安岡正篤氏は陽明学者であり、東洋の政治哲学を説いた賢人である。
その著作『人間の生き方』(黎明書房、2006年)の「人物・時世と学問・教育」の「付」の「学生憲章」の六に次の言葉がある(巻末の初出一覧によると、は昭和44年の講演のようだ)。
「講説の師は得易いが、人間の師は逢いがたい。真の師を得ては灑掃の労をも厭うべきではない」(230頁)
先日、本屋でかねてより名前の聞いたことのある同年代の人の著作が置いてあった。
あとがきを見てみると謝辞に、私は面識はなかったのだが、有名な学者の名前が挙げられていた。
なるほどあのような人に学生時代から、鍛えられ、アドバイスを受けていたのであれば、難しい本も読めて、難しい概念も自由自在に使いこなせるようになるだろう。
それが著作に結びついて今日の結果があるのだろう。
しかし学生時代、自分はそのような群れには入らなかったし、入りたくはなかった。
それは安岡氏のこの言葉にあらわされているような姿勢を信じていたからである。
それは本当に「人間の師」なのか? 単に「講説の師」ではないのか?
自分は「講説の師」を「人間の師」と勘違いして近寄ったりはしなかった。
今の姿がどうであれ、それだけは言えるのである。
学生だけじゃなく、どのような人も「講説の師」を「人間の師」と勘違いしてはいけない。「講説の師」に頼ると、弁が立つようになるし、一見したところ、頭がよく、議論が強くなるように見える。
反対に、「人間の師」を求めている人は、耳から聞いたことを、すぐに議論で持ち出し、相手をやっつけたり、人に誇示したりはしない。したとしても正当防衛の時だけだ。そもそも、「人間の師」には出会う機会が少ないのである。また、「講説の師」は自分に心酔しない者を、愚鈍なものと勘違いし、なびかない者にいらだつだろうから、心酔しないとうとまれるのである。
だが、絶対に勘違いしてはいけない。「講説の師」と「人間の師」とはちがうのである。