Book Zazen

書評を中心に自分の好きなことを詰め込んだブログ、光明を失った人生について書き残しておきます。

紹介 呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫、1987年) 連載⑤ 山本七平氏の『論語の読み方』批判

5.山本七平論語の読み方』ー会社の採用試験の参考にする『論語』(77頁) 

本節では、山本七平氏の『論語の読み方』が批判される。例によって、本文を私の言葉でまとめ直し、紹介する。

①山本文明論のイデオロギー性(77頁)

呉氏による山本氏の理解をまとめると以下のようになる。

・山本は谷沢の師にあたる。

・谷沢論語と同一線上の著作である。

・山本の論語の読み方は「社会人を作る」ことを目標としている。

 ・山本の現状認識:江戸や明治にはあった共通の規範・古典を失い、無規範人間が増えている。だが、先進工業国(その中のニューヨーク)と比べて日本が安定を保っているのは、「『論語』的なもの」が底流にあるからである。

 

これに対して呉氏は、

・古典的教養が崩れているという認識は同じ。というより、そんなこと誰にでもわかる。

・山本の比較文化論は「いかがわしい」。なぜなら、ニューヨーク以外の都市と比較できていないからである。比較したら、山本の主張が成り立たないことがわかるだろう。比較対象の選定が自己の立論に都合よくなされている。

・日本社会が無規範社会にならないのは、社会の基底に『論語』があるからだというのは断定に過ぎない。

 

と反論する。

 

山本氏による『論語』評価の意図を、呉氏は以下のように見ている。

・『論語』は戦後民主主義にによって否定された。封建的だとされたからである。

・誤解を解けば分かるように、孔子は規範社会の成立を説いた現実主義者である。

孔子は伝統が培ってきた共通の規範を持っている信頼感=「信」で結ばれる社会を目指したのであり、それは現代にも完全に有効である。

孔子が否定しているタイプをあげてみると、時代と民族を超えて、現代の日本にもあてはまる。ある会社からは採用試験の基準の参考にしたいという声があった。

孔子は悟りを主張しない。偉大な社会人。「理想を持ったリアリスト」。空想的な理想主義者た社会主義者、革命賛美者ではない。

⇒だから読み継がれるべきなのだ。

 

これに対して、呉氏は「規範的秩序への理想」をもったリアリスト孔子、世俗の人孔子という「誤読」も『論語』が読まれない原因の1つであると主張する(82頁)。

 

そして呉氏は、山本氏が取り上げなかった参考文献があると指摘する。それが白川静孔子伝』であるという。

 

山本七平が黙殺しようとした孔子像(83頁)

 呉氏は、社会の変革者が論語に依拠してきたと指摘する。

「「社会人作り」を目指したというような『論語』や孔子であったなら、何故、支那・朝鮮・日本で(そして、ベトナムなどでも)二〇〇〇年もの長きに渡って、変革者が『論語』に依拠したのだろうか」(83-84頁)

 

「もちろん、「社会人」が自らの倫理として『論語』を読むことはあったし、そういう読み方に耐えるものでもあった」(84頁)。

 

しかし呉は『論語』を道徳訓や説教書と区別するのである。そして白川静孔子像を共感をこめて紹介する。

 

  白川静孔子は挫折した理想主義者

 ・孔先生がおっしゃった「理想を求めて生きる人は、生命を惜しんで、人間たることをそこなうことをしない。身を殺して仁を成すのだ」と。(衛霊公篇・九)

・孔先生の言葉に「朝、真理を知れば、夕方死んでも生命は惜しくない」。(里仁篇・八)

孔子の車の前を世捨て人の接輿が通りかかった。接輿は皮肉家であったから、孔子の理想主義が現実化しないことを風刺歌に歌った。「理想の治世に舞い出る鳳凰とは、孔さんよ、あんたのことかい。ああ、鳳凰よ、鳳凰よ、こんな世の中に舞い出てどうするんだい。これからだって遅くない。やめちまえ。やめちまえ。政治に理想を求めるのは」。(微子篇・五)

 

 

この後、谷沢氏の所でも触れられたが、山本氏のところでも同じことが指摘される。

それが「呪的世界の転換点に生きている古代人・孔子」像の問題である。

 

「古代文字学の最高水準のものを獲得している白川静は、単に理想主義者・革命者であるのではない孔子の側面にも目を向ける」(85頁)

 

「夢に周公を見ず」という例をあげて、古代人としての孔子が論じられるのだが、このあたり私にはよくわからない。白川氏の『孔子伝』を読めばいいのだろうか(ある程度読んではいるのだが・・)。

 

「もっとも、白川静孔子伝』では、可能性以上の形では、呪的世界に生きる孔子像は描かれていない。むしろ、その『初期万葉論』に、呪的世界の再現の本領が見られる」(85頁)

 

『初期万葉論』はあくまでも、万葉集に関する論であって、『論語』に関係していないから、直接的な論証になっていないように思われる。ではどうするのか。 

 

 マンガを本格的に論じる評論家たる呉氏らしく、呪的世界の孔子像を「文字どおり絵に描いた」 作品を挙げる。それが諸星大二郎氏の『孔子暗黒伝』であるというのである。

 

この作品について呉氏は、次のように述べる。

「その荒唐無稽・奇想天外なこと比類がなく、そこに描かれたものは、何一つ、事実ではないといっていい。しかし、その孔子像は、読者が受ける印象として、一つの真実であるとしか言いようがないのである」(86頁。青字は元は傍点)。

 

「我々が知っている公認の教養の外の世界もある時代や条件の下では公認性を持ちうるのだということを暗示しているから真実なのである」(同頁)。

 

と、『読書家の新技術』冒頭の教養論にも接続させている。 「公認の教養の外」とはどのようなものだろうか。主として目に見える世界以外のことを念頭に置いているのだろうか。まだ分からない。

 

谷沢氏や山本氏の論語論について呉氏は言う。「そこに描かれる孔子像や『論語』像は、会社の就職試験のチェックポイントの参考になるにふさわしくても、つまりは、たかが性格・適性検査の代用品でしかないのだ」(86頁)。

 

思想にこだわり、学生運動経験があって就職の見込みがなかった呉氏。大学を出て、社会を見渡せば、思想性を骨抜きにされた『論語』が会社文化の中で社会人養成などに使われているという嫌悪感があったのだろう。

 

「そんなことのために、我々は、はたして古典を読まなければならないのか。読書をしなければならないのか。読書の喜びや読書で得るものは、そのようなものであるはずはない」(86頁)。

 

現在の私にとって、真に共感できる言葉である。