Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。日本でのアニマルウェルフェアの推進に賛成します。

大森曹玄翁の大河 五 「源泉」はどこに・・・。

●「源泉」はどこに・・・。

前回、鈴木大拙氏が合気道開祖植芝盛平翁に言ったとされる言葉を引用した。

そして、偶然この時代、この国に生まれたとはいえ、私たちの文化の「源泉」を大事にしたいと私は書いた。そのために大森曹玄翁の生き方、書くものを見るのであると書いた。

とはいえ、その「源泉」にはどのようにして辿りつけるのだろうか。ここにひとつの問題がある。 

 

大森曹玄翁とほぼ同じ時期に活動した人物として葦津珍彦(あしづ うづひこ)氏がいる。葦津氏は明治42年(1909)の生まれであり、平成4年(1992)にお亡くなりになった。福岡にある筥崎宮の社家の生まれであり、戦前は東條内閣にも批判的な志士的活動で知られ、戦後の神社本庁の設立へ重要な役割を果たした人物である(神社新報社編『神道人の書』、神社新報社、平成十年、211頁参照)。曹玄翁は明治37年の生まれであり、平成6年に遷化されたから、曹玄翁と活動時期がほぼ重なる志士的人物である。

 

私が十代の頃、呉智英『読書家の新技術』の読書案内の項において、葦津氏の西郷隆盛『永遠の維新者』でその名を知った(もっとも知ったのは名前だけであって、いまのように再刊されていなかったので、すぐ手に入らなかったし、当時はまだ洋楽好き全盛の時期だったから、読みたいと思うほど「成熟」していなかった。いまも人間的には大して「成熟」していないが・・。手に入れたのは、二十歳を超えてから古本屋によってである)。

 

その葦津氏の『葦津珍彦選集(三) 時局・人物論』神社新報社、平成八年)を読んでいたときに気になる一文を見つけた。この本には一群の人物論が収められているのだが、「小野祖教大兄の追想」と題する一文の中で、戦後すぐの神道に対する風潮に関連して述べたのが以下の文章である。

 

「当時は「神道を犯罪視する」暴論が全社会に満ちてゐた。そのころ国際的にも有名だった、仏教学者鈴木大拙博士が、頻りに神道抹殺論を書きまくって、神社人をおびやかした。長谷総長が、小野さんに講義討論を望むと、早速おしかけて猛反論をした。この論戦は故人の生涯の想出らしかった」(「小野祖教大兄の追想」、642頁)。

 

「残念だが、そのころのことだし録音記録はない。小野さんは論破したと満足してゐたが、国際的な老碩学と、少壮学者の討論が、「論破」の程度がどうだったが、私は必ずしも保証しない」(同頁)。

 

「しかし神道指令の法解釈については、少壮の小野さんが断然勝ったのは確かだ。時代の権勢情勢を有利と思って安易に放言する碩学よりも、権力に圧せられて苦心研究に努力してゐる少壮学者の法理論が、一対一の場合に勝のは、世の通則といっていい」(同頁)。

 

「その後の老学者の度を越した放言が慎重、穏やかになったやうだ。この類の神道防衛討論は、熱心な神道人が到るところで努力したが、小野さんがその中の雄の一人だったのは確かだ」(同頁)。

 

小野祖教氏についても興味があるのだが、ここでの難問は、一般的イメージとしては、禅を通じて欧米世界に日本の文化を紹介した人物とされる鈴木大拙氏と、戦後の神社神道憲法・歴史に関する言論活動をした葦津・小野氏ら神道を奉ずる人々が対立しているという点である。

 

鈴木大拙氏と神道との対立については、平泉澄氏の『先哲を仰ぐ』錦正社、平成十年)という講演録などが収められている文集にも現れている。

 

平泉澄氏と言えば、一般には「皇国史観」という言葉で知られているだろうが、私はその著『少年日本史』を読んで以来、氏を重要な人物であると考えるに至った。『少年日本史』は、私が子供の頃から求めていた日本史像に一番近いものであったからだ。

 

昭和51年に伊勢で神主に向けた講演「神道の本質」にその問題は登場する。この時、平泉氏は数え82歳であったという(559頁。解説)。昭和51年と言えば、私が生まれる以前の年代であるが、これまでに大人になってからでも伊勢には3回ほど行ったと思う。

 

「私は北国の山の中の神社の神職の家に生まれました」と自己紹介する(452頁)。

平泉澄氏は、福井県白山神社の神主の家系である。ちなみに私は普通のおっさんです。

 

