成立し、発展し、完成した期間を軽く包み込む百三十年ではあるが『経済録』から『農商辯』まで読んで行く私にしてみると、終始同じ濃い液体の中で呼吸しているような感じがする。」(162頁‐163頁)。

 

「それが提出している特殊な諸問題の実践的解決法であるからである。何処まで行っても、現実的、具体的、特殊的、個別的、実践的である。(中略)現実の所与を突き抜けるというか、とにかく、抽象という乾いた世界へ向かって冒険を企てていない。」(163頁)。

 

「乾いた観念のシステムは、日本の経済論の内部からでなく、やがて、西洋から輸入された経済学説によって提供された」(163頁)。

 

グローバル・レベルで話題となる最先端の本を翻訳している翻訳家であり、評論家でもある山形浩生『新教養主義宣言』晶文社、1999年)にも、「Ⅲ.ぼくたちの文化のあり方を考える」の中に「日本文化のローカル性を超えるためにー青空文庫から読み取れるもの」という一文があって、これに関係した箇所がある。

「2.ぼくたちの文化的な根っこということについて」

デカルトくんの文はいまだにいろんな人に直接影響を持っている」(163頁)。

アダム・スミスくんを読んで見ると、まあちょっと古びてはいるけれど、でもいまも十分そのまま通用する」。

「ファラデーくんの『ろうそくの科学』は、いまそのまま小中学生の自由研究にできるだろう。そこにはある科学的な手続きのベースがあるし、それはいまの世界を動かす考え方にも直結している」(164頁)。

「ところが日本の場合だとどうだろう。「方丈記」はすばらしいとか、「枕草子」が、諸行無常のなんとか、というのはある。でもそれは思考への影響というより、もっと感性として日本チックねー、というものじゃないか」(同頁)

本居宣長くんの本を読んで、現代にそれが影響していると思えるだろうか。絶対ないね。もちろん、じじいが本居宣長を読んでなんのかのと理屈をこねることはある。『現代に生きる宣長』とかいう本を書いちゃったりも、できなかないだろう。でもそれは、重箱の隅をつつけば似たところもあるなあ、という話だ」(同頁)。

「あるいは安藤昌益くんが書いたものを読んでも、こういう変なことを考えていた人もいたんだなあ、というくらい。それが現代的な意義をもっているだろうか。くやしいけど、いない。いまかれの本をよんで、「土活真」とかいってなにかエコロジスト的な思想の萌芽を見る、というのはあるだろう。でも、それが現代の(ぼくのきらいな)エコロジスト的なお題目に影響を与えているとは絶対にいえない」(165頁)

 

「日本の青空文庫に入れるような文章で、いまデカルトくんやニュートンくんなんとかとためをはるような現代的な意義をもった文章って、あるか?ないだろう。一つも」(165頁)。

 

「これは結局は、ぼくたちの文化がやっぱりローカル文化だ、ということでもある。支那文化のローカル文化だったり、欧州文化のローカル文化だったり。それはとてもくやしいといえばくやしいんだけれど、でも、そこを無視して話は進まない。それを脱することができるか?」(167頁)

 

山形氏は、デカルトニュートンらと異なり、日本では現代の思想にインパクトを与える思想家がいなかったと指摘し、結局日本は「ローカル文化」に過ぎないと嘆いている。

「日本の当時の気分を描いたようなものはあっても、いまに至るものの考え方を決定的に変えたと思えるものがないこと」(166頁)。

 

 

中江兆民 「わが日本、古より今にいたるまで哲学なし」

結局 、我々は中江兆民が言った「わが日本、古より今にいたるまで哲学なし」という問題にいまも直面しているのである(河野健二編『日本の名著36 中江兆民』(中央公論社1984年)、364頁)。 

 

ここで兆民は「純然たる哲学」(同書、365頁)を想定しているのだろうが、私は今日、科学・哲学・数学などと呼ばれている領域における問題だと拡大解釈した上で、捉えたい。

 

もう長いことそのような事を疑問に感じ、多少は研究のまねごともしてきた人生であったが、すっかり生活に追われて、みじめな中年になってしまった。その分、人生に幅と深みが出たと思いたいのだが、学問探求が止まったままになっている自分を省みて、忸怩たる思いがある。

 