「自分の果たさなかつたこといろいろございますが」と氏がいまだ果たせなかった課題を挙げる(453頁)。それは何だろうか。

 

神道に対し、或いは神社に対し、神職に対し、いろんな反対意見、或いは侮蔑がございます。西洋哲学の方面より、或いは東洋哲学の方面より、その他より、いろいろな非難がございます」(同頁)。

 

神道とは何であるか、ありや何事だ、かふいう声が聞こえるのであります」(同頁)。

 

「なかんづく鈴木大拙氏が ー御承知のとほり西田哲学の、何といひますか西田さんの親友として有名な学者でありますが、神道といふものはなんとかならぬものか、かう言つて、神道霊性のないこと、単なるお祭りさわぎに過ぎないといふことを痛罵してゐる」(同頁)

 

「これに対して私は、まだこれにこたへる機会なくしてきてをりますので、この機会に、もつぱらこの問題について皆さんとともに考へたいと思ふのであります」(同頁)

 

と言い、このあと2日間にわたり、和気清麻呂菅原道真源実朝明恵上人(ただし仏教・華厳宗)、北畠親房山崎闇斎渋川春海、橘曙覧、真木和泉を挙げ、「誰一人として安穏な生活を送つた人がいない」(501頁)ということを説き、鈴木大拙氏の非難を甘受するいわれはないことを明確に主張する。

*80代を超えて、誠実な姿勢だと思う。

 

鈴木大拙氏といい西田幾多郎氏といい、日本の文化や思想について興味を持ち、何らかの感触を得たいと思うものなら、意識せざるを得ない人物だろう。一方で、葦津珍彦氏や平泉澄氏らも日本の文化や思想を伝えてくれる人物なのである。明治以前からの思想も含めていまに伝えてくれる人物なのである。

 

大森曹玄翁の志士時代の交友からすれば、葦津氏らに近い立場だったのかも知れない。一方、翁の『臨済録講話』(春秋社、昭和58年。ただし、原著『臨済録新講』は昭和41年に黎明書房から発行)には鈴木大拙氏の序文がついている。(昭和41年は臨済禅師の、正当千百年忌に当たっており、鈴木大拙氏の推薦ならばという「下心がなかったとはいえない」と「あとがき」に書いてある)。大森曹玄翁は、独自の立場に立っていたのだろうか。

 

このような対立を解きほぐし、私たち日本人とは何者か、どのような理想の下に生きるべきかを明らかにしたかった。いまの私にできることは限られている。だが、曹玄翁のことを書くことで、その探求の証を残したい。

 

追記

小野祖教氏について。小野祖教氏について知っているのは、国学院大学の教授であることと、神社本庁の講師であることである。また神道系の出版物を出していることも知っている。葦津氏の上掲書によれば、民族的な情熱を持った哲学者・松永材氏の弟子とのこと。

 

かつて通訳案内士の試験を受けた際に、TUTTLEという出版社から出ている”Shinto:The Kami Way”という本を購入して少し読んだぐらいである。ちなみにこの試験は、落ちたので、もう撤退したのだが、最近の「インバウンド」などで、同書の需要は上がっている可能性もある。 

Shinto the Kami Way

Shinto the Kami Way

 

 

一方、鈴木大拙氏は斎藤兆史氏の『英語達人列伝』によれば、「日本仏教のなかで、およそ禅ほど海外に知られた教派はない。それは禅そのおのの魅力もさることながら、鈴木大拙という一人の卓越した仏教学者によるところが大きい」(斎藤兆史『英語達人列伝』中央公論社、2000年、78頁)。

 

もっと適切な本もあるだろうが、手元にある本のなかから差し当たり同書の一文を紹介した。

 

(まとめ)

私が探求していることは、日本人たる私自身の探求に加えて、外国人が「日本」や「日本人」とは何かを探求する際にぶつかる問題かも知れない。だが、ヒントとなるものが見つからずにやり過ごし、人生を終えていくかも知れないような問題である。

 

私の探求には特徴がある。日本の「源泉」の探求と英語(ないしは「グローバル」なもの)とのリンクである。ブログを書いていて見えてきた。自分の源泉を掘り下げる過程で、英語にも出会うのである。

 

残りの人生を有意義に過ごしたい気持ちはある。だが、どのようにすればいいのだろう。仕事についてもっともっと考えないといけない。一日中興味のない仕事に時間を奪われたくない。しかし、自分の探求だけで生計を立てていくことはできない。でも、残りの人生を、いまのような仕事(というか作業)に奪われたくない。そのためにTOEICとかを受験するのだけど、ちっとも勉強せずに、上のようなことを考えている我。

 

(つづく)