でも自分の生活を軌道に乗せるためにも、経済情報にアンテナを張っていないといけないから、日経を購読していた。良くも悪くも、お金があるところに文化やその情報も集まってくるみたいで、日経新聞の文化欄は結構充実している。ある日、特に上記の問題を意識せず新聞記事を読んでいたら、ピンと来た。これは何かあるなと。直接足を運んで正解だった。点と点とが結ばれて線となり、一つの方向を指している。その点についての記事を書きたい。

 

1.新聞記事「宇宙を眺めた近江の奇才」

記事では一貫斎について、「1世紀先の発想」、「江戸で才能開花」、「江戸の発明家として著名な平賀源内より功績は大」、「国学者平田篤胤ら多彩な専門家と親交を結び」、「空気に重さがあることに日本で初めて気付いた」、「月のクレーターや木星の2つの衛星などを観察し、詳細なスケッチを描き残した」、「伊能忠敬のように、その功績が広く知られるようになってほしい」などと表現し、私にとって興味を引かれるものであった。

特に科学的な功績と平田篤胤とのつながり。ここを知りたい。

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日経新聞で読んだのが2月6日。その週末三連休の真ん中の10日すぐさま現地を訪ねた。今できる精一杯、感動できる方向へと足を踏み出したかったからである。このまま立ち腐れたたくなかったからである。長浜はいい所であったが、それは1つ前の記事に写真とともに紹介してある。

 

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以下で私は、現地で手に入れた論文集(展示図録も含む)『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』を読み、考え、これからの自分の研究の方向性を考えたいと思う。

2.『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』について

長浜市長浜城歴史博物館編『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』(サンライズ出版、平成十五年)は、論文集と図録がセットになった書物である。鉄砲の里資料館の売店でまず立ち読みして、いくつかの疑問に答えてくれているこの本を一読するに値すると思い、購入した。

*なぜこんなことを書くのかというと、この年になると十数年にわたり記念館等で購入した図録の類があふれていて、しかも有効に活用できていなかったという反省があるからだ。だから、図録類については原則買わない。ただし、自分の将来に役に立つものは買うという基準を自分に課していたからである。

 

3.太田浩司氏の論文「平田篤胤と国友一貫斎」

この論文があることを確認して、本書を購入した。太田氏は市立長浜城歴史博物館の学芸担当主幹であるとのこと。

 読んでびっくり。一貫斎は平田篤胤の門人だったのである。しかもおもしろいことに、あの高山寅吉の隣に名前が載っているのである。寅吉というのは『仙境異聞』に出てくる「異界」に出入りしたことがあると称する子なのである(笑)。

 

同論文の小見出しを拾っていくと

平田篤胤のサークル(p.151~)

平田を神道国学の偏狭な国粋主義者と捉えるのではなく、古史・古伝説・文学・民俗学キリスト教・仏教・儒学・神仙道、さらには天文・歴数・地理・医学・蘭学・窮理(物理学)・兵学・易学にも造詣が深かった総合的知識人としてのイメージで捉えている。

この時点で兆民が「本居宣長平田篤胤などは、古い御陵をさぐり、古いことばを研究した一種の考古学者にすぎない。天地性命の原理にいたっては、およそわかっていない」(兆民・上掲書、364頁)と言っていることには捉われず、平田篤胤を多面的な思想家と捉えている点で評価でき、学ぶ点がある。

 

そんな平田篤胤が「好事家」から「科学者」とも言える人々との交流を持ったサークルがあった。一貫斎はそんなサークルの一員として、ある会合に加わった。それがかの有名な(私は未読だが、)『仙境異聞』なのである。

 

『仙境異聞』での一貫斎(p,152~)

・「仙境異聞」とは、文政三年(1820年)に、江戸に現れた天狗小僧こと高山寅吉との問答集である(152頁)。この問答集に一貫斎は、あの佐藤信淵と並んで「国友能当」という名前で登場する。わおっ!

*私は「異界」に出入りしたと称する寅吉に対して平田が非常に興味を持っていたことは、『古神道の本』(学研、1994年)の武田崇元氏の記述で知ってはいたが、なにぶん「異界」に興味がなかったので、おもしろい話だぐらいに思っていた。だが、今回は一貫斎を通じて、この本に触れるべき時が来たので、子安宣邦氏校注の岩波文庫版を購入した。

 

話を元に戻すが、太田氏は『仙境異聞』における一貫斎の科学的好奇心を高く評価している。一貫斎は、この「異界」から帰ってきたと称する寅吉に対して、雷、ハンセン氏病のことも含む伝染病、武器、異国襲来のことなどを尋ねている。

 

この点について太田氏は、「その多岐にわたる興味が、一貫斎の科学技術の根底にあったことを知るべきである」(153頁) 

宇宙も知る天狗寅吉(p.154~)

 一貫斎の本業は、銃の製作であった。寅吉が「空気銃」などについて触れたことに触発されたらしく、仙界の鉄弓からヒントを得たと考えられる弩弓を考案しているという。

いまで言うと、スタートレックドラえもんのアイデアを実現するようなものだろうか。

また、篤胤の方は、西洋の天文学の知識などを引き合いにだし、寅吉と議論しているが、寅吉は「あんたは本で見たんやろうが、ワイの方は近くで見てきたんやで」という感じで平田篤胤をいなしているのだから、笑える。

 

神鏡への賛文と書状(p.155~)

神鏡とは、光を当てると、その反射した先に文字や像などの模様が浮かび上がる鏡のことだそうだ(101頁参照)。一貫斎はこれを製作し、篤胤に報告し、賛文「真金の鏡に添ふるふみ」をもらっている。ここから篤胤と一貫斎の親しさが分かるとしている。

また、篤胤の方では、加賀前田家への取次ぎを一貫斎に頼んだり、神鏡の模様について梵字ではなく、御幣や榊などの神道的なものにするようにアドバイスしている。

 

篤胤と一貫斎の苦悶(p.157~)

篤胤から一貫斎への書状の中で、篤胤は自分たちは奇人・変人としか思われておらず、高く評価されていないとこぼしている。

 

太田氏は結びとして、「一貫斎の生涯を考えた場合、平田篤胤の影響は、今まで以上に大きいと言わざるを得ない」(p.157)。

「篤胤の科学・技術面の評価が高まれば高まるだけ、一貫斎への影響は大きいと考えた方がよいであろう」(同頁)

と述べている。

 

そうすると、一貫斎のことを調べるには平行して篤胤のことを調べて行かなければいけないことが理解できる。偏狭な人物としての平田篤胤ではなく、私の言葉で言えば、「ルネサンス的人物」「万学の才」としての平田篤胤を理解することが必要なのである。

 

巻末に付いている参考文献表には、荒俣宏・米田勝安氏『よみがえるカリスマ平田篤胤』(論創社、2000年)や子安宣邦氏の『平田篤胤の世界』(ぺりかん社、2001年)、平田篤胤著、子安宣邦校注『仙境異聞勝五郎再生記聞』(岩波書店、2000年)などが掲載されている。

 

今回上げられている本とはやや異なるが、数年前に別冊太陽で見たことがあった荒俣氏と米田氏の本を思い出した。荒俣宏・米田勝安編『別冊太陽 知のネットワークの先覚者 平田篤胤』(平凡社、2004年)。別冊太陽というのは、雑誌ぐらい大きい体裁で、主として日本の文化を紹介したグラフ誌のようなものである。竹久夢二とか白州正子とかそのあたりの雰囲気である。残念ながら、これは新刊で見つからなかったので、図書館で借りだした。

 

4.荒俣宏・米田勝安編『別冊太陽 知のネットワークの先覚者 平田篤胤』(平凡社、2004年)

荒俣宏は単なる物知りコメンテーターなどではなく、博物学的な興味を持った幻想文学などを物す作家である。米田勝安(まいた かつやす)氏は、平田神道家の第六代の宗家ということだ。母方の血筋が平田家であるとのこと。この2人の対談が冒頭に載っている。

 

対談:荒俣宏・米田勝安氏「いまよみがえる平田篤胤

 冒頭の荒俣氏の問題提起に私の言いたいことが書かれている。長くなるが引用させてもらいたい。

 

まず、荒俣氏の現状認識が語られる。

 

「日本は、江戸末期から、西洋に追いつけ追い越せということで、物質文明や科学的合理性を吸収し、ここまで良くやってきたと思います。ところがここに至り、経済、政治システムから精神的なことまで行き詰ってしまいました」(4頁)。

 

そのことが篤胤にどんな関係があるのだろうか。

 

「江戸末期からのこうした時代の流れの中で、西洋のものを受け入れてもいずれ行き詰まりがくるから、そのときに日本的なものを付け加えることで、新しい人類の思想を生み出そうということを考えた人物が、いままでの歴史の中にもいたのじゃないか。その代表的な人物が平田篤胤なんです」(同頁)。

 

このような目的を考えた場合に、他に適当な人物がいるのかもしれない。特に篤胤に言及すると独特の拒絶反応に出会うことがあるという。

 

「ところが、そういうお話をすると「えっ」というような反応が返ってくるんですね。というのも、明治期以降、平田篤胤というのは国家神道の総本山とされ、国学=超保守、あるいは民族主義的な思想の頭目のように見られていて、平田篤胤のことを手本にするのは時代遅れであり、アンタッチャブルだというふうに考えられてきたんです。」(同頁)。

 

そうではないと考える荒俣氏は、篤胤の学問の意義を説く。

「篤胤が関心をもった学問の広がりをもう一度訪ね、その目的を正しく継承すれば、もっと別の未来が開けたのです」(5頁-6頁)

 

対談の中で語られている内容で驚いた点を挙げる。

平田篤胤は、医学の観点から、人体解剖を行っていた。

*米田氏によると篤胤は、『西説医範提綱釈義』『解体新書』などの蘭学医書を読破していた。 人体解剖をしたとこともあるという(『志都能石屋』)。

『古今妖魅考』は、今日の精神病理学が対象とするような問題を扱っていたとして、呉秀三博士が注目していた。

*単に天狗や狐などを扱った研究ではなく、精神病理学的な研究だと思えば、篤胤の先見の明に感動する。なるほど、そういうことだったのか。これまで何故妖怪など研究する人がいるのかと思い、全く共感できなかった。それこそローカルな知で、民俗学的なものだと思い込んでいた。なるほど、確かに精神病理学的なものを対象とした研究だと思えば、篤胤が持っていた知的好奇心や物事に対する畏敬の念が自分なりに見えてきた。

 

宮地正人氏(当時・国立歴史民族博物館館長)「伊吹迺舎と四千の門人たち」(p.100~)

著者の名前は書店や目録などで知ってはいたが、私の目指す方向とは異なる方だと思い、これまで気に留めていなかった。とはいえ、今回このムックに論文が載っていて、次のような問題提起には興味を持った。

 

「戦時中に教育を受けた世代においては、平田国学と聞くと、非合理主義、排外主義といったマイナス・イメージと条件反射的に結合して意識され、生理的嫌悪感は覆うべくもなく強烈である。また常識化された理解では、戦前の国家神道そのものを創り出した張本人として、祭政一致廃仏毀釈も含め平田国学が非難されつづけている」(100頁)。

 

私は宮地氏がそういう方なのかという先入観を持っていたが違っていたようである。そして、とりわけ私の興味関心からすれば次の一節が大事である。

 

平田国学を自己の正統性主張の中にきちんと位置付けて然るべき神社界自身も、現実には「敬して遠ざけ」ており、学術的には本居宣長を強く押し出し、明治期では津和野国学を前面に据え、問題を糊塗している印象を私は強く受けている」(同頁)。

 

私自身の好みからすれば、神社界から知的好奇心と学術的方法論に裏打ちされた堂々たる作品が誕生して欲しい。でも、今回宮地氏の論文を読んでおもしろかったので、今後少し追跡して読んでみようと思った。

 

国立歴史民族博物館の展示「明治維新平田国学」についての読み物がある。

外部リンク:歴博・ほっとひと息・展示の裏話紹介

 

 森岡恭彦氏「平田篤胤と医学」(p.121~)

 本居宣長が医業で生計を立てていた事は知っていたが、平田篤胤に医道の心得があったことは知らなかった。篤胤についていいかがんな本は読みたくなかったので、この年齢までそんな基本的な事実さえ知らなかった。そこで森岡氏のこの論文を見てみよう。

 

論旨

医師たる森岡氏が篤胤の医学について書いている。結論から言うと、「平田篤胤の医学・医療における業績は医学史に残るようなものではない」(123頁)ということになろうが、国学・皇国思想を根底に持ちながらも、役に立つことは取り入れるという点があり、その後の我が国の文明開化につながったとしている。

 

<見出し>

一.篤胤の活躍した時代

二.篤胤の医学

三.医道大意

弟子たちに行った講義『志都の岩屋』(俗称、医道大意)について、「当時としてはかなり高度の医学知識を持っていたことが分かる」(122頁)

四.人体解剖について

『志都の岩屋』は1811年に刊行された。1774年には杉田玄白らの『解体新書』、1805年には宇田川玄真の『医範提綱』などが出版され、多くの医師が読んでいただろう。篤胤はオランダ語を少し知っていたようであるが、直接原書を読んでいたのか分からない。また、篤胤は宇田川玄随が訳した『西説内科撰要』や楢橋鎮山が書いた『紅夷外科宗伝』を読んでおり、オランダ医学に大層興味を持っていた。

五.医師の心得について

六.平田篤胤の残したもの

 

 私はもちろん篤胤が医学の分野で業績を挙げたなどと主張したい訳ではないから、篤胤に医学分野の業績がなくてもよいのだが、それにしても篤胤の知的好奇心は素晴らしい。

 

森岡氏が参考文献として挙げているのは、

石田真「平田篤胤の医学」研究所報 六:17-19、 彌高神社

ということだ(一部略)。

 

このページから研究所報をダウンロードできるようである。

平田篤胤・佐藤信淵研究所 | 厄年祓 還暦年祝祭 彌高神社=公式ホームページ

 その他気になった話題 

中村士「日本の天文学と一貫斎」(『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』所収、p.119~)

中村士(なかむら つこう)氏は、執筆当時国立天文台助教授だった人物である。本論文にも、一貫斎の製作した望遠鏡に関する興味深い解答があった。

 

研究者情報が載っているこのサイトから論文がダウンロードできるようである。

外部サイト:中村 士 - 研究者 - researchmap

*「佐藤一斎の時計研究と幕府天文方との交流」という面白そうな主題の論文もあるということだが、こちらは残念ながらダウンロード対象ではなかった。

 

一貫斎の望遠鏡はなぜ評価されなかったのかという問題に対して、中村氏は「一貫斎の望遠鏡は非常に高倍率(数十倍)」だったからだという(119頁)。

 

えっ?逆ではないのかと思われるかもしれないが、幕府天文方の目的から説明がつくという。

 

渋川春海に始まる幕府天文学は、中国の歴算天文学をそのまま引き継いだもので、当時使われた太陰太陽歴の日月食と惑星位置の予報精度を高めることのみに主な関心を持っていた」(120頁)

 

だから一貫斎の製作した望遠鏡は、高倍率過ぎて視野が狭く、天文方には評価されなかったのだという。なるほど。目的・関心が異なっていても評価されないのだなー。自動車でいうと、スピードがめちゃくちゃ速い車と、歩行者や対向車などを認識しつつ進む自動運転車みたいなちがいかな(???)。

 

「(略)一貫斎が観測した太陽黒点、月の表面、惑星の満ち欠けや表面模様についても、天文方は中国から輸入された漢訳の西洋天文書とヨーロッパからもたらされたオランダ語天文書からの知識としては知っていた。しかし、幕府天文方の業務としての天文学は、そのような暦の改良に寄与しない天文学に興味を持つことを許さなかったし、天文学者としてのプロ意識は太陽黒点や月面模様を正統的な天文学とは見なさなかったのだろう」(120頁)。

 

 

太田浩司氏のコラム「三浦梅園と麻田剛立」(『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』所収、p.142~

国友一貫斎や平田篤胤の天文観や宇宙観を論じるにあたって、比較したくなるのは、三浦梅園であろう。私は二次文献のそのまた二次文献ぐらいでしか知らないが、これがきっかけで、後には引けないと思った。

このコラム自体にそれほど目新しいことが書かれている訳ではないし、梅園の原典などなかなか読めるものではないが、国友一貫斎や平田篤胤の並びに三浦梅園を置いてみたことが読者に対する刺激になるだろう。

私は早速、大学図書館で山田慶児氏の著作などを借り出してきたが、まだ時間がなく読めていない。でもこれがきっかけ。読むぞ。

 

吉田一郎氏「自転車もつくった鉄砲鍛冶」(『江戸時代の科学技術ー国友一貫斎から広がる世界』所収、p.84~)

勝海舟が書いた『陸軍歴史』の中に、「国友勘左衛門や国友大三郎ら十人方の名が多く登場している。十人方のリーダーと目される国友勘左衛門は、幕府の軍事の中枢だった「工部所」にいた。工部所は後に陸軍所になっていく」(88頁)との記述がある。

 

「十人方」というのは、江戸中期以降、江戸に置かれた国友の会所(出張事務所みたいなもの?)の「南鍛冶」つまり「国友の江戸常駐集団」のことだという(88頁)。

 

山岡鉄舟との関係で勝海舟の本を少し読んだが、軍事の歴史系は読んでいなかったので、これをきっかけにつながった。良かった。ありがとう。

 

 

まとめと課題

新聞記事で見たことがきっかけとなり、休日に滋賀県長浜市まで行って、国友一貫斎や国友鉄砲について知ることができた(ついでにフェリーで琵琶湖を走った)。新聞記事に触れてあった一貫斎と平田篤胤との関係をより詳しく知ることもできた。これまで山田孝雄氏『平田篤胤』以外読むことはなかった平田篤胤について、深めていくきっかけとなった。私は自分流の言葉で言うと、ルネッサンス的人物としての平田篤胤に強く興味を持った。国友一貫斎を知ることで、平田篤胤についての知識を深めることができたのである。

 

決して恵まれた環境ではなかった中で、これだけの学問業績がある平田篤胤。現代みたいにきっちりとしたカリキュラムで子供の時から教育を受けられた訳でもなかったのに。自分も大学の研究室や研究機関に所属していないからといって、めげるのではなく、自分のやりたいこと、本当に価値のあること、自分の信じる者を追求する気持ちが、再び湧いて来た気がする。

それだけでも一連の行動に意味があったわけだ。そして、少数ながら読んでくれている方もいる。これは励みになる。

 

 

 <これからの課題>

「科学」と「科学技術」とのちがい。

ビジネス書の棚で、政経に関する本がよく置いてある副島隆彦氏などは『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房、1998年)の中で、アメリカの社会科学について述べた後で、我が国の産業技術(1980年代後半から1990年代あたりを念頭においているのか?)について次のように述べている。

「だから、本来ならばヨーロッパやアメリカで築かれた本物の学問(=科学)の前にはいつくばって、ひれ伏していなければならなかったはずの、この日本と言う東アジアの島国が、テクノロジー(これは「科学を生産に応用したもの」という意味でアプライド・サイエンスと呼ばれ、本当は科学よりもずっと下の方にある応用学問だ、と欧米社会では伝統的に考えられている。このテクノロジーを司る人々がエンジニア」)」(99頁)

文脈をすっ飛ばして引用しているから、何のことか分からないと思うが、要するに「テクノロジー」は「サイエンス」よりも劣っており、日本にあるのは「テクノロジー」であって、神やこの世界に対する考えといった世界観を伴った「サイエンス」ではないということだと私は理解している。

 

このような考えを前提とした時、果たして国友一貫斎を「サイエンティスト」と呼べるか否かが問われるだろう。篤胤についてはどうだろうか。「サイエンス」とは異なるが、世界観の持ち主であったことはたしかだろう。だから、国友一貫斎を「サイエンティスト」と言うためには、平行して平田篤胤を研究すると有益だろう(人に言う前に、自分でやればいいのだが・・・)。

 

日本にあったのは「技術」なのか、「科学」なのか。このあたりは村上陽一郎氏などの科学哲学者らの著作を参照して、考えて行きたい。

 

科学哲学者の村上陽一郎は最近講談社学術文庫に入った若き日の本『日本近代科学史講談社、2018年)で「アジアには「技術」だけがあって、「科学」は存在しなかった、という言い方は、誤解を招きやすいし、それが正しいかどうかを容易に判断できるほど、アジアの思想の歴史的解析が進んでいるわけではない」(26頁)と言っているのだから、昔からこのような見解が主張されたのであろう。どう考えれば良いのか。「哲学」にも言われうる問いだろう

 

・軍事技術の果たした役割と現代の社会

 ・司馬遼太郎街道をゆく』シリーズへの導入

勝海舟『陸軍歴史』:国友の十人方の記述

勝海舟全集への導入

・西洋列強との出会い(戦国時代と幕末)

長篠の合戦などの戦国時代

⇒既に始まっていた西洋との接触キリシタンなどとの接触

野口武彦氏『江戸の兵学思想』の再読への誘い

荻生徂徠新井白石兵学と銃

 ・三浦梅園をしっかりと読む。せめて、解説本でもいいから。

 

さまざまな課題が浮かび上がってくるよい勉強になった。(完)

 

 

 

I want to say thank you, anyone who read the article, especially from oversea